陰陽論15精神の発生9

「物に任(た)うる所以(ゆえん)のもの,之を心という。」

モノ(外の世界)と接していることで、心が生まれる→ということは、眠っている時は心の働きは弱くなっている、というか休んでいる状態になります。物心つく前とと同じではありませんが、それに近い状態です。ルドルフ・シュタイナーは動物の精神状態を、人の夢の中と似たものと言っています。ただ、人の場合は夢の中でも言葉を使ったり、一応論理的に考えているシーンが出てきますから、(前回述べたように)成長にともなう魂の働きがあることになります。

夢の中以外での設定も考えてみます。例えば通勤途中に、知らない誰かが交通事故に遭う瞬間にでくわすとします。しばらくその光景や状況が、頭の中をぐるぐると繰り返して仕方がなくなるはずです。考えたくて考えているわけではないのに、ヘビーローテーションするわけです。しかし、その後にとても大事な仕事なんかがあったら、事故の方はいつの間にか頭の片隅に追いやられていくわけです。

なので「これからの用事は寝るだけ」みたいな時間に、ホラーやサスペンス映画を見てしまうと、夢がそれっぽくなるのは当然なわけです。

もう一つ。子供がダジャレや「言ってはいけないけどおもしろい言葉」を知ってしまった直後なんか、何度も言ってはその度に笑ってたりします。次にしなければならないことが無いので、言葉と笑いに支配されているわけです。そこで大人から注意されたりすることで、言うのを止めるのは、さっきの会社員が仕事のために、事故の記憶から離れるのと同じです。大人の注意も、大事な仕事も、自分の外側から迫ってきた力です。

私たちの「心」は、内側の魂の働きに対して、外からやってくる何らかの力が加わることで、作用しているということです。外的な力も、無意識(魂)も、心の働きでは無いとなれば、「自由意志は存在しない」という意見にも、謙虚にならざるを得ません。

それでも私たちは心が働いている状態を「自分で考えている」ことと認識しています。これも含めてあくまで偶発的に発生している作用であると言われれば、否定は難しいでしょう。決定論と称されるものに当たります。

彼の地の古代人が決定論を論じていたかどうかはわかりませんが、少なくとも医学に携わった人々は、その態度をとっていません。「心」は制御可能なものとしていることが、受け取れます。それは私たち現代人でも、同じです。思弁的には決定論の立場をとっている人々であっても、日常生活においては個人の意思を認めています。この矛盾は意思の「位置づけ」の問題と捉えられば、とりあえず解決します。外の世界とは、個人にとって常に広い意味で利害得失を抱える関係を持っている中で、私たちは常に「自分」として生きています。決定論は「後になって外側から見た」立場でのみ語れるものです。「これから自分がすること」について自分に語れる裏付けがありません。

長々と古典から離れてしまいましたが、重要なところなので、しばらくこんな調子が続くかもしれません。

(捕捉)ミクロコスモスは、世界の中にまた世界が無数にあるという考え方の一つです。物理法則に支配された天体は一つの世界ですが、生命の持つ力のよって動く生物は、その世界に入っていながら独立した世界を持っています。人間は生命力に加えて意志を持った世界を、一人で一つ構成しているという考え方です。昔の人にとって決定論を排するには、それで充分な説明であったと思います。



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