見出し画像

52. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」

第5節「東映娯楽時代劇黄金期の名監督 佐々木康」

佐々木康(やすし) 歌謡映画の名匠ズーさん

 1908年1月、秋田県の大地主の家に生まれた佐々木康は中学時代に映画に興味を持ち、1926年法政大学文学部予科に入学すると早速に映画研究会に所属しました。

 1928年、本科国文科へ進みますが、松竹キネマ蒲田撮影所に行き、清水宏監督の書生になります。清水監督からは「ズー」と呼ばれ、朝から晩までつきっきりでお世話に明け暮れました。翌1929年に大学を中退すると、松竹に助監督として入社小津安二郎監督の『大学は出たけれど』に助監督として付き、以降小津組で働きました。

1929年9月松竹蒲田『大学は出たけれど』小津安二郎監督・高田稔主演

 1931年、小津組のチーフ助監督だった佐々木は、自ら脚本を手掛けた『受難の青春』筑波雪子主演、を演出。助監督籍のまま二十数人抜きの監督デビューを果たします。
 その後、清水組に助監督として付きながらも、監督としての仕事も重ねて行き、1935年8月公開、多くの女性の涙を誘った『真白き富士の根』の大ヒットで、ようやく正式に監督として契約を結ぶことができました。そして、翌1936年1月公開のメロドラマ『悲恋華』を監督籍として初演出しました。

1935年8月松竹『真白き富士の根』佐々木康監督・本郷秀雄主演
1936年1月『悲恋華』佐々木康監督・奈良真養主演

 トーキー映画時代になり、佐々木が作曲家万城目正とコンビを組んで手掛けた、1938年4月公開『蛍の光桑野通子高杉早苗高峰三枝子、三人の人気スター出演の音楽映画が大ヒット。続けて、万城目とのコンビで、8月純情哀詩 宵待草』、10月故郷の廃家』と高峰三枝子主演の歌謡映画を監督し、大ヒットを重ねます。

1938年4月松竹『蛍の光』佐々木康監督・桑野通子主演

 そして、1939年8月に公開した、レコード会社コロムビアとの提携作品、高峰三枝子主演『純愛二重奏』が大ヒット。佐々木は歌謡映画のヒットメーカーとなりました。

1939年8月松竹大船「純情二重奏」佐々木康監督・高峰三枝子主演

 また、戦争が激しくなる中で、職人監督佐々木は芸術監督たちが嫌がる国策映画を引き受け、1940年4月公開田中絹代主演『征戦愛馬譜 暁に祈る』では中国ロケも行い、万城目も音楽を担当、伊藤久雄が「ああ あの顔で あの声で」と唄い出す主題歌暁に祈る』は大ヒットします。

1940年4月松竹『征戦愛馬譜 暁に祈る』佐々木康監督・田中絹代主演

 1942年には満州にわたり満映と共同で李香蘭主演『迎春花』を監督、そこで初めてマキノ満男坪井与らと出会いました。この映画も大ヒットし、その後も1943年9月公開『愛機南へ飛ぶ』や1945年4月公開笠智衆主演『乙女のゐる基地』などを監督し、終戦を迎えます。

1943年9月松竹『愛機南へ飛ぶ』佐々木康監督・奈良真養主演
1945年4月松竹「乙女のゐる基地』佐々木康監督・笠智衆主演

 佐々木は、戦後すぐに第1作、1945年10月公開『よそかぜ』を監督。この作品はGHQ検閲第1号映画であり、サトウハチロー作詞、万城目作曲の並木路子が唄った主題歌『リンゴの唄』は大ヒットし、終戦直後の日本を現す曲として今も歌い継がれています。

1945年10月松竹『そよかぜ』佐々木康監督・上原謙主演

 1946年5月公開『はたちの青春』ではGHQ本部に呼び出され、CIE(民間情報教育局)映画演劇課長のデビッド・コンデから接吻のシーンを必ず入れることを厳命されます。大坂志郎、幾野道子によるキスシーンを撮影したこの映画は、日本の接吻映画第1号と宣伝され、公開日の5月23日はこれ以降「キスの日」となりました。

1946年5月松竹「はたちの青春」佐々木康監督・河村黎吉主演

 その後、組合の副委員長に選ばれたかと思うと会社から製作部長の就任を依頼されるなど労働運動に振り回されながらも、1948年正月映画『懐かしのブルース』を万城目と組んで監督、高峰三枝子主演のこの作品は狙い通り大ヒットしました。

1948年1月松竹『懐かしのブルース』佐々木康監督・高峰三枝子主演

 続いて、佐々木万城目高峰のトリオで、1949年4月公開『別れのタンゴ』、1950年4月公開『思い出のボレロ』、12月公開『情熱のルムバ』と歌謡映画を連打し、いずれも大ヒットを記録。
 佐々木は、娯楽映画監督として、戦争で疲れた人々に希望を与える明るいメロディーに乗せた歌謡映画を届けました。

 1952年、佐々木は、市川右太衛門の松竹映画出演とのバーターとして、東映京都撮影所にて、8月公開片岡千恵蔵主演現代劇『暗黒街の鬼』を監督します。そこで、マキノ満男の誘いを受け、そのまま東映と専属契約を結び移籍しました。

