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DOING WELL BY DOING GOOD

ちまたにあふれる成功のためのノウハウ、各種講座、SNS、書籍。今、「成功」の二文字を目にしない日はめずらしい。それだけ現状に苦しんでいたりして「成功」を求めている人が多いということなのだが、では、成功とはいったい何であるのか。
一般にいう成功とは、社会や組織の期待どおりに行動し実績をあげること、だと考えられる。しかしその成功が、はたして自らの人生をかけて取り組むべきことになっているのか。今回はその中身に焦点をあててみようと思う。




そこで、個人的に25年前から取り組んできた書籍「7つの習慣」を参照したい。「成功」について、もっとも本質的な考えを示していると思うからだ。
書籍のなかで、その概念の全体像として提示されるのは「成長の連続体」と呼ばれるモデルである。そこには大きく「私的成功」と「公的成功」というふたつの成功概念に分けられている。そして「成功」に至るには「私的成功」からステップを踏む必要がある、と述べられている。




ここで注目したいのは、「成功」という文字が原書版で「success」ではなく「victory」と表記されていることだ。調べてみると、「success」は金銭的成功や社会的成功を意味するという。それに対して「victory」は、純粋に勝利や征服といった意味である。日本語で「成功」と訳された成功概念は、「success」ではないのだ。
どういうことだろうか。金銭的成功や社会的成功で「成功」を得ることはできないのだろうか。「victory」で示される人生の征服や勝利とは、なにを指すのだろう。




第二次世界大戦後に始まり、ソ連崩壊をきっかけに全世界で進んだ新自由主義といわれる過剰な金融資本主義。お金をたくさん持つ人が、なんでもかんでも効率的に金をまわすだけで儲かってしまう生産実態を伴わない経済は、働く喜び、奉仕する喜び、貢献する喜び、誠実さ、公正さ、美意識、正直、愛、忍耐、尊厳、道徳、倫理などを人間社会から奪ってしまった。そんなものがあっても利益は発生しないからだ。




人が創りだしたはずの金融運動に、逆に人格が振り回される現象を「物象化」と呼ぶらしい。価値観も思考回路も生活習慣もすべて「物象化」され、どっぷり侵されることを「包摂」という。もはや経営陣が物象化しその人格をも資本に包摂されている企業などからは近年、哲学者へ経営参画のオファーが舞い込むようになっているそうである。世界のエリートたちは、自分が手を染めている金儲けが、道徳的人道的倫理的でないことに気づいている。そこに人としての「victory」がないことに気づいているのだ。




「7つの習慣」にも強い影響を与えたアメリカ合衆国建国の父のひとり、ベンジャミンフランクリン。彼の言葉に、こんなものがある。
Doing well by doing good.
「善い行いで成功する。」
自らの人生を征服し勝利する。善い行いによって自分の人生に勝利する。
今、改めてベンジャミンフランクリンの残したこの言葉を、日常のド真ん中に据えて行動したいと思うのだ。

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