第五章 - こぐま座アルファ星

 合宿後すぐに開催された八月末の都個人大会で納得のいく成績が残せなかった優都は、櫻林での合同練習を経たその一ヶ月後、ぎりぎりで選抜資格を得た九月末の関東大会個人戦ではそれに輪をかけて調子が悪く、予選からほとんど中らずに準決勝に進出することすらできない状態だった。昨年、自身が都個人の優勝者として出場した同じ大会では彼は入賞こそ逃したものの決勝までは順当に勝ち上がっていたし、今年こそはという思いもあったはずだ。昨年に到底及ばない結果で脱落することになった優都に、千尋はかけられる言葉を持たなかったし、雅哉もあたりさわりのない慰めを言うので精一杯のようだった。
 拓斗も松原も当たり前のように決勝に進出し、松原が準優勝、拓斗が四位という結果を持ち帰ってきたのを、優都は硬い表情で眺めていた。拓斗は自分の順位や当日の行射にはあまり満足がいっていないようで、試合が終わった後も終始機嫌が悪かったし、あらゆる感情を飲み込んで「おめでとう」と言った優都の言葉にも、まったく感情のこもらない字面だけの感謝を口にするのみだった。そのことに、優都より先にむっとした顔を露わにしたのは潮のほうだったが、口を開きかけた彼のことは京が制した。優都は特にそれ以上なにかを言うことはなかったし、潮の、「先輩なら次は大丈夫ですよ」という言葉にも笑顔で「頑張るよ」と返していたけれど、後輩が見ていないところで大きく溜息をついていたのも知っている。「大丈夫か」と千尋が問うと、優都は珍しく疲れたような表情で顔を上げ、その上に苦い笑みを浮かべて「大丈夫」と返した。
「秋季大会は団体もあるし、どうにか取り返したいな」
「それはいいけど。あんま無理すんなよ」
「うん、わかってる。ありがとう」
 わかってる、と言いつつ、優都がその言葉をわかっていた試しがないことも千尋は知っていた。彼は、「頑張れ」と言われたら頷くし、成功を祈られたらそれに応えるために全力を尽くしてしまう、そういう男だ。その意味でも、優都は拓斗とはまったく相容れない存在だ。拓斗は、他人の期待も理想も重圧も意に介さないし、それが力になることもなければ重荷になることもない。彼らは、自分の弓に対して真摯で、矜持があって、妥協をしなくて、そしてわかりやすく負けず嫌いであることだけは似ていたものの、それを支える根本の考え方が重ならなかった。
 優都は、思うように弓が引けないことに対して弱音を吐くこともなかったが、二学期が始まってからはそれまで以上に時間を惜しんで練習を重ねるようになっていた。彼は中学のときから、余裕のないときほどよく動く。報われてほしいとだれもに思われていたから、だれもが彼に対しては「頑張れ」以外の言葉が選べなかったし、優都はそれにいつでも笑って頷いていた。
 しかし、彼の不断の努力とはうらはらに、秋が深まるにつれて優都の調子は下がり続ける一方で、手を尽くしても一向に抜ける気配のないスランプに、彼は日に日にストレスを溜めている様子だった。後輩の前ではいつも通り振る舞おうとはしていたが、同期の千尋と雅哉だけが近くにいるときには、思いつめたように表情を消して黙り込んでいることも多くなっていた。
 十月半ばの秋季大会では、優都は個人戦では決勝に進めなかった。普段の練習よりさらに安定感を欠いた射は、つい一年前の彼の射と同じものとは到底思えないほどで、「自分で見たって悪いところしか見つからないな」と優都はそのあとビデオを見ながら千尋と雅哉の前で溜息をついた。そのまま、なにか考え込むように黙り込んでしまった優都の表情を、雅哉は心配そうな顔で窺っていた。秋季大会では、入賞を果たした雅哉のほうが優都よりもはるかに成績が良かったし、同じ予選敗退にしても潮の方が的中数では勝っていた。
