最後の海岸線

 運転するオープンカーのハンドルを切ると、そこは見渡す限りに広がる大海原が見える。走る国道の上は雲一つない晴天で、海の上は荒波で白波がたっていた。海上の風はとても強いようで、屋根を開け放った運転席にもその風が強く吹き付けてくる。頬をなでる風が心地よく、オープンカーのだいご味を感じながら海を横目にアクセルを踏む。
 うねる白波の海には数多くのサーファーが躍るように波の上に立っていた。地元民が集まるこの海岸ではほとんどのサーファーが上手く波を乗りこなしているが、時々、どうしようもないほどの下手っぴがいて、バランスを崩すと手をバタバタと動かしてはますますバランスを失い、後ろにひっくり返って新しい白波を生み出していた。その光景を目にすると思わず笑ってしまう。
「ははっ、下手くそだな。姿勢が高いんだよ。もっと腰を落として重心を低くしないと」
 聞こえないのにアドバイスを送りながら、俺はカーブにあわせてゆっくりとハンドルを動かした。
「ま、何回でもこければいいさ。何度でも起き上がることで人は学習するんだ。遊びも仕事も同じだよ」
 口に出して思ったことを言ってみると、それがジジイの説教だと気づいて苦笑を漏らしてしまう。いつの間に、こんなに年を取ってしまったんだろう。定期的に先進医療を受けてきたから肉体こそ四十代と変わらないが、脳細胞だけは若返らせることはできない。車の運転だって、自動運転のアシスト機能がついているからスムーズだが、アシスト機能を切ってしまうと反射神経が衰えているのですぐにガードレールを突き破って、崖の下に新しい白波を作ってしまうことだろう。医療の革新と技術の進歩のおかげで、我々高齢者は人生最後の青春を謳歌することができているのだ。その恩恵にあずかる俺は心から感謝している。
 技術の進化は本当に人間の欲望を次々と叶えてくれた。今、乗っているオープンカーは初代ロードスターなのだが、当然、本物のロードスターではない。本物のロードスターなど、レストアしたものすら街中で見かけることはなくなった。だが、3Dプリンターが進化したことで、今や車の外装は自由自在だ。新しいものから古いものまで、メーカーは数多くの車のデザインを用意しているし、もちろん最新のデザイナーのデザインだって選ぶことができる。その中でも我々高齢者は懐古趣味で選ぶのが流行りで、若い頃に乗っていた車のデザインを採用することが多かった。特に同世代の車好きは若い頃でもベンツやBMWなどに乗っていて、その外装を選ぶことが多い。
 だが若い頃の俺は貧乏で、乗っていたのは中古のロードスターだ。今でこそロードスターを気に入っていて愛おしく思っているが、若い頃は上昇志向が強く、国産車に乗っていることを恥ずかしく思ったこともある。実際に、当時付き合っていた彼女にも、「俺はいずれ外車を乗り回すんだ。その時は助手席に乗せてやるよ」と豪語していた。そんな大風呂敷を広げてきたものだから、いつまでもロードスターに乗り続けている俺を彼女は指をさして笑った。
「あれだけ言っておいて、まだ国産車に乗っているのね。いい加減、はやく私を外車に乗せてくれない?」
 そう言ってケラケラと笑うものだから、俺は腹を立てていた。だが、その時の俺は強く言い返すこともできなかった。当時は何一つ成功したことがないから、その劣等感もあって自分に自信を持てずに、いつ自分が振られてもおかしくないという気持ちでいたからだ。
 ましてや当時の日本は過去に類を見ないほどの好景気に沸いて、一流企業に就職した同年代の友人は高収入を得ている時代だ。高級外車を乗り回す者は何人もいる中で、一番の車好きを称していた自分がそれを得ていないことが悔しかった。日本全体が貧乏ならば俺の貧困も納得できたのだけど、俺以外みんな裕福だったのだから虚しさは際立ってしまっていた。
「お前みたいな貧乏人は一生結婚なんかできないぜ。彼女のことは諦めて別れなよ」
 当時付き合っていた彼女を狙う男は何人もいて、そのうちの一人から言われた言葉だ。その言葉が呪いのように俺の心に張り付いて、ますます俺の劣等感を際立たせていった。
