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大迷惑

リッパな日本人たるもの、他人様に迷惑だけはかけてはイケナイ。一人前の大人なのであれば、自分のことは自分だけで完結し他人に頼るべきではないという。
これはいけない。とてもぼくには出来そうにないと、少年藤堂は恐れおののいた。なぜって、幼少期から他人様には大変よく迷惑をかけてきた自覚があったからである。




父や母の友人宅や近所のお宅に勝手に上がり込み、遊ぶ。冷蔵庫を勝手に開け自宅ではお目にかかれないジュースをいただく。留守中に庭で遊ぶ。上がり込んだお宅でこれまた自宅では許されていないTV番組を堪能し、そのまま夕飯をご馳走になり、風呂まで入ってから帰宅する。そういったことは日常茶飯事であった。




「てっちゃん、おかあさんには云ってあるの?」
いんや。もちろん云ってない。即座に首を振る。当たり前だという幼児の悪びれもしない堂々たる態度に、大人が慌てて自宅へ連絡すると、電話口から「そこにいたか~」と父や母の大きな笑い声が聞こえてきたものだ。そしてそんなときも、別段咎められはしなかったのだから、現在の社会状況からくらべれば驚くべきことである。本当は大迷惑だったろうに。今更だが、この場を借りて心からご同情申し上げたい。




こうした環境で育ってしまったせいだろうか。迷惑はかけるもの、と考えるようになってしまった。迷惑をかけずに育ってしまったら、それこそロクな大人にならないとまで思っている。迷惑はかけあうもの。他人様に迷惑をかけずに暮らすなど窮屈でしかたがないではないか。どの程度か、という塩梅はお付き合いのなかから醸成されていくものであろうが、どうせ迷惑かけちゃうんだから、かけられても受け入れる他にない。




自立だの自己責任だのとご大層なご意見を拝聴することが多くなったが、そう云う御仁は本当に自分だけで生きてると思ってるのだろうか。迷惑ひとつかけずに暮らしているとでも思っているのだろうか。もし、本気でそう思うのならば傲慢が過ぎるというものだろう。元来、人は迷惑をかけあい、許し合い、助け合わなければ生きてゆくことなどできないからだ。




今、迷惑をかけないように息をひそめ、少しのことで迷惑だ迷惑だと他人を断罪し、監視し、裁き、許さず、助けることもしない極端な個人主義がまかり通っているように感じる。さも1000年の昔からそうであったような言い草で、自己責任論をふりかざす。自立だ自立だと声高に主張する。そのくせ、そうやって他人を批判しつつ、明日は我が身と縮こまっている。



なーんだか、つまんないのである。そんなんでは、ちぃーっとも楽しくないのである。
迷惑をかけ、かけられ、おせっかいをしまくり、本音を云ってぶつかり、共に笑い、泣き、許し、助けあって、がっはっはと肩を抱きあって生きていきたいと思うのだが、それこそご迷惑であろうか。少しばかり暑苦しいのも、ご愛敬ということで許していただくわけにはいかないだろうか。

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