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98. 第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」

第4節「東映フライヤーズの軌跡」

 1972年のシーズンを最後に、1973年1月、東映は東映フライヤーズ球団を日拓ホームに譲渡しました。
 1954年東急電鉄から球団経営を引き継いだ東映は、社長大川博がオーナーとして東映フライヤーズ陣頭指揮します。
 そして、1962年には水原茂監督の下、日本一に輝きました。
 ここまでの東映フライヤーズの歴史につきましては、以前に2回に分けてご紹介いたしました。

1. 経理社長から事業社長へ 明日を見ていた大川博 プロ野球編

2.躍進 東映フライヤーズ日本一!

 今節では、1962年に日本一に輝いた後の東映フライヤーズについてシーズン別にご紹介することで、東映フライヤーズ19年間の軌跡をまとめたいと思います。

3.1962年日本一、その後の東映フライヤーズ

1963年

 水原茂監督率いる東映フライヤーズ日本一に輝いた1962年のシーズンオフ、主砲の一人、ケンカ八郎こと山本八郎近鉄移籍します。
 引き続き水原で挑んだ1963年の東映は、前年の勢いをキープし、開幕からエースの土橋尾崎久保田治の投手陣が活躍、張本毒島ジャック・ラドラの打線も好調で、7月末まで首位南海ホークスに次ぐ2位につけていました。
 しかし、8月に入ると投手陣が崩れ、4位に転落。最終的には追ってくる近鉄を何とか振り切り3位Aクラスにとどまります。ただ、2位と3位東映との差は10.5ゲームと大きく開いており、南海に1ゲーム差で競り勝った西鉄ライオンズが逆転優勝しました。

1964年

 1964年の東映は、仮本拠地としていた神宮球場国鉄スワローズがフランチャイズとしたため、後楽園球場を再び使用するようになりました。
 この年、尾崎土橋が20勝、4年目の嵯峨健四郎が21勝と、投手陣の活躍で全球団に勝ち越します。
 しかし、開幕でつまずき、7月終わりまでずっと5位に低迷したため、最終成績でなんとか東京オリオンズに競り勝ち0.5ゲーム差の3位にまで浮上、Aクラスを維持することはできました。パリーグは7月から首位に立った南海優勝します。

1965年

 1965年、5年目を迎えた水原監督の東映は、今シーズンから正式に後楽園を本拠地と定めました。
 ペナントレースは、前年日本一、名将鶴岡一人監督率いる南海が開幕から飛び出し、シーズンを通じて首位を独走、そのまま優勝しました。
 2位以下が混戦状態にある中で、東映は投手陣が奮闘、尾崎27勝を挙げ最多勝に輝く活躍を見せます。土橋が肩を痛めて4勝に終わりましたが、代わりに1962年入団の永易(ながやす)将之が投球フォームをサイドスローに変えて10勝を挙げ防御率も3位となり、1963年に入団した田中調(みつぐ)は17勝を奪いました。
 結果、3人の若手投手のふんばりとノーム・ラーカーの活躍のおかげで、25ゲーム以上つけられた首位南海との差を最終的に12ゲーム差まで縮めて2位に浮上、この年もAクラスの結果を残すことができます。
 後に本塁打王に輝く大杉勝男が、この年のシーズン初めに行われた入団テストで合格、水原監督は1年目から大杉を積極的に登用し22試合に先発出場しました。

1966年

 この年から、社内報『とうえい』に東映フライヤーズコーナー誕生し、表紙を飾るようになります。

1966年4月発行 社内報『とうえい』第98号
1966年4月発行 社内報『とうえい』第98号

 1966年、水原監督6年目の東映は、5月末までは首位南海に次ぐ2位、7月末では南海西鉄に次ぐ3位でしたが首位との差は3.5ゲームとまだ優勝を十分に狙える位置につけていました。

1966年5月発行 社内報『とうえい』第99号

 しかし、結局後が続かず3位Aクラスのままシーズンを終えました。
 新入団の森安敏明がプロ初登板で完封勝利を挙げ、シーズンで11勝を獲得、24勝尾崎17勝嵯峨に続く成績となります。

1966年3月発行 社内報『とうえい』第97号
1966年4月発行 社内報『とうえい』第98号

1967年

 1967年も水原が率いた東映は、名将西本幸雄監督の阪急ブレーブス怪童中西太監督西鉄と5月末まで首位を争いました。新人のドラフト1位高橋善正は、前年の森安に続き初登板初完封デビューします。

1967年3月発行 社内報『とうえい』第109号
1967年3月発行 社内報『とうえい』第109号

 その後、阪急が抜け出し最後まで首位を独走、2位以下は混戦になります。結局、西鉄に次ぐ3位Aクラスはキープしました。
 ドラフト2位で入った遊撃手大下剛史(つよし)はレギュラーとして133試合に出場、ベストナインに選出されます。

