㉙ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」
第5節「大衆娯楽主義 戦前二枚目スター脇役陣」
1956年1月15日、東映創立5周年記念作品『赤穂浪士 天の巻 地の巻』には、戦前時代劇で一世を風靡した二枚目スターたちが脇役として数多く出演しています。
市川百々之助
梶川与惣兵衛役の百々木直(ももきなお)は、1911年に5才で市川八百蔵(中車)の門に入り、市川百々之助と名乗って少年歌舞伎や関西若手歌舞伎で活躍した後、1923年帝国キネマ『異端者の恋』中川紫郎監督に主演、映画界デビューしました。
1923年帝国キネマ『異端者の恋』中川紫郎監督・市川百々之助初主演
おりしものチャンバラ映画ブームにのり、身の軽い市川百々之助のフンドシをちらつかせながらの激しいチャンバラは「猛闘劇」と呼ばれて人気を集め、「モモちゃん」の愛称で多くの女性ファンを獲得、二枚目銀幕スターとして一世を風靡します。
「モモちゃん」と呼ばれていた頃
1926年帝国キネマ『刃傷』森本登良夫監督
しかし1929年、経営に苦しむ帝キネに松竹資本が入ってくると、時代劇中心路線から現代劇中心へと経営方針がシフト、それに伴い翌1930年百々之助は帝キネを退社し、旅巡業に出ました。1932年東京の河合映画(後に大都映画)に入社して主演のチャンバラ映画を撮影するも、翌年日活太秦撮影所に戻ると、次第に脇役に回っていきました。
戦後1954年東映に入社、その年11月1日公開『変化大名』佐々木康監督の弥吉役と同時公開された東映娯楽版『竜虎八天狗(四部作)』 丸根賛太郎監督での今川蝉阿弥役で銀幕復帰、百々木直と名乗った時期も含め、脇役として数多くの東映チャンバラ時代劇に出演しました。
1954年『竜虎八天狗(四部作)』 丸根賛太郎監督・今川蝉阿弥役
1955年『紅孔雀(五部作)』萩原遼監督・戸がくれ老人役
1955年『百面童子(四部作)』小沢茂弘監督・武部主膳役
1955年『夕焼け童子(二部作)』小沢茂弘監督・匂坂熊太郎役
市川百々之助は関西若手歌舞伎時代の仲間である市川右一(市川右太衛門)、林長二郎(長谷川一夫)、嵐和歌太夫(嵐寛寿郎)に先立って映画界にブームを起こした二枚目チャンバラ俳優で日本映画黎明期に歌舞伎界の若手役者が映画界に進出する道を作りました。
百々之助はそのチャンバラ人生の後半を東映京都撮影所に捧げたのでした。
市川百々之助
明石潮
浅野家江戸家老安井彦右衛門役の明石潮は、早稲田大学入学時に、後にハリウッドの無声映画で謎の中国人役として大活躍する上山草人(かみやまそうじん)に師事、大学を中退し演劇の世界に入り、1918年上山が主宰する近代劇協会の有楽座公演で初舞台を踏みます。
1920年、新声劇に入り剣戟の舞台に出演すると人気を集め、1924年夏、贔屓の牧野省三から招かれ東亜キネマ等持院撮影所に入所、二枚目剣戟スターとして『栄光の釼』後藤秋声監督で主演デビューしました。翌年には東亜甲陽撮影所の現代劇『恩愛を賭して』賀古残夢監督にも主演し、秋には舞台一座を旗揚げし舞台出演もしながら、映画脚本を書き、監督業にも取り組みます。
東亜が傾くと松竹下加茂撮影所に入社、1931年『平手造酒』星哲六監督に主演後、再び舞台活動に戻り、戦後1952年に映画界に復帰し、翌年から松竹、東映で映画俳優として本格的に活動を開始しました。
東映には1953年『逆襲!鞍馬天狗』萩原遼監督で初出演、京都を中心に善人役のできる貴重なバイプレーヤーとしておよそ200作品の脇を固め、その後も映画テレビで長きにわたり活躍します。
1955年『夕焼け童子(二部作)』小沢茂弘監督・漁師頭勘兵衛役
1955年『まぼろし小僧の冒険』小杉勇監督・天海僧正役
1956年『ほまれの美丈夫』伊賀山正徳監督・吉田忠左衛門役
1956年『江戸三国志(三部作)』萩原遼監督・千蛾老人役
1956年『隠密秘帖 まぼろし城』萩原遼監督・金森飛弾守役
1956年『緑眼童子』内出好吉監督・平忠正役
明石は、木下恵介監督『二十四の瞳』校長先生役、『喜びも悲しみも幾歳月』石狩灯台木村台長役など松竹でも活躍しました。
明石潮
河部五郎
四十七士の一人、間瀬久太夫の父権太夫役、河部五郎は新声劇や国精劇などで活躍していた舞台剣戟俳優で1925年に横田永之助と尾上松之助が日活大将軍撮影所に第二の松之助としてスカウトした期待の星でした。
1926年『実録忠臣蔵 天の巻地の巻人の巻』池田富保監督 配役表
1925年、松之助千本出演記念大作『荒木又右衛門』で河合又五郎役を演じると、翌1926年主演の『修羅八荒』高橋寿康監督、1927年『地雷火組』池田富保監督、『砂絵呪縛』高橋寿康監督、『下郎』伊藤大輔監督と出演作が大ヒットし、名実ともに大スターの仲間入りしました。
1926年日活『修羅八荒』高橋寿康監督・河部五郎主演
1927年『地雷火組』池田富保監督・河部五郎主演
1927年『砂絵呪縛』高橋寿康監督・河部五郎主演
1927年『下郎』伊藤大輔監督・河部五郎主演
