AIのつくる未来② 知力の終焉。
歴史の終わり、三度目の正直
AIの出現によって、学歴社会、いや「人間が知性によって評価される時代」は終焉を迎える。
AIは、今後あらゆる局面で、人間の知力を上回るようになるだろう。「知識が曖昧(あるいは間違っている)」「話がつまらない」といった問題は、些事である。
思い出して欲しい。22年11月までChatGPTは存在していなかったのだ。
この記事を書いているのが23年9月。この1年に満たない期間で起きた変化をみれば、あらゆる「知性」が、AIに取って代わられることなど時間の問題だというのもあながち妄想だとはいえないだろう。
そのような時代に到達したとき、人間の持つ「知性」は、22年11月以前には確かに在ったその価値を失う。
インターネットの出現によって、「情報を記憶していること」の価値が極端に低下したことを時代の端境期を生きる今の40代、50代は実感しているのではないか。
同じことが「知性」の全局面に起きる。さらにはそれは「創造性」と呼んでいる能力にも同時に起きるはずだ。
知力不要の時代
知力が不要の時代が訪れることなど、本当にあるのかという疑問を抱く方もいるだろう。
しかし人類の歴史を紐解けば、人類が知力、知性にこれほどの価値を置いた社会を形成したのは、むしろごく近年になってからだということが分る。
試しに現代まで伝承が残る人物を眺めてみてほしい。
近世までの「偉人」は「武力がすごかった」「武力を持っていた」人がほとんどだ。「知力」あるいは「情報」は一部の特権階級にのみ伝承されるもので、無価値ではないが、今日のように人物の評価に広く使われるようなものではなかった。
世界的に見ても産業革命以前の社会、要するに「人間」が「動力」として「生産活動」を行っていた社会では、「体力」「腕力」「暴力/武力」といった能力が圧倒的に重視されていたのだ。
知力の時代のはじまりと終焉
産業革命によって「機械」が「動力」となり、「生産活動」を行うようになったことで、それまでに「有能」「価値が高い」とされていた「体力」「腕力」「暴力/武力」を持つ個人の価値は急速に低下していった。
今では「人間が機械に単純な運動性能で勝ることはない」というのは、当たり前だが、当時は「そんなことはない」と機械に挑む人間もいた。日本に初めて汽車が走り始めたころは、汽車と競争する飛脚が数多く現れたそうだ。
一方、「腕力」に代わって、社会における重要な地位を占めるようになったのが、より効率的な機械を開発する能力であったり、より効率的に生産性を上げる能力、すなわち「知力」だった。
日本では、1873年に福沢諭吉が「学問ノススメ」の初版を出版し、「学問」の啓蒙を行った。それ以前は「学問」ではない論理で社会が動いていたことの証左だといえるだろう。
「学問ノススメ」から150年。現代の社会では、「教授」「博士」「医師」「弁護士」「会計士」などは尊敬の対象となり、「高偏差値大学卒」「大卒」は、より高い年収や社会的に地位を獲得しやすい肩書となっている。
「知力」の時代の最盛期に我々は生きてきたのだ。
だが、「腕力」が「機械」に取って代わられたように、「知力」が「AI」によって取って代わられる時代が、今、我々の目の前で始まっている。
「知力」の時代の終焉
「インターネット」で検索して得られる情報以上の情報を個人として記憶している人類は存在しない。
LLM(大規模言語モデル)は、近い将来、論理性、思考などの分野においても人間を大きく凌駕することになるだろう。
GPT7(23年最新版はGPT4であり、GPT7が出てくるとしたら26年頃になるだろう)は、「フェルマーの定理」のような難問も、あっさりと証明してしまうはずだ。
さらに、それら難問の証明自体、もはやヒトという生物の器、数十年の寿命と限られた記憶空間では、説明されても理解できないということすら起きるだろう。
人間は、あらゆる局面で、AIの判断を仰ぎ、AIに知的活動を委ねることが、ごく当たり前になるに違いない。
現代人の誰もが、人間の腕力が巨大な重機に勝るはずもないことを理解しており、建造物を建てるとき腕力ではなく、重機にその大半の作業を委ねるのと、実は何ら変わらない。