1967年3月発行 社内報『とうえい』第109号

 張本28本本塁打を放ち、打率も3割3分6厘で2度目の首位打者に輝き、飯島滋弥コーチの「月に向かって打て」の助言で開眼しフル出場した大杉27本本塁打を打ちました。
 投手陣では15勝を挙げた新人王高橋森安11勝田中、3人の若手が支え、これまで活躍してきたエーズの尾崎、嵯峨、永易、ベテラン土橋は不調に終わります。

1967年10月発行 社内報『とうえい』第117号

1968年

 1968年、7年間指揮を執った水原勇退、かつて東急フライヤーズの名選手、阪急でコーチをしていた青バット大下弘が監督に就任。大川博提案の「サイン無し、罰金無し、門限無し」の三無主義を掲げた大下東映のオープン戦は好調で、優勝への期待が膨らみました。

1968年3月発行 社内報『とうえい』第121号
1968年3月発行 社内報『とうえい』第121号
1968年4月発行 社内報『とうえい』第122号

 しかし、開幕から成績が伸びず、5月以降は5位に低迷、西鉄と最下位を争います。8月3日には10連敗を喫した大下が休養に入り、翌日から飯島滋弥が代理監督を務め、最後は5位西鉄に5ゲームと大きく差を開けられ球団初最下位6位で終了。南海と首位を争った阪急優勝し、暴れん坊軍団の三無主義大失敗に終わりました。
 打撃陣は張本2年連続首位打者大杉34本塁打3割近い打率で好調でしたが、投手陣は、土橋がコーチに転身、エーズ森安16勝するも23敗、高橋善正13勝14敗、田中9勝10敗と崩れました。

1968年6月発行 社内報『とうえい』第124号

1969年

1969年3月発行 社内報『とうえい』第133号

 1969年は、阪神や大映で監督、東映の打撃コーチを務めた後NHK解説者に転進した松木謙治郎が監督に就任します。
 また、今シーズンから打撃コーチを兼務することになった毒島に代わって張本主将になりました。

1969年3月発行 社内報『とうえい』第133号

 この年、遊撃手大橋穣は堅実な守備、金田正一の実弟投手金田留弘18勝、投手高橋直樹13勝と3人の新人が大活躍します。打者では主将になった張本3年連続首位打者を獲得、大杉36本塁打2割9分と好調でした。
 しかしエーズ森安が11勝、田中9勝にとどまり、昨年活躍した高橋善正他も踏ん張れず4位でシーズンを終了します。

1969年11月発行 社内報『とうえい』第140号

1970年

1970年3月発行 社内報『とうえい』第144号
1970年3月発行 社内報『とうえい』第144号

 松木監督2年目の1970年は、開幕からエース森安、金田ら投手陣の活躍に、張本、大杉、白ら打撃陣も好調で、5月末まで首位を走りました。

1970年5月発行 社内報『とうえい』第146号

 しかし、前年シーズンオフに西鉄永易(元東映)から端を発し、その後も球界全体を揺るがしていた黒い霧事件で、6月、森安と田中が出場停止になります。田中は復帰するも、7月、森安永久追放され、松木監督は辞任、田宮謙次郎コーチが新たに監督に就任しました。
 打撃陣は引き続き好調も、森安が抜けた穴は大きく、6月から下降線をたどり、最後は5位に終わります。
 この年、張本4年連続5度目首位打者大杉本塁打打点の二冠王に輝きました。

1970年10月発行 社内報『とうえい』第151号

1971年

 1971年、引き続き田宮謙次郎が監督を務め、投手陣に新人の皆川康夫江本孟紀が加わりました。

1971年3月発行 社内報『とうえい』第157号
1971年3月発行 社内報『とうえい』第157号
1971年3月発行 社内報『とうえい』第157号

 不本意ながら4月20日から9連敗を喫し、早々に優勝争いから脱落します。ただ、相変わらず打線は好調で、5月3日ロッテ戦では、延長10回表の攻撃で、作道烝大下剛史大橋穣張本勲大杉勝男による日本プロ野球史上初の5者連続本塁打を記録しました。
 6月からも低迷が続き、4位南海とも差が開いて5位の位置が定着します。そんな中、8月17日にオーナー大川博急逝しました。その日、急報を聞いたナインたちが奮起し、大川の弔い合戦に勝利します。そして、8月21日には、これまで成績が良くなかった高橋善正が西鉄を相手に完全試合を達成しました。

1971年9月発行 社内報『とうえい』第160号

 新オーナーにはこれまでオーナー代行を務めて来た大川毅、オーナー代行には岡田茂東映新社長が就任しました。
 結局、このシーズンは黒い霧事件で主力選手を欠いた最下位西鉄に続く5位で終了します。
 投手陣では皆川11勝を挙げ新人王に、打撃陣では大杉2年連続本塁打王に輝きました。  

