陰陽論14精神の発生8

心が意識だというところまで来ましたので、また魂に少し戻ります。

意識が生まれる前の状態に魂が置かれていることになります。物心がつく前の状態は魂が育まれていますから、「三つ子の魂百まで」と言われるのもわかります。しかし、だからといって魂はその後から不変なのではありません。魂は常に働いています。心に浮かぶことは、その前に魂で作られたものだからです。今でいう無意識の領域は魂の活動範囲となります。

少なくとも生きている間に、魂は様々な影響を受けながら、変容もしています。だからこそ「魂が汚れる」とか「魂が磨かれる」こともあり、心のそれよりも強いトーンとして受け取られます。

以前申し上げたように、人の脳の中にホムンクルスみたいなものを考えると無限ループにはまりますが、魂の定義によってこれを避けることが可能です。心の中はとても「うるさい」ものです。私は幼年期、黙読ができた時に、不思議で仕方がなかった記憶があります。音がないのに音が頭の中に生まれているのです。

意の文字は解体すると、音と心です。古代の人もこの不思議は感じていたのでしょう。意は外界の一部を頭の中での再現したものだと言いたげです。だから続きはこうなっています。

「心有所憶謂之意」心は憶するところあり、之を〝意〟と謂う

「憶する」は「臆する」とは違います。意の動詞形みたいなもので、あれこれと音や映像が浮かぶことでしょう。しかし、何でもかんでも出てくるわけではない。魂の段階で限定されたものだけになります。心は魂の活動を受け取って、意識に上げているわけです。その限定の仕方が夢の中では緩いですね。では、日中それをきびしくしているのは何なのでしょうか?

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