 その一方で、優都と雅哉と拓斗で出場した団体戦の三人立Bチームは、優都の調子の悪さとは裏腹に、個人戦で準優勝となり冬の全国選抜への出場権を獲得した拓斗と、六位に入った雅哉の的中数で決勝まで順調に勝ち上がっていた。決勝トーナメント一回戦で準優勝の高校と当たり、わずかの差で敗退はしたものの、長いあいだ団体では予選通過すら危うかった翠ヶ崎が、都総体に続いて強豪校と競り合う成績をおさめたことは都内を驚かせた。しかし優都は、結果はともあれ主将である自分が団体の足を引っ張ってしまっているという事実には焦りを感じているようだった。個人では全国選抜を勝ち取った一年生が、団体でも翠ヶ崎を強豪レベルにまで導いた、と語られることを、元来負けず嫌いな彼が悔しく思っていなかったはずもなかった。
「頑張ってもうまくいかねえときはあるし、あんま自分のこと追いつめんなよ」
 雅哉の言葉に、優都は軽く頷いて「ありがとう」とだけ返した。
「いま、うまくいってなくても、おまえがいままでやってきたこととか、できるようになったこととか、なくなるわけじゃねえし。焦る気持ちはわかるけど、いまのおまえはちょっと頑張りすぎに見えるよ」
 しんどかったらちゃんと休めよ、と言った雅哉に、優都は素直に頷いた。けれど、優都にそれができないことを、千尋は中学のときから知っていたし、言った本人の雅哉もとっくに察しているだろう。無理をするな、も、休んでもいいよ、も、まったく救いにならない人間がこの世の中には居て、優都は典型的だ。それでも、そのことをわかっていたとして、そう言う以外に他人ができることもなかった。

**

「森田、今日的中率いいな。引き方変えたのか?」
「すこし。……でも、ただ中るだけだよ」
「そうか? 調子よさそうに見えたけど」
 十一月の新人戦を目前にした練習の最中、雅哉に声をかけられた優都は、どことなく煮え切らない表情を浮かべていた。彼はその後、手に持った四射を皆中させて戻ってきたときですら、やはりどこか晴れない顔をしていた。もう半年以上、優都は自分が自分に求める能力を満足できていないことに日々余裕を失っている。それがこの日は特に顕著で、矢は的を捉えているのに、優都はずっと一射も中っていないかのように追い詰められた表情をしていた。わかりやすく口数も少ない優都の様子を見て、雅哉は困ったように肩を竦めて千尋に目線を送り、千尋は「さあ」と首を振ってそれに応えた。
「なんか聞いてる?」
「なんも。今日機嫌悪いなあいつ」
 潮からの相談を受けてか、端のほうでなにかを教えている優都は、そこだけ見ればいつも通りの顔をしていたが、潮が頭を下げて離れていった途端、また硬い表情に戻った。優都はそのあとも四本中三本を中てて射位を離れたものの、やはりなにか思うところがあるように眉をひそめていた。
 「千尋、姿勢が悪いよ」と優都が千尋に声をかけたとき、近くにいた拓斗が優都に視線をやって、わざとらしくすぐにそれを逸らした。
「なに、風間」
 それに気付いていたらしい優都が拓斗を呼び止めた声は、おどろくほどの冷たさを孕んでいた。拓斗は面倒そうな表情を隠しもせず、「別に」と応対して場を離れようとしたが、優都はそれを許さなかった。
「言いたいことがあるなら言えよ」
 優都、と千尋が諫めようとするより早く、拓斗が溜息をついたのが聞こえた。拓斗も拓斗で今日は見るからに機嫌が悪く、部活が始まってから、必要最低限を除いてだれともろくに会話を交わしていない。それ自体はさほど珍しくはないとはいえ、機嫌の悪い拓斗にわざわざ優都がなにかを言うことも普段はほとんどない。
「ひとにはいろいろ言うわりに、自分だってめちゃくちゃ中て射じゃねえすか」
「……わかってるよ。どうもありがとう」
 拓斗の言葉に皮肉を突き返した優都は、そのまま拓斗に背を向けて、一番端の的前へと向かった。「おまえらなあ……」と呟いた千尋の声は、拓斗には届いたようで、拓斗はすこしだけばつが悪そうに千尋から視線を逸らした。
「先に喧嘩売ってきたのはあっちですよ」
「どっちもどっちだろ。いまさら仲良くしろとも言わねえけど」
 拓斗は謝りはしないままぶっきらぼうに浅く頭を下げて、優都が向かったのとは反対側へと歩いて行った。優都と拓斗の折り合いが悪いのはいまに始まったことではないが、練習中にここまでわかりやすく敵意を向け合っているのも見ない光景だ。拓斗はもとより他人にさほど興味を示さないし、優都が、半ば八つ当たりのような行動を他人に、特に曲がりなりにも後輩に対してとるところなど、千尋ですらほとんど見たことがなかった。
