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Obbligato:社内報に見る「東映の支柱」⑧

「背景係さん」(社内報『とうえい』1961年4月28日発行第40号)「裏方さん」(1960年4月発行第27号)

 今回も引き続き「東映の支柱」をお届けいたします。「背景係さん」です。背景は、装置(大道具)部門の中にあり、一言でいえば「絵描きさん」です。
 記事の中にありますように、主な仕事は、ホリゾントというステージの側面の壁に外の風景を描く仕事、襖絵などセット内の装飾絵画を描く仕事、あと、京都撮影所(京撮)では揮毫(毛筆で文字を書く仕事)なども行っています。

1961年4月28日発行 社内報『とうえい』第40号
1961年4月28日発行 社内報『とうえい』第40号
1961年4月28日発行 社内報『とうえい』第40号
1960年4月28日発行 「裏方さん」社内報『とうえい』第28号 京都撮影所背景班

 時代劇映画全盛の頃、京撮の背景班に宇野正太郎という伝説の名人がいました。
 1906年、大津の三井寺近くの乾物屋「うのき」の店主、宇野喜三郎の長男として生まれた宇野は、京都市立美術工藝学校(現・京都市立芸術大学)を中退して日本画を山元春挙画塾「早苗会」、書を山本竟山に学びました。
 画塾卒業後は染料で着物の柄を描く仕事に就いていましたが、釣り好きの伊藤大輔監督と知り合い、監督の誘いで1927年8月日活大将軍撮影所に入所します。しかし、1931年に日活太秦を退所して再び絵画に専念しました。
 そして1941年、再び太秦の日活に戻り、翌年合併改組した大映に嘱託として入社、背景描画、タイトル執筆を担当します。
 そのまま大映で戦後を迎えた宇野は、黒澤明監督『羅生門』の題字、セットの扁額などを書きました。また、溝口健二監督『雨月物語』『新平家物語』、衣笠貞之助監督『新平家物語 義仲をめぐる三人の女』『源氏物語 浮舟』など名だたる監督の数多くの作品で襖絵などを手掛けました。
 そこでのいくつかの逸話が伝わっています。黒澤作品のタイトルバックで「金箔に本物の金を使いたい」と言われて相談を受けた宇野は本金に見える紙を容易して代用、黒澤監督に「これや」と言わせました。『新平家物語』では、友人の名カメラマン宮川一夫に「本物の岩絵の具の群青を使ってくれ」と言われましたが、本物の岩絵の具は高価なので泥絵の具で色をあわせてそっくりの感じを出し、宮川に「やっぱり本物はええなあ」と言わしめたとか。へそまがり名人伝説ですね。
 本当の話かどうかはわかりませんが、宇野が描いた横山大観の模写を大観本人が見て、これは自分の絵だと言ったという噂もまことしやかに撮影所内で伝わっています。そんな名人だから引く手あまたで松竹からも頼まれて襖絵などを描いていました。
 そして、1954年4月、宇野は東映専属契約を結び京都撮影所に入所します。この年の1月から東映娯楽版を公開し、2本立ての量産体制に入った東映では、時間に追われながら時代劇が次々と撮影されており、描くスピードが早く達者な宇野は、セットの襖絵、題字、タイトルを黙々とこなしました。
 美術デザイナーの井川徳道さんは、「宇野さんは、生まれつき絵描きとしての才能があった。天才でした。普通の人ならまずデッサンをしてそれをなぞるように描くのでしょうが、宇野さんは、たとえば鷺(さぎ)を描くとするとその生態まですっかり頭に入っていて、下絵なしで一気に描きあげた。宇野さんの鳥は、いまにも飛び立ちそうやった。」と話し、「江戸城の白書院の襖絵で、撮影に間に合うかどうかいうてたときに、『雪と枯れ木と鳥』みたいな絵を下絵なしに一筆でさっと構図を描いて、助手を1~2人使いながら着色して、1~2時間で仕上げましたわ」と、宇野を絶賛しています。