 それでも俺は、いつか成功することを信じて生きてきた。年老いた今、自分が成功したという自覚はないものの、こうして最新鋭の車に乗れているのだから頑張ってきた甲斐があったと納得はしている。
「そうだ。この車には最新のAIが搭載されていると言っていたな。なんでも過去の知り合いでさえAIが再現してナビゲートしてくれるとか。まだ試してみたことはなかったが、ちょっとやってみるか」
 俺はカーナビの音声認識機能を起動させ、AI再現システムを選択する。カーナビからガイダンスがアナウンスされた。
「この機能は、最新鋭の脳波測定器を使い、あなたの記憶の中の人物をAIとホログラムで再現するものとなります。これより脳波を測定しますので、あなたが再現したい人物を思い浮かべてください」
 俺は迷うことなく、過去に付き合っていた彼女を想像した。最後に会ったのはもう何十年も前の話だ。実のところ、彼女の顔も声もほとんど覚えておらず、どこまでしっかりと思い浮かべることができるかわからなかったが、俺は彼女に会いたい一心で強く念じた。
 すると、ブウン、という電磁音が聞こえ、助手席に水のかたまりに似た薄い光の渦ができた。その光の渦は徐々に色が濃くなっていき、うっすらと人の姿をかたどっていく。
「ほう。これが最新のホログラムってやつか」
 立体で映像を映し出す技術は近年目覚ましい進化を遂げていると孫娘から聞いていた。ホログラムは最初は映画館などの一部の遊戯施設のみで使われていたが、今では体験学習や医療実習などでも使われているらしい。おじいちゃんも使ってみればいいのに、と言われてきたが、「そんなわけのわからないものは使えるか」と突っぱねてきた。だが実際に使ってみると、こんなにも感動するものなのかと気づかされる。起動して数秒後には、光の渦はしっかりと女性の姿を現わしていた。太陽の下では若干の透け感はあったが、しかしそれは確かに人の姿であり、そして当時付き合っていた彼女そのものだった。
 彼女は当時と変わらない、人懐っこい笑顔で振り向いてニッコリと笑った。
「お久しぶり。元気にしてた?」
 人工知能を感じさせない人間味のある声だ。語尾が上がる独特のクセまで、AIは見事に再現している。何より顔の表情が柔らかい。今にして見ると少々古めかしいその髪型も、個性にあふれたその服装まで、何から何まで記憶に合致する。俺が忘れていた細部まで、ホログラムはしっかりと具現化してくれていた。
 久しぶりに愛しかった彼女の姿を見て、不覚にも目頭が熱くなる。強がるのが精一杯だ。
「ははっ、あの頃のままだね。記憶もおぼろげなのに、なんでこうも正確なホログラムができるのだろう」
 強情なふりをしているが、自分の声が震えているとわかる。久方ぶりに感情が奮い立っていた。
 彼女は俺の感情の揺らぎを気づかないふりをして平静と笑う。
「私はただのホログラムではないの。今や脳波を測定することで、過去の映像をそのまま映すことができるようになっているわ。人は過去を忘れても、脳細胞は確かに記憶しているの。脳波は忘れた記憶すらも読み取ることができる。もちろん、多少はAIが補正しているけど。でも、どうかしら。私はあなたの記憶の中の私でいられてる?」
「もちろんだ。むしろ、記憶の中の君よりももっときれいになっている気がするね。これは思い出が美化されているからなのかな」
「ひどいわね。私、もともと美人よ。美化された、なんて言われたら、昔の私がいまいちだったみたいじゃない」
 その言葉を聞いて、思わず噴き出して笑ってしまった。何も変わらない。自己評価の高い彼女を見事に再現しきっていた。
「失礼だったね。確かにあの頃の君のままだ。しかし、脳波の測定にしかり、AIの技術にしかり、技術の進歩は目覚ましいな」
「そうね。以前から居眠り運転を防止するために脳波測定は義務化されたけど、今では思い通りにホログラムで再現できるようになったわ。事故も減ったし、退屈することだってないの。素晴らしい世の中ね」