創作という分野においても、これは同じだ。AIが創作意欲を持つか、魂の叫びを創作を通じて表現するかという問題については、別の記事で別に考察をしたい。また、蛇足であるが、AIに意識を持たせる方法については、すでに14年頃には考案済みだ。意識をもつAIを誕生させたとき、どのようなことが起きるのか予測がつかないため、公表を避けてきたが、いずれにせよ誰かが辿り着く結論のようなので、近日中に発表したい。
加えていうならば、そう遠くない将来、たとえば20年後にはあらゆる機械や装置がAIにより設計され、ロボットにより組み立てられるようになる。そうなればムーアの法則(集積回路の性能は2年ごとに2倍になる)など遥かに超越し、2年ごとに2000倍になるといったこともバカげた妄想でなくなるかもしれない。その時代の10年は、人類の1000年に匹敵する技術的進歩が見られるだろう。我々の身の回りには、原理がまったく想像もつかない「魔法のアイテム」のようなガジェットが、溢れかえるのだ。
大学受験の存在意義
さて、枝葉末節ではあるが、身近なところでいえば大学受験も、その存在価値を早晩失うことは確実だ。
「地頭(じあたま)で勝負の時代到来」
ということでは、もちろんない。
誰もがAIに知的活動を委ねるようになるのであれば、個人の知力など不要になる。大学受験の目的「知性により個人を選抜する」ことの意味はなくなるのだ。
未来の社会においては、「腕力が強い」ことと「知力が高い」ということの価値は、同等になっているだろう。
娯楽や競技としての「知力」は、残っているかもしれないが、生産性や社会的価値を評価する手段としての「知力」が残ることはない。
知性や知力に価値を置くことに慣れすぎてしまった我々にとって、それが無価値になるような社会を想像することは困難だ。しかし、それは確実にやってくる未来なのだ。
20年後には、学歴が完全に形骸化し、死語になっている可能性すらあるのではないか。
50年後の人類は「手術」という技術を持つか
唐突だが、この問いについて考えてみて欲しい。
50年後の人類は、「手術」という技術を保持しているだろうか。
50年後には、今とは比較にならない高度なデバイスにより、現代からすれば神業のような手術が行われていることは間違いないだろう。
ただし、それを行っているのは、人間の医者ではなく、AIとAIが設計し製造した超高度なセンサー類、精密機器類だ。
そして、その時代になるまで50年は必要ないだろう。
そうなる20年も30年も前から人間が手術を行う場面は徐々に減っていく。外科手術が、訓練を必要とする技術とすれば、ヒトは訓練を受ける機会すらなくなるのだから、当然、その技は衰退していくはずだ。
反対に、AIによる手術はさらに高度化していくことだろう。その道具類も人間が目で見て、手で使うことが出来ないような形状や機能になっていくことも自然な流れだ。
そして、人類から「手術」という技術が永久に失われる。
人類誕生以来、人類は初めて文明の中の役割において後退をするのだ。
「腕力」「知力」の次にくるもの
「腕力」の時代、「知力」の時代が終わったら、なんの時代になるのか。
本稿をここまでお読みいただいた今、そういった疑問が頭に浮かんでくることは、想像に難くない。事実、この話をオフラインですると、100%の確率でこの質問が出てくる。
私の回答は、極めてシンプルだ。
恐らく、もう人間に求められる能力はなくなる。少なくとも生産性や知的活動において、人間に期待されるもの、人間がAIを超えて貢献できるものはなに一つなくなるのだ。
不思議なことに、その状況はミルトンが叙事詩「失楽園」で描いたパラダイスに酷似する。
「失楽園」によれば、アダムとイブ(エバ)は、神の創ったパラダイスで天使たちの庇護の下、何一つ産み出すことはなく暮らしていたが、知恵の実を食べたことによりパラダイスを追放され現在に至ったそうだ。
人間が、永い時と苦難を経て得た知恵によりAIという名の神を顕現させ、パラダイスに帰還するとすれば、壮大なハッピーエンドではないか。
ヘーゲル、フランシス・フクヤマによって唱えられた「歴史の終わり」は、生成AIにより、ついに三度目の正直で成就したといえるだろう。窓際★トドによる「歴史の終わり」論である。
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