1952年8月東映『暗黒街の鬼』佐々木康監督・片岡千恵蔵主演

 次作は初めての時代劇、片岡千恵蔵主演『忠治旅日記 逢初道中』を監督します。これまで培ってきた歌謡メロドラマの手法を使い、東映時代劇に新たな風を招き入れました。

1952年10月東映『忠治旅日記 逢初道中』佐々木康監督・片岡千恵蔵主演

 1952年4月末にGHQが撤退した後、時代劇人気の盛り上がりを受け、東映は翌1953年、ハリウッドスター早川雪洲を招いて、念願の討ち入りの場面も入れた赤穂浪士に取り組みます。そして、片岡千恵蔵主演『女間者秘聞 赤穂浪士』を企画し、監督を時代劇3作目の佐々木に任せました。
 佐々木は、昭和の忠臣蔵を目指し、新たな解釈を入れることで検閲を無事パスし、4月公開したこの作品から時代劇の復活が始まったとも言えます。

1953年4月東映『女間者秘聞 赤穂浪士』佐々木康監督・片岡千恵蔵主演

 佐々木は、もう一人の御大、市川右太衛門の『旗本退屈男』シリーズも数多く監督します。
 お得意の唄あり踊りありのド派手な要素を入れることで、退屈男らしい、華やな作品に仕上げ、右太衛門にも気に入られた佐々木は、東映退屈男20作品のうち半分の10作品担当しました。
 特に、1959年1月公開『旗本退屈男 謎の南蛮太鼓』は南蛮渡来の曲芸団が舞台の、退屈男らしいおおらかさと楽しさにあふれた佐々木ならではの大レヴュー作品で、眼鏡をはずしたトニー谷も見どころです。

1959年1月東映『旗本退屈男 謎の南蛮太鼓』佐々木康監督・市川右太衛門主演
1959年1月東映『旗本退屈男 謎の南蛮太鼓』佐々木康監督・市川右太衛門主演
1959年1月東映『旗本退屈男 謎の南蛮太鼓』佐々木康監督・市川右太衛門主演
1959年1月東映『旗本退屈男 謎の南蛮太鼓』佐々木康監督・市川右太衛門主演

 歌物を得意とする佐々木は、東映で美空ひばり作品も数多く監督します。ひばりの東映デビュー作、1954年5月公開『唄しぐれ おしどり若衆』から始まり、1963年9月公開『残月大川流し』まで17本の出演作を監督しました。

1954年5月東映『唄しぐれ おしどり若衆』佐々木康監督・美空ひばり主演

 その中でも、『ひばり十八番』と銘打った1960年正月公開『弁天小僧』やGW公開『お嬢吉三』は、伝法なひばりの魅力があふれる娯楽作品で、佐々木は老若男女から愛されるひばりを演出、東映の看板スターとして位置づけました。

1960年1月東映『ひばり十八番 弁天小僧』佐々木康監督・美空ひばり主演
1960年4月東映『ひばり十八番 お嬢吉三』佐々木康監督・美空ひばり主演

 『唄しぐれ おしどり若衆』でひばりと共演した中村錦之助は、東映娯楽版『笛吹童子』『紅孔雀』の大ヒットから、東千代之介と共に一躍トップアイドルスターとなります。
 佐々木が監督した、1956年10月公開『曽我兄弟 富士の夜襲』にて錦之助は娯楽版のアイドルスターから長編映画のスターへと成長していきました。

1956年10月東映『曽我兄弟 富士の夜襲』佐々木康監督・中村錦之助主演

 佐々木は、また、錦之助に次いで大川橋蔵の東映デビュー作、1955年12月公開美空ひばり主演『笛吹若武者』を監督します。

1955年12月東映『笛吹若武者』佐々木康監督・美空ひばり主演

 その後、橋蔵も錦之助の後を追うように、『若さま侍』シリーズや『新吾十番勝負』シリーズなどの主演シリーズを経て大スターの道を歩みました。
 佐々木は、橋蔵主演の新たな娯楽時代劇、1961年8月公開『幽霊島の掟』を監督し、大ヒットします。

1961年8月東映『幽霊島の掟』佐々木康監督・大川橋蔵主演

 さらに、佐々木は松方弘樹の時代劇初主演作、1961年5月公開『霧丸霧がくれ』も監督しました。松方もここから大スターへの道を歩んでいきます。

1961年5月東映『霧丸霧がくれ』佐々木康監督・松方弘樹主演

 数多くの東映プログラムピクチャーを監督してきた佐々木は、1964年1月市川右太衛門主演『忍び大名』を最後に映画界を離れ、テレビの世界へ活躍の場を移しました。

1964年1月東映『忍び大名』佐々木康監督・市川右太衛門主演

 東映京都テレビ・プロダクションに移籍した佐々木は、これまで重ねてきた映画のキャリアを活かし、大川橋蔵主演の『銭形平次』の立ち上げに協力するなど500話を超えるテレビ作品を監督、東映のテレビ事業に多大なる貢献をします。

銭形平次

 岡田茂が「プログラムピクチャーの王様」と称した佐々木康監督は、1979年満71歳を迎え、監督を勇退しました。

プログラムピクチャーの王様  佐々木康