 彼女はまるで自分が開発した技術のように胸を張って誇る。付き合っていた当時から、もともと虎の威を借りる狐のような女性だった。だから今さら腹を立てることはないが、それでも当時はその性格に振り回され続けたことに思うところがある。なにか一矢報いたくなって、俺は周囲を見渡して他に車が走っていないことを確認すると急ハンドルを切ってスリップさせた。
「え、きゃっ!」
 彼女の悲鳴と共に、タイヤのこすれる音があたりに響き渡る。眉をひそめて顔を伏せる彼女を見ると、すうぅと胸から何かが落ちる感覚があった。非常に満足したので、俺は車体を元に戻した。
「AIなのに、ちゃんと驚くんだな。良い顔してたよ」
 そう言うと彼女は頬を膨らませて俺を睨んできた。
「ひどいことをするのね。だから昔の私に振られたんじゃないの」
「俺を振ったことまで覚えているんだな。だったら聞かせてくれないか。俺を振った本当の理由ってなんだろう」
 すると彼女は首を横に振った。
「それは知らないわ。私が再現できることは、あくまであなたの脳に記憶された情報だけなの。あなたが直接、それを聞かされていない限りは理由まではわからない」
 どうやら全てが万能、というわけでもないようだ。正直、本当の理由なんて語らなくてもいい。でたらめでいいから理由を言ってもらって、過去の疑問を晴らしたかっただけなのだから。意外とAIが気が利かないとわかって冷たく当たってしまう。
「そうか。だったら君を再現した意味がいないな。その理由を知らなければ、君は俺が知る君ではないんだから。今の君は俺の記憶の中の君と同一視しているようだけど、それでは存在意義がない」
「やっぱりいじわるな人ね。私が私でないなら私は誰なのよ」
「君が彼女であると言うのなら、ぜひ俺を説得して欲しいものだね」
 俺は彼女が困るとわかりつつ、そう言った。自分が自分であることを証明するなんて、もはや哲学の分野だ。AIも時代と共に進化し、もはや自我が芽生えているとすら評されているけれど、インプットされた知識で証明することはできないだろうと踏んでいる。きっと学習された情報をもとに難しい哲学の専門用語を持ち出してくるのだろうが、俺はそれを理解しても突っぱねるつもりだ。そうすることでマウントを取る。昔、口喧嘩に勝てなかった恨みをようやく晴らせると気持ちが浮ついていた。本当に嫌なジジイになったものだ。
 だが、彼女はそんな俺の胸中を察しているのか、穏やかな微笑みで返してきた。
「あなた、普段、鏡を見てる?」
「鏡?もちろん、今でもちゃんと身づくろいはしているさ」
「そこに映ったあなたは、本当のあなた?」
「当たり前だろう。鏡なんだから」
「本当にそうかしら。だって、鏡の中のあなたは私を愛した時の記憶なんて持っていないわよ」
 ぐっと喉が閉まった感覚がする。ここからはどんなに言い返しても、堂々巡りだ。記憶なんてなくても、鏡に映った俺は俺だと言えば、だったら私も私よねと言い返される。記憶がないから俺ではないと言えば、本当に?だって鏡に映るあなたの姿なのよ?と言い返される。似たような禅問答は付き合った当初から繰り返されたことだ。そのたびに煮え湯を飲まされた記憶までもが呼び起こされてしまった。
 言葉に詰まった俺に彼女は優しく声をかけてきた。
「私はあなたの記憶の中にある私の鏡なの。なぜなら、私はあなたの記憶の中の私を再現した存在だから。確かに足りない部分はあると思う。だけど姿も言葉も、私はあなたの記憶のままでいるはずよ。必要十分条件の関係で言えば、十分条件はそろっているわ。それでもあなたが私を否定するなら、今度はあなたの方が証明しなければいけないわよね。私のどこが不十分なのかを」
 口調と表情こそ優しいが、言葉は俺を突き刺すナイフだ。否定できるものなら否定してみなさいよとあの頃のままの強気な彼女に見える。AIだからといって油断した俺が悪い。AIは見事に過去の彼女を映し出し、上下関係も再現していた。俺は白旗をあげるしかない。
「わかった、わかった。俺が悪かった。君はあの頃の君だ」
「わかればいいのよ」