しかし、同じ頃、台頭してきた大河内伝次郎との日活トップスター争いから脱落、1929年、日活を退社して舞台に戻り、その後映画界と舞台を行き来するなかで徐々に人気が低下し脇役に回ります。
戦後嵐山で旅館経営を行っていましたが、1952年、東映『赤穂城』で映画復帰するとその後数多くの東映時代劇作品に脇役として出演を重ね、古くからのファンを喜ばせました。
1952年『赤穂城』萩原遼監督・荒木十左衛門役
1952年『飛びっちょ判官』渡辺邦男監督・用人幾太郎役
1953年『喧嘩笠』萩原遼監督・陣屋の嘉助役
1953年『大菩薩峠』渡辺邦男監督・机弾正役
1954年『南国太平記』渡辺邦男監督・仙波八郎太役
かつて、日活でトップスターの座を争った大河内伝次郎と河部五郎の二人はともに嵐山に居を構え、戦後、東映で共演することになるのでした。
河部五郎
昭和3年俳優番付(大阪杉本文楽堂発行)
澤田清
徳川綱吉役の澤田清は、初代中村雁治郎一座から1927年に市川右太衛門プロに加入、若衆役者として注目を浴びます。
いくつかの独立プロを経て、1928年に日活太秦時代劇部に入り、『お小姓組』高橋寿康監督で主演デビューすると、年末に主演した『落花剣光録』清瀬英次郎監督が大ヒット、1930年『怪盗夜叉王』田中都留彦(高橋寿康)監督、『源太時雨』清瀬英次郎監督、1932年『隠密七生記 静中動篇』清瀬英次郎監督の椿源太郎役で二枚目として人気を不動のものとしました。
澤田清ブロマイド
1928年『落花剣光録』清瀬英次郎監督・指方龍之丞役
1930年『怪盗夜叉王』田中都留彦監督・中納言雅信朝臣役
1930年『源太時雨』清瀬英次郎監督・磯の源太役
1932年『隠密七生記 静中動篇』清瀬英次郎監督・椿源太郎役
トーキー映画が主流になる1936年、ハワイやアメリカ各地で興行を行うために渡米、帰国後、序列が下がり、主役から徐々に脇に回っていきます。戦争中から戦後にかけて剣劇の舞台に立っていましたが1952年新東宝で映画界に復帰、1954年から東映に入社して時代劇の脇役として多くの作品に助演しました。
1954年『竜虎八天狗(四部作』 丸根賛太郎監督・来喬太郎役
1955年『彦左と太助 殴り込み吉田御殿』内出好吉監督・将軍家光役
1957年『任侠清水港』松田定次監督・大瀬の半五郎役
1956年『白扇 みだれ黒髪』河野寿一監督・鈴木貢役
河部五郎退社後に日活の二枚目として活躍したアイドル澤田清も、戦前からの多くのファンを楽しませ、東映時代劇の黄金期を彩りました。
澤田清
岡譲司
1959年のオールスター映画『忠臣蔵 桜花の巻 菊花の巻』に小林平八郎役で出演の岡譲司は、美濃部進という芸名で1928年日活太秦撮影所池田富保監督による大作『維新の京洛 竜の巻 虎の巻』島津久光役にて映画デビューしました。
1929年『赤い灯青い灯』徳永フランク監督で初主役を務め、二枚目俳優として現代劇で活躍しますが、1931年人気女優の沢蘭子とともに日活を退社、4月に入所した沢の尽力で、9月、鈴木伝明、岡田時彦、高田稔といった二枚目看板スターが脱退した松竹蒲田撮影所に入所し岡譲二と改名します。
松竹で田中絹代をはじめとするスター女優たちと共演、ヒットを重ね幹部に昇進した岡は1934年、松竹から独立し、協同映画を設立、阿部豊監督『多情仏心』『海国大日本』などを製作しますが、翌1935年解散、日活多摩川に入所し『青春音頭』熊谷久虎監督から再度日活作品に主演しました。
1935年日活『青春音頭』熊谷久虎監督・応援団長重さん役
1935年協同映画『海国大日本』阿部豊監督・白石誠(右)役
1935年日活『大菩薩峠』稲垣浩監督・大河内伝次郎主演・島田虎之助役
岡は、1937年、渡辺邦男監督とともにJO、PCLを経てこの年設立された東宝映画に移籍し『新妻鏡』渡辺邦男監督などに主演、戦後の東宝争議で大映に移籍するまで多くの東宝作品に主演もしくは大物女優の相手役として助演します。
1940年東宝『新妻鏡』渡辺邦男監督・山田五十鈴主演・醍醐博役
1953年、大映を離れ岡譲司と改名、フリーの立場で各社の作品に出演をかさね、特に東映京都撮影所の時代劇を中心に活動しました。
1953年『新書太閤記 急襲桶狭間』松田定次監督・今川義元役
1953年『快傑黒頭巾』河野寿一監督・青江下野役
1954年『謎の黄金嶋』河野寿一監督・水野越前守役
1954年『巷説荒木又右衛門』渡辺邦男監督・阿部四郎五郎役
1956年『快剣士・笑いの面』佐々木康監督・Jガスタイン役
戦前、松竹や日活、東宝の現代劇で西洋的二枚目スターとして女性人気を集めた岡譲司は戦後東映京都で娯楽版を始め時代劇にも数多く出演しました。
岡譲司
戦前、各映画会社で主演を張り一世を風靡した映画スターの面々が、戦後、元新興キネマだった東映京都撮影所に続々と集まり、脇に回って活躍、彼らが華を添えた東映オールスター映画は、新旧時代劇スターが集まる、まさに日本の時代劇オールスター映画でした。
1959年12月1日現在 東映京都撮影所演技者名簿
1962年5月1日現在 東映京都撮影所演技者名簿