「こどもの詩」の本当の作者は?

こどもの詩というジャンルがある。
最近気に入ったのはこれだ。

 かたぐるま
          (新島 花穂)

 かたぐるまって
 ソフトクリームみたいだよね
 かほがアイス
 おとうさんはコーンだよ

     (埼玉県鴻巣市・
      どんぐり保育園5歳)

 読売新聞「こどもの詩」(平田俊子選)より(2023/7/14)

「アイスをしっかり支えてくれるコーン。大事な存在ですね。」という平田さんのコメントも良い。


こういう詩を読んでいると時々思うのだが、
この詩の作者は本当のところ誰なのだろう?

この子(新島花穂ちゃん)が、この四行の文字列をまとめたのではないはずだ(5歳なので絶対あり得ないというわけではないが)。

おそらく親など、傍にいる大人がこの子の生の言葉を記憶して代わりに書き、詩の形に整えているのだ。

たいていの場合は、子供から発せられたイノセントな言葉の断片に大人が驚き、その感動が、その大人によって言葉に定着されたというものだろう。

その際、たった一つの単語や、助詞の選び方の違いによって、大人の先入観や願望などが紛れ込んでしまうということも大いにあり得るだろう。

そんなことを考えながら、思いだしたのは次の詩だ。

 ぼくのした
 「うごけっ」と、
 ぼくがめいれいしたときは
 うごいたあとだ。
 ぼくのしたをぼくよりさきに、
 うごかすのは、
 なにや。

 しまだのぞむ「ぼくのした」石川県美川町 五歳
 (『きりん』一九五四年四月号/第六九号)


この詩を最初に見たのはいつだったか正確には覚えていないが、
心理学や哲学の世界で有名な、ベンジャミン・リベットの実験による
「何かをしようと意識するよりも、0.何秒か先に脳の活動が始まっている」
という発見のことは、どうしてもまず連想されてしまう。

この詩を紹介していた扉野良人氏に、ツイートでそのことを伝えたら、
「この詩を読んでリベットの実験を思い起こすという指摘をしたのは徳山さんで2人目です」
と言われた。

やはりそう思う人はいるのだ。当然だろう。

だがしかしだ。
もうちょっと慎重に考えてみたい。

この詩は本当に、作者とされている子供(しまだのぞむ君)が感じた通り言語化されているのだろうか。
ひょっとすると本人の感じたことに近いのは、次のような表現の方だったのかもしれない。

 ぼくのした
 「うごけっ」と、
 ぼくがめいれいするまえに
 もう、うごいている。
 ぼくのしたをぼくよりさきに、
 うごかすのは、
 なにや。

ほとんど同じだと言う人は多いかもしれない。
しかしよく吟味してみるとかなり違う。
後者の方が、我々も時々感じている実感に近いのでないか。
そして、ベンジャミン・リベットの実験はこの場合考慮しなくてもよいのではないかという気がする。

意識から舌への命令が、動作の後から行われた、というのが前者。
意識からの命令がなくても、舌は勝手に動く、というのが後者。
後者の場合は、命令自体はなくても成り立つ。

無意識に舌は動くことがあって、そのことを意識(ぼく)が不思議だと思う。
そういうことであれば、不思議は不思議だけれども、まあ、誰もが感じるレベルの不思議だ。
リベットの実験が指摘している問題とは、種類が違う。


しまだ君の発した言葉の、大人による採録は、はたして正確だったのか。

それとも逆に正確だったからこそ、あのような表現になっているのか。
そのことはもう確かめようがない。

そして詩としての魅力がどちらの方によりあるのか、というのもまた別の話だ。

こどもの発言を書き起こす際、大人が意図せずして(それこそ)、本人の言葉+アルファの文章を生成してしまい、
それが偶然にも(いや意識を超えた何かがそう書かせたのであれば単なる偶然と言い切ることはできない)
思わぬ解釈の生まれてしまう言葉の芸術を生み出してしまうということはあり得る。

もしそうだった場合、
いや、そうだった場合に限らない。
「こどもの詩」の作者は誰なのか、というと、これはやはり、それを書き起こした大人だと考えるのが妥当なのではないか。

しかし、だ。それでも「本当の」作者はとなるとまた少し迷うことになる。

こうした状況は、「AIの生成した文章を選択し加筆修正して創作物として発表する」という行為をどうしても思い起こさずにはいられない。

そして充分に発達したAIは今後、「こどもの詩」における「こども」の立ち位置に限りなく近くなっていきはしないか?
そんな気もしてくるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?