「まったく、AIっていうのはたちが悪い。どうせ脳波を測定して、どうしたら俺を言い負かせるかも計算しているんだろう。そりゃケンカにならないね」
 ふてくされる俺に彼女は機嫌を取るつもりなのか笑いかけてきた。
「そうかもね。でも、悪いことばかりじゃないわよ。今の技術ならふさぎ込んだ子供の心だってAIが改善させるプログラムまであるわ。けっこう社会の役には立っているのよ」
「AIを否定しているわけじゃないさ。ただ、やはりジジイには全てを受け入れるのが難しいって話だ。技術の進歩には感服したが、心のどこかでやはり作り物だろうという気持ちある」
「あら。じゃあ、私のことは受け入れられないの?」
 不安げな顔でこちらを見上げてきた。その表情も、ケンカした時にする彼女の表情だ。
「いや、もうとっくに受け入れているよ。見た目も話し方も、当時と何も変わらなかった。AIが作り出している君かもしれないけれど、それでも久しぶりに会えて嬉しいよ。とりあえず今日一日はこうして付き合って欲しいものだね」
 そう言うと彼女は可愛らしくニッコリと笑った。
「いいわ。いつまでも付き合ってあげる。あなたが飽きるまでずっと」

 彼女と付き合っていた期間は四年だったはずだ。これまで付き合った女性の中でも一番交際期間が長い女性だった。付き合っていた期間が長いからか、ある意味において妻よりも思い入れが深いように感じる。別れからは一度も会っていないから、美化されている部分も大いにあるからだと思うが。
 彼女とは大学三年の時に出会い、卒業前に交際を開始した。俺が就職してからは大人の付き合いとして深く愛し合うようになった。ただ、俺は他の同年代と比べて貧乏だったし、サービス残業や休日出勤が多かったこともあって、実際に一緒にいられた時間は少なかったように思う。せっかくの休みの日も、デートに出る気力がなく、一緒に家で過ごすことが多かった。疲れとストレスで彼女に当たってしまうことも少なくなかっただろう。それでも彼女はずっと俺に寄り添ってくれていた。よく食事を作ってくれたし、定期的に部屋の掃除をしてくれた。時には性欲に負けて、身勝手に彼女を抱いたこともある。それでも彼女は俺を見捨てずにいてくれたのだ。その感謝は忘れたことがない。だけど、彼女は俺の昇進が決まると同時に俺を振った。せっかく金銭的に余裕が出てくるというのに、彼女は理由を告げることなく、きっぱりと俺を突き放して去っていったのだ。その時の心のしこりのようなものがずっと残っていたから、こうして会えたことが心から嬉しい。
 俺は懐かしさを感じながら、緩やかなカーブが続く海岸線を進んでいく。
「この道も懐かしいな。デートの時に何度も通った道だ」
「そうね。海に行くにも、花火大会にいくにも、この道は必ず通るからね。あなたとのデート、本当に楽しかったわ」
「たとえAIでも、そう言ってもらえると嬉しいね」
「あら、本当に思っていたからそう言っているのよ」
「疑っているわけじゃないさ。ただ、俺は年を取った。いちいち言葉に枕詞をつけたくなってしまう。若い人にはそれが面倒くさく感じるそうだが」
「ふふっ、いいじゃない。それは老人の特権よ。若い人は老人の長い小言を聞く義務があるの」
「思ってもいなかったことまで言うんだな。当時の君なら老人が困っていても鼻で笑って、相手にもしなかっただろう」
「そんなことはないわよ。私、あまり人を嫌わないもの」
「そうだったかな」
「そうよ。あなたが忘れているだけ」
 そう言われて考えてみると、思い出せないことはいくらでもある。例えば、彼女と行ったレストランで何を食べたのか、あるいは花火を見た後に何をしたのか。大切な思い出だと言いながらも、それはぼんやりとした形のないもので具体的な形は何も思い出すことができない。
 ただ、それが悔しく感じていなかった。最近では忘れることに慣れている。
「色んなことを忘れていくけど、君と過ごした四年間が楽しかったことは覚えているよ。それだけは何十年経とうが失われることなく、俺の心の中で輝いていた」
「ありがとう。でも、そんなに良く言うと奥さんに悪いわ」