1971年10月発行 社内報『とうえい』第161号

 シーズン終了後、中心選手の種茂捕手、大橋遊撃手と阪急の要岡村浩二捕手、阪本敏三遊撃手、佐々木誠吾投手との2対3大型トレードが行われます。

1971年12月発行 社内報『とうえい』第162号

1972年 

 田宮監督が続投した1972年、社内報の表紙を東映フライヤーズの選手が飾ることがなくなりましたが、3月号には、例年のように新しく加入した選手の紹介ページが掲載されています。

1972年3月発行 社内報『とうえい』第164号

 開幕第2戦目から連敗が続き、4月は5位に終わりましたが、GW明けから、昨年完全試合を達成した高橋善正7連勝、大洋から移籍のベテラン投手森中通晴7連勝と、エース金田留弘も復調、投手陣が踏ん張りを見せます。打線も、張本大杉を中心に猛打を振るい、2年連続ホームラン王に輝いた大杉は、5月に15本の本塁打を放ち、巨人の王選手が作った記録に並びました。
 その結果、一時は2位まで浮上。独走の首位阪急を除き、近鉄南海混戦のままシーズン終了までしのぎを削りました。

1972年5月発行 社内報『とうえい』第166号

 しかし、残念ながら土壇場で競り負け、結果は2位の近鉄、ゲーム差なし3位の南海と1ゲーム差の4位に終わります。
 この年、エースの金田20勝森中11勝高橋善正10勝の成績でしたが、31本塁打の張本6度目首位打者2000本安打を記録、40本塁打の大杉打点王も19本塁打3割1分5厘大下39盗塁、阪急から移籍の阪本2割7分8厘打線絶好調でした。

 こうして、暴れん坊球団東映フライヤーズの最後のシーズンが幕を下ろしました。 

東映年度別パリーグ順位と監督の変遷、主な出来事

1954年 7位 井野川利春 駒沢移転、ミスターフライヤーズ毒島章一入団
1955年 7位 保井浩一 ナイター設備導入・江戸っ子土橋正幸テスト入団
1956年 6位 岩本義行 ケンカ八郎山本八郎入団、駒沢の暴れん坊球団
1957年 5位 岩本義行 2年目牧野伸15勝
1958年 5位 岩本義行 大川博パリーグ総裁就任、土橋21勝
1959年 3位 岩本義行 安打製造機張本勲入団新人王、土橋27勝、初のAクラス
1960年 5位 岩本→保井 1月ハワイ初海外遠征
1961年 2位 水原茂 前巨人監督水原監督就任、張本首位打者、土橋30勝、久保田25勝、イケメン種茂雅之入団
1962年 1位 水原茂 神宮球場移転、ケンカ上等白仁天入団、土橋・浪商の怪童尾崎行雄・種茂活躍日本一
1963年 3位 水原茂 土橋20勝、張本4年連続ベストナイン 
1964年 3位 水原茂 後楽園使用、土橋・尾崎・嵯峨健四郎20勝超、張本ベストナイン
1965年 2位 水原茂 後楽園本拠地、月に向かって撃て大杉勝男入団、尾崎最多27勝、土橋故障
1966年 3位 水原茂 尾崎24勝、新入団森安敏明完封デビュー
1967年 3位 水原茂 張本首位打者、新人王高橋善正隠し玉も得意だった大下剛史入団、尾崎故障
1968年 6位 大下弘→飯島滋弥 張本首位打者、大下監督三無野球失敗
1969年 4位 松木謙治郎 張本主将就任首位打者、大橋譲金田留弘入団
1970年 5位 松木→田宮謙次郎 張本首位打者、大杉本塁打・打点2冠王、黒い霧事件森安追放 
1971年 5位 田宮謙次郎 5者連続本塁打、大川死去、高橋善完全試合、大杉本塁打王、新人王皆川康夫、種茂・大橋阪急移籍大型トレード
1972年 4位 田宮謙次郎 大杉打点王、シーズン後日拓ホームへ譲渡

 水原茂監督時代東映フライヤーズ黄金期でした。
 
 打撃陣では張本勲大杉勝男白仁天、守備陣では大橋穣大下剛史、投手陣では金田留弘高橋直樹高橋善正江本孟紀東映の暴れん坊たちはその後の野球界でも大暴れします。

 日本一に輝いた東映フライヤーズ北海道日本ハムファイターズセ・リーグ初の覇者になった松竹ロビンス横浜DeNAベイスターズ大映スターズ千葉ロッテマリーンズ、そして東宝に関係深い阪急ブレーブスオリックス・バファローズと現在活躍中の球団も一時は各映画会社関係していました。
 日本のプロ野球の歴史は、新聞社電鉄が中心になって作り、かつて全盛期の映画会社も参加した時代の花形産業の歴史でもあります。

トップ写真:1962年東映日本一、背番号100大川オーナー胴上げシーン