「潮、足踏みがちょっと雑だよ。爪先の向きにちゃんと気を配って」
「すみません、ありがとうございます」
 そのあとも部員の射型を確認しながら助言と指南を加えていく優都は、拓斗から指摘を受けたあと、自身は見るからに的中数を落としていて、表向き顔や態度からは隠していたもののフラストレーションは溜めているようだった。自分の調子が悪くとも後輩に指導を求められれば快く応じる彼は、主将として振舞うことには手慣れているが、だからこそ、一選手としての懊悩をどこにぶつければいいのかわかっていないのだろう。千尋はそれを受け止められるほどそもそもの技術がないし、雅哉も積極的に相談には乗るものの、優都の長いスランプの原因には首を傾げている。
 練習の休憩時間、潮になにか技術的なことに関する問いを受けたらしい優都は、しばらく潮の話を聞いたり射型を見たりしていたが、途中で「ちょっとやって見せるな」と言って潮の横で一本だけ弓を引いた。優都は、自分が潮に教えたこと自体はきちんと再現していたように見えたし、千尋の目から見る限りでは手本にするにも瑕疵のない行射でもあった。けれど、優都の放った矢は的の端を掠り、彼は弓を降ろしたあとちょっと眉をひそめて「ごめん」と言った。
「いまのじゃ説得力に欠けるかもしれないけど……」
「や、そんなこと。やっぱ先輩まじで射型綺麗だなって思いました」
「ありがとう。今日はちょっと安定してない自覚はあるんだけどね」
「そうすか? まあ、調子悪い時期はだれだってあると思いますし、優都先輩ほんとはこんなもんじゃないですもんね。俺全然知ってますんで」
「頑張るよ。潮も、見ててなにか思うことあったら遠慮なく教えて」
 潮から改めて礼を言われ、的前を離れた優都は、ペットボトルの飲み物を数口流し込んだあと、またひとの視線から隠れるようにして溜息を吐いた。
「調子悪そうだな」と千尋が声をかけると、優都は眉を下げて、「考えてはいるんだけどな」と返した。
「やみくもにやったって意味ないのはわかってる。……才能に恵まれてるわけでもないし」
 そう口にした優都が、ここのところ、試合や練習での自分の行射を撮ったビデオを見返したり、合同練習や練習試合で他校の顧問や部員から言われたことを何度も復習したりと苦心しているのを知っていた。千尋がなにか口を出すまでもなく優都はそういう人間だったし、例え口を出したところで変わらない生き方だということもとっくにわかっていた。
「調子が悪いってばっかり言うけど、俺はここ入ってから、森田さんが本番で調子いいとこみたことねえすよ」
 ふいに、千尋に背を向けて座っていた拓斗が、優都に視線も合わせないままそう言い放った。その言葉に、一瞬で道場の中が静まり返る。だれもが咄嗟に言葉が出ず、呼吸の詰まったような沈黙が何秒か続いたあと、「てめえ、」と潮が低い声でそれを遮った。聞いたこともないほど怒りを露わにした声色で拓斗に詰め寄ろうとする潮を、「いいから」と優都本人が制した。
「おまえの言いたいことはわかるよ。僕がおまえと比べて結果を出せてないのは事実だし、それを見て、僕の実力が信頼できないと思われているなら、それは仕方ない」
 優都は拓斗を見据えてはっきりとそう言い切った。まだなにかを言いたげな様子の潮は、主張を聞くまでもなく腹を立てている。京と由岐も、あまりの言いようにむっとはしているようだったが、どちらかというと困惑の方が大きいらしく、お互いに所在なさげに視線を交わしていた。
「そうやって無理に善人ぶって、無駄な労力使って、余裕なくして引けなくなってんなら世話ねえっすよ」
「――なにが言いたいの」
「別に。俺はいま、森田さんより古賀さんのがトータルで上だと思ってますけど、あんたはまだ自分のが上だと思ってるんだろうなと思って。たいした人間でも実力でもねえくせに、見栄とプライドだけは立派ですよね」