「もちろん、妻への感謝も忘れたことがない。君と別れて、ずっと俺を支えてくれたのが妻だ。感謝しているからこそ、外で遊ぶこともなく、浮気なんかもすることなく、家庭を大切にしてきたつもりだ。だが、比較するわけじゃないが、君と過ごした時間と比べるとぬるま湯だったよ。温かいし、何時間でも入っていられる。だが情熱は冷めていた。君と過ごした時間ほど、熱かった日々はないね」
「あら、そう?そう言ってもらえると私も嬉しいわ。私だって、あの頃は全てをあなたに捧げていた。それくらい、あなたのことが好きだったから」
 彼女はそう言いながら妖艶に目を細めた。小さな仕草でさえも当時の彼女と同じで、彼女がAIによって作られたホログラムであることを忘れかけている。そして、忘れることが幸せなんだと思い始めていた。
「君は俺と別れてからすぐに別の男と結婚したそうだね」
「ええ。その通りよ」
「その結婚生活は幸せだったんだろうか。いや、君にその記憶がないことはわかっている。だけど、どうしても聞きたくなってしまった」
 彼女は小さく息を吐いた。
「幸せ半分、不幸も半分ってところかな。あなたも知っていることだから答えるけど、私の結婚生活は五年も続かなかった。旦那は浮気をしていたし、私は子供もいたからそれを見て見ぬふりをしてきた」
「離婚したことは聞いている。浮気ってのは知らなかったが」
「本当のことを言えば、離婚調停の裁判資料にアクセスしたの。公式な書類だから閲覧できるもの」
「そうか。まあ、人生はその後が長い。離婚した後に幸せになっていればそれでいいんだが」
「ごめんなさい。そこまではわからないわ」
「そうだろうな。死んだとも聞かないし、ここで君がはっきりと言わないということは生きているんだろう。まあ、子供もいるんだ。元気に生きていれば幸せな瞬間もあるだろう」
「そうね」
「しかし、君も早まったな。君と別れたあと、俺は起業して社長になったんだ。もちろん、楽しいことばかりではなかったが、それでも裕福な生活は送れている。あのまま付き合って結婚していたら、君は社長夫人になって悠々と暮らせていたんだぞ」
 俺はてっきりうなずいてくれるものだと思っていた。AIは人を喜ばせるためにある。嘘でも人を持ち上げて、気を良くさせて喜ばせるものだと認識していた。だが、彼女は笑いながら首を振ったのだ。
「確かに私は後悔しているけれど、あなたは私と一緒にいたら起業は成功しなかったはずよ。そのことは自分でも気づいているんでしょ」
「何を言っているんだ」
「確かにあなたは必死になって働いていた。いずれ私を養うために頑張ってくれていたことは知っているの」
「そうだよ。俺は君と結婚するために必死に働いたんだ。いずれはもっと昇進して、お前に楽をして貰うために」
「きっと、あのままでもあなたは昇進できたでしょう。あなたは頑張り屋さんだもの。だけど、私がそばにいるのに会社を飛び出して起業することはできたかしら」
 その言葉を聞いた時、俺は口をつぐんだ。彼女が妻となり、子供ができた時、俺はリスクを取って起業という大きな賭けをすることができただろうか。
 俺のリアクションを見て、ほら見たことかと彼女は得意げに笑った。
「あなたは優しい人だから、絶対にできなかったはずよ。そして起業することはあなたにとって夢だったはず。あなたは学生の頃に教えてくれたわよね。いずれは自分の会社を立ち上げて大社長になるんだって。そのために小さな会社に入って、経営に携わりながらノウハウを盗むんだって。いずれ大金持ちになって、お前のために高級外車を買ってやるんだって約束してくれたじゃない」
「そうだったか。いや、君を外車の助手席に乗せてあげると約束したことは覚えているんだが、夢について語っていたことは忘れていた」
