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⑩ 第2章 「激闘1826日!東映発進」

第1節「経理社長から事業社長へ 明日を見ていた大川博 プロ野球篇」

 日本のプロ野球チームは、1920年東京芝浦に設立された「日本運動協会」が、翌年芝浦球場を作り、選手を集めることから始まり、1922年に朝鮮、満洲へ遠征し、初試合を行いました。

 当時、大学野球や実業団野球は盛んでしたが、職業野球、プロ球団はまだ存在せず、帰国後、始めは早稲田など大学チームや大阪毎日野球団など実業団チームと対戦していました。

 1921年、奇術で人気を博していた「松旭斎天勝一座」の支配人野呂辰之助によって「天勝野球団」が結成され、1923年に「プロフェッショナル球団」を宣言し、満洲、朝鮮に遠征し、大連実業団などと戦った後、「日本運動協会」と京城(現ソウル)で激突しました。

 しかし、その年の関東大震災で被災、翌年1月に日本運動協会は解散し、天勝一座も球団活動を中止し渡米、天勝はアメリカで大人気を博します。

 その時、日本運動協会に支援を名乗り出たのが、当時阪神急行電鉄の社長、鉄道事業活性化のため沿線娯楽を探していた小林一三でした。

 小林はグラウンドを持つ電鉄会社によるプロ野球リーグの構想を描き、その第一歩として、日本運動協会のスポンサーとなり、宝塚球場を本拠に「宝塚運動協会」として再結成させましたが、昭和金融恐慌など不況が続き、続くプロ球団も出てこず、1929年に協会は解散しました。

 1934年10月、読売新聞社正力松太郎メジャーリーグ選抜招聘、親善試合を興行するにあたり、千葉の谷津海岸に球場を新設、そこを本拠に全日本代表野球チーム結成し、11月2日に来日した大リーガーたちと全国を回って15試合戦った後、年末に代表チームを中心に「大日本東京野球俱楽部」が誕生します。

 正力は複数球団による職業野球リーグを考え、甲子園球場を持つ阪神電鉄に声がけし、翌1935年阪神電鉄「大阪タイガース(大阪野球倶楽部)」が誕生1936年新たに、新愛知新聞社「名古屋軍(大日本野球連盟名古屋協会)」、阪神急行電鉄「阪急軍(大阪阪急野球協会)」、新愛知新聞社傘下の國民新聞社「大東京軍(大日本野球連盟東京協会)」、名古屋新聞社「名古屋金鯱軍(名古屋野球倶楽部)」、西武鉄道「東京セネタース」が誕生し、声がけした「東京巨人軍(大日本東京野球倶楽部)」を中心に2月5日に「日本職業野球連盟」が結成され、全7球団が参加、4月に第1回リーグ戦が行われ、翌年後楽園球場「後楽園イーグルス」、1938年に南海電鉄「南海軍(南海野球)」が参加、全9球団となり、1939年に「日本野球連盟」に名称が変わります。

 戦前のプロ野球リーグ参加球団の多くは新聞社電鉄が経営していました。

 戦時中は各球団とも名称の変更、戦時統合による親会社合併での統合、解散等がありましたが、敗戦後の1946年、戦前からの「東京巨人軍」「大阪タイガース」「中部日本(名古屋軍と金鯱軍が統合)」「阪急軍」「パシフィック(大東京軍)」「グレートリング(南海軍)」に加え、新たに「ゴールドスター」と「セネタース」が、再発足した「日本野球連盟」に加入、全8球団で3月27日からペナントレースが始まりました。

 GHQの後押しもあり、戦後の一大娯楽として、プロ野球人気は急拡大していきますが、戦前と同じく球団経営は新規参入も含めて電鉄会社新聞社が中心でした。そこに、娯楽産業として急拡大する映画会社が新たに参入してきます。そして、ここから、電鉄会社阪急」小林一三の後を追う電鉄会社東急」五島慶太、その後東急から球団経営を引き継いだ映画会社東映」大川博、映画会社大映」永田雅一、その大映に対抗した映画会社松竹」大谷竹次郎、プロ野球をめぐる映画会社の戦いがはじまるのです。

 1946年、戦前「東京セネタース」の中心選手だった横沢三郎が立ち上げ、資本のバックを持たない弱小球団「セネタース」ですが、新人「大下弘」がホームラン王を獲得するなどの活躍で8球団中5位と健闘、しかし、経営は苦しく、年末に東急電鉄専務黒川渉三を通じて五島慶太と交渉した結果、東急が球団経営権を買い取り、「株式会社東急ベースボールクラブ」を設立し、球団名「東急フライヤーズ」(フライヤーズ=飛躍・急行列車)として、翌1947年からペナントレースに参加することが決定、五島が公職追放中のこともあり、当時東急電鉄社長だった小林中球団社長、専務に猿丸元就任しました。