宇野正太郎襖絵

 その助手を務めた息子の宇野龍之介さんは「(父は)感じを出しながらいかに早く描けるかということをずっと考えていた。」と話しています。
 早描きについても井川さんは、「下手な人が手を省いたらあきませんよ。上手な人が手を省くというのは、また違う意味なんですね。」と述べ、「しもたやや遊郭、襖絵は全部違いますよね。デザイナーが『こういうの書いてくれ』って言いにいくと、もう全部わかってはる。ですから、もうお任せですよね」と宇野の考証についての知識の豊富さも語ります。

 絵だけではありません。内田吐夢監督『血槍富士』『宮本武蔵』を始めとする東映時代劇映画の題字やタイトルの多くは宇野が手掛けました。確かに、東横時代のタイトル字と東映時代劇映画全盛期の題字、タイトルクレジットの字は全く違い、格調の高さがあります。オープニングから、知らない間に、文字で観客に作品の質の高さを示していたと言えるかもしれません。

内田吐夢監督『宮本武蔵』シリーズ題字

 そして、映画だけではなく、テレビの『桃太郎侍』などの題字、タイトルクレジット、『水戸黄門』のタイトルクレジットなども宇野さんの作品です。 

 背景係では木下清輝宮内省吾などの名前はタイトルにありますが、名前が出るのをいやがった宇野の名が記載されている作品はほとんどありません。しかし実際は多くの襖絵、題字、タイトルを書いており、撮影所を離れてからも、自宅で題字、タイトルを手掛けました。『仁義なき戦い』の題字も元の字は宇野が書きました。

深作欣二監督『仁義なき戦い』題字

 宇野は、東映の名デザイナー鈴木孝俊とは仲が良く、よく祇園に飲みにつれて行ってもらっていたそうです。また、美術工藝学校の先輩で同じく太秦の三つの撮影所に出入りしていた衣裳考証家甲斐荘楠音もよく宇野の作業場に来ていたと聞きます。
 宇野は京撮の京都市立芸術大学出身者が集まった「はみだし会」に参加し、デザイナーの井川さん、後に映画村で活躍する矢田精治、悪役俳優で有名な吉田義夫、そして甲斐荘たちとの楽しそうな宴会の写真が残っています。

「はみ出し会」左側2列目吉田義夫、その隣の和服姿宇野正太郎、中央に笑顔の井川さん、右側、最前列坊主頭の甲斐荘楠音、最後列の矢田精治

 龍之介さんによると「晩年は家にいましたが、寺町の額縁屋に頼まれて、色紙や掛け軸や短冊などに絵を描いていました。ちょっと変わったものもあったし、常識的な梅に鶯とかもありました。死ぬまぎわまで絵を描いていました。手の震えは最後までなかったですね。わしが起きたら毎朝描いとんねん。『わし、仕事が好きや』とか言うて」だったそうです。

  1995年、阪神大震災のあった年の3月、京都で開催された第18回日本アカデミー賞において、親子で協会特別賞」を受賞しましたが、宇野は老衰で入院中のため、龍之介さんが代表して受け取りました。「もつかどうかと思っていましたが、何とかもちこたえて、もらったもの(賞状や記念品)をもって鈴木孝俊と一緒に見舞いに行ったら、ぼうっとしながらずっとそれを見ていました。それが最後になりました。」と、龍之介さんは語ります。

 岡田裕介が社長時代、宇野の映画企画を考え、京撮に当時83歳の井川さん、76歳の龍之介さんを訪ねて来られ、その時の奈村協京撮所長も交えてヒアリングをしました。
 裕介社長は、父の岡田茂名誉会長から宇野について「天才」「とにかく早い」「一晩で背景を描いた」と聞き、興味を持ったそうです。
 宇野の映画は成立しませんでしたが、今回の記事はその時の話を中心に、私が龍之介さんにインタビューしておうかがいした話も加えて書きました。

 『柳生一族の陰謀』の背景を担当し、晩年の宇野の助手を務めた平松敬一郎は宇野が描いた襖絵を丹念に写真に撮って見本帳を作りました。それは、後任背景責任者の西村三郎から代々の背景担当者に受け継がれています。

 また、書の見本帳は龍之介さんが引き継ぎ、その筆耕技術は父を越えたと言われました。大ヒットゲーム『鬼武者』の題字は龍之介さんの書です。書の見本帳も彼の弟子に引き継がれています。

平松敬一郎が残した宇野正太郎の襖絵写真