「しかたないわよ。そういう年齢だもの。でも私は覚えているの。上昇志向を持っているあなたを好きだったことを。就職して最初の頃は、会社の帳簿のコピーを持ち帰って経営の勉強をしていたじゃない。いずれ、この人は偉くなるって思ったから、私はずっとあなたとあなたの夢を支えてきたつもりよ。だけど、あなたはいつしか仕事のことしか考えなくなったわ。日々の仕事に追われるばかりで夢のことなんて忘れていった。私、あなたに仕事と私のどちらが大事なのなんて言うつもりはなかったの。だけど、私のために夢を捨てたんだとしたら私の存在って邪魔だって思ったし、私自身もこれまで何のためにあなたに尽くしてきたのかわからなくなったわ」
「それが別れた理由か」
「さっきも言ったけど、本当のところはわからないわ。今、話したことはあなたも知っている私の本音の一部。他にも色々要因はあったと思うけど、きっと別れた方がお互いのためになると思ったのは本当よ。ただ、あなたは成功して、私は離婚したけどね」
 そう言って彼女は自虐的に笑った。その寂しげな笑顔を見ると不思議と心が満たされる思いになる。卑劣ながら、俺を振った彼女があまり幸せではないという事実が俺に優越感をもたらせて幸福感を満たしてくれた。まったく、ジジイってのは自尊心が高くて困る。本当は一緒に悲しみたいのに、感情を制御することすらできないのだ。
 しかし、感情をコントロールできないからこそできることもある。俺は恥も外聞も捨て、AIによって作られた彼女に言った。
「なあ、こんなことを言うと、妻に怒られることだが」
「改まって何かしら」
「君のことが好きだ。もう一度、付き合って欲しい」
 彼女は目を丸くし、そして間をおいて上品に笑った。
「ふふ、あなた、私がAIで動くホログラムなのを忘れているわ」
「忘れてはいないさ。だけど、AIに恋をしてはいけないという法律があるのか。どうせ老い先短いこの身の上だ。最後に恋ぐらいしても罰は当たらないだろう。ま、罰が当たってもいいさ。俺に最後の恋をさせてくれ」
「もう、何を言っているのよ」
 そう言って彼女は照れ隠しに俺の肩を叩いてきた。思わぬ強さに、少しハンドルが持っていかれる。
「痛いな。何を照れているんだ」
 そう笑いながら、俺は傾く車を立て直した。そして、あまりにも都合良いこの状況が俺に真実を教えてくれる。どうやら俺はもうすぐ死ぬらしい。
 技術の革新によって、自動車が進化したことは事実だ。だけど、いくら自動運転が進んだ世の中でも一四〇歳の俺が車をコントロールするなど無理があることだ。また、脳波を読み取る装置があることも知っている。だが脳波を読み取るだけで記憶の中の彼女をホログラムで再現することができるのだろうか。俺は彼女の名前すら思い出せていないのに。極めつけはホログラムが実体化していることだ。映像技術のホログラムが俺の肩を叩くことなどできるはずもない。
 一つ、一つ、状況を整理していくと、これが現実ではないことがわかる。どうやら俺は都合の良い夢を見させられているんだ。おそらく人工的に作られた走馬灯。過去の記憶を都合よく改変した夢物語を見させられている。今の時代は医療技術も進化していて肉体がなかなか滅ぶことはないのだが、それでも脳は死ぬ。脳の死こそ、今の時代の死亡なのである。おそらく現実の俺はベッドに横たわり、たくさんの管をつながれて死ぬ瞬間を待っているはずだ。そして家族か医者が、せめて最期の瞬間くらいは良い夢を見させようと、脳波と薬物で夢をコントロールしている。
 つまり、これは最後の夢であり、最期の幸福の時間だ。技術と金をかけた最後の夢なんだ。ここからの夢の続きは俺の脳がどれだけ持つかにかかっている。延命治療をしてくれているはずだから、もうしばらくはこの素敵な夢の世界に浸ることができるだろう。
 すべてのカラクリに気づいたが、それを指摘して怒る必要はない。気持ちはすっかり昔に戻り、彼女を愛することで幸せな気分に満ちている。この幸せな気持ちのままで人生を締めくくるのも悪くはない。
「それで?これから、どこに行くの?」
 彼女は笑顔で聞いてくる。俺は笑って答えた。
「初めてのデートで行った海辺のレストランに行こうか」
 そう言って俺は名前を忘れた彼女を乗せたままアクセルを踏んだ。

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