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1948年公開 東横映画「花嫁選手」小杉勇監督・大下弘出演

 戦前から野球を愛好した永田雅一は、1947年大映社長に就任、念願のプロ野球参入を目指し動き出し、1948年中部日本(現中日)を退団した赤嶺昌志球団代表と小鶴誠他有力選手を引き入れチームを作りますが、日本野球連盟には新規加入を断れ、チームを抱えて困った永田は、身売りのうわさが出た東急フライヤーズに買取の話をもちかけます。

 1947年6位に終わった東急フライヤーズの経営は赤字、その時、大映から購入の話がきて、球団売却がほぼ決定しかかった土壇場の重役会で大川博の反対意見を受けた球団代表の猿丸が大映への売却反対の意見を述べ、一転、球団経営存続が決まります。ただ、当時東横映画でお世話になっている永田の難局を助けることも必要という五島の意見もあり、大映チームを合体、「急映フライヤーズ」として1948年のシーズンに臨み、小鶴の活躍で5位に浮上しました。

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1948年公開 東横映画「野球狂時代」斎藤寅次郎監督・大下弘出演

 そして1948年のシーズンが終わった年末、大映は「金星ゴールドスター」を買取、「大映スターズ」とし、東急に預けていた選手を戻し、念願のプロ野球に単独参入しました。

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1949年公開 東横映画「ホームラン狂時代」小田基義監督・杉狂児主演

別当薫(阪神)大下弘(東急)藤村富美男(阪神)西澤道夫(中日)出演

 1949年春、戦犯として収容されていた巣鴨から出所してきた正力松太郎は日本野球連盟名誉総裁として復帰、2リーグ制を訴え、毎日新聞、近鉄が加入に名乗りを上げ、それに続いて、大洋漁業、西鉄、そして松竹など次々と手を上げていきます。

 その後、新規加入および2リーグ制について、連盟加入8球団の間で、読売、中日、太陽、阪神(当初賛成)は反対、阪急、東急、南海、大映は賛成と4対4で意見が分かれ紛糾しました。

 そして、1949年11月25日に代表のみならずオーナーも交えて開かれた会議で、翌1950年から日本野球連盟はセントラルリーグパシフィックリーグ2リーグ制に移行することが決定しました。

 2リーグ制反対派が中心のセリーグは「読売ジャイアンツ」「中日ドラゴンズ」「松竹ロビンス(現・横浜DeNAベイスターズ)」「大阪タイガース」に加え新球団の「大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)」「広島カープ」「西日本パイレーツ(翌年パリーグ西鉄クリッパーズに合併西鉄ライオンズになる。現・埼玉西武ライオンズ)」の7球団、賛成派のパリーグは「阪急ブレーブス(現・オリックスバファローズ)」「南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)」「東急フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)」「大映スターズ(現・千葉ロッテマリーンズ)」に新しく「毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)」「近鉄パールス(現・オリックスバファローズ)」「西鉄クリッパーズ(現・埼玉西武ライオンズ)」「国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)」の7球団で構成され、初代パシフィックリーグ会長に東急専務の大川博理事長猿丸元が就任しました。

 セリーグが新聞社の読売、中日、西日本、広島の中国新聞、電鉄会社の阪神、広島電鉄、映画会社松竹と一般企業の大洋漁業、パリーグは電鉄会社の阪急、南海、東急、近鉄、西鉄に毎日新聞、映画会社大映。この時点でも新聞社電鉄会社が中心で、これに映画会社2社と大洋漁業が加わった形で2リーグ制スタートします。

 パリーグ会長の大川は、両リーグ間をまたぐ有力選手の引き抜き合戦の収拾に追われながらも1年の会長任期を終えました。

 1951年、大川は東急専務の立場で東映社長に就任し、その経営再建に追われる中、球団は低迷を続けます。1952年には首位打者の大下弘が退団騒動からトレードで西鉄に移籍、ますます弱体化が進み、人気も低下して球団赤字が拡大していきました。

 1953年、低迷する東急フライヤーズはそれまでフランチャイズだった後楽園球場から契約を打ち切られ、新たに建設した駒沢球場に本拠を移します。この新球場でも閑古鳥が鳴き、累積赤字も当時で1億円を超え、東急社内は球団を手放すムードが徐々に強くなってきました。

駒沢野球場入口

駒沢野球場

 1953年に東急の副社長になった大川社長率いる東映は、時代劇ブームの波に乗り、経営が回復、これからの成長も期待できるようになっており、1954年2月、五島と話し合い、東急の援助を条件に球団経営を引き受け、ここに「東映フライヤーズ」と球団運営を行う「東映興業株式会社」が誕生、大川は、教育映画事業に続く、東映の新規事業を創設しました。

東映フライヤーズ・Fちゃんワッペン

Fちゃん