 あまりに歯に衣着せぬ物言いに、さすがの優都も眉をひそめたのが窺えた。拓斗の方もかなり苛立ってはいるようで、吐き捨てるような口調だった。彼は普段あまり自分から口を開かないし、自分の考えていることを表明することもしない。さほど得意ではないのだろうとも思う。そうやって半年間、既に出来上がっていたコミュニティの中で口を閉ざして、圧倒的な実力だけで他人をも黙らせて弓を引き続けていた拓斗が、言葉にしないままずっと抱えていたものもあったのだろう。
「おまえに、わかってほしいとも思わないよ」
 その言葉に、優都が返したのは背筋が凍るほど冷たい声だった。さすがに止めに入ろうとしたらしい雅哉が、その声色を聞いて二人に声をかけることを一瞬ためらった。由岐がほとんど泣きそうな顔でそちらを見ている。
「――おまえは、もともと特別製だろ」
 優都がその声に込めた感情は、彼がいままで、千尋の前ですらはっきり形にしたことがないほど敵意に満ちたものだった。それは、自分や自分の仲間にラベルを貼られることを嫌うはずの彼の、最大限の拒絶だった。自分と同じところには立たないでくれと言外に拓斗に言い放った優都は、ほんとうのところだれよりも、自分の限界というものには自覚的だった。
 一瞬黙り込んだ拓斗が聞こえるように舌打ちをしたとき、まずい、と思ったのは千尋だけではなかったようだったけれど、その瞬間に動けたものはひとりもいなかった。気付いたときには拓斗は立ち上がるなり数歩で優都と距離を詰め、その胸倉を掴み上げていて、バランスを崩した優都はそのまま後ろ向きに床に倒れこんだ。優都を床に押さえつけるような体勢になり、右手を振り上げようとした拓斗を雅哉が慌てて背後から押さえつけるまで、だれひとり非難の声すら上げられなかった。
「優都先輩!」
 不気味な沈黙を破ったのは、すこし上擦った潮の声で、大丈夫ですかと駆け寄る潮に、優都は「平気だよ」と答えて身体を起こした。
「森田、おまえいま変な方向に手付いただろ」
 雅哉の声は幾分冷静だった。優都は一度押し黙り、小さく頷いた。拓斗の肩を押さえたままの雅哉の代わりに千尋が優都に近寄り、「見せてみろ」と促すと、優都は大人しく左手を差しだした。すぐに見てとれるほど腫れているわけではなかったが、軽く押さえると痛みを訴えるように顔をしかめる。
「潮、アイシングと湿布頼むわ。部室にあるから探してきて」
「はい」
 ばたばたと駆け出していった潮を見送って、雅哉の隣に座り込む拓斗に視線をやると、彼はなにも言わず俯いていた。雅哉が千尋に目配せをして溜息をつく。任せる、の意を込めて肩を竦めて見せると、雅哉はもう一度深く息を吐いて、二人に同時に向き直った。
「おまえら、二人とも今日はどうかしてるよ」
 雅哉の言葉に、優都は「ごめん」と呟いたが、拓斗は顔を伏せたままなにも言わなかった。雅哉はそれ以上どちらのことも咎めはせず、部室から戻ってきた潮が優都の応急処置を手伝うのを待ってから、優都には顧問に怪我を報告して医者に行くことを言いつけ、拓斗には「頭を冷やせ」と言って部室に追い返した。

 その後、雅哉は部活を途中で切り上げて、拓斗以外の一年生には帰るように促した。雅哉は優都が帰ってくるまでのあいだ、しばらくは気を紛らわせるように何本か弓を引いていたけれど、途中で「気が散って無理だ」とそれを諦め、千尋と自分以外ひとのいなくなった道場の床に座り込んで大きく息を吐いた。
「森田も風間も、なに考えてんだかさっぱりだよ」と雅哉は低い声で零した。
「おまえ、意外と風間贔屓だな。びっくりしたわ」
 優都派だと思ってた、と千尋が言うと、雅哉は特に繕いもせず「どっちかといえばそうだけど」と答えた。先にきつい言葉を投げたのも、手を挙げようとしたのも拓斗だという状況で、雅哉が最初にとった対応が喧嘩両成敗のような発言だったうえに、いまも彼が優都と拓斗の責任を同程度に捉えているようであることが千尋にはすこし意外だった。
「そりゃ、俺は主将としても選手としても森田のことが好きだけど、外部から入って来た身でもあるから、風間の立場もわかんねえじゃねえし。森田のあいつへの態度はきついなって思うときもあるよ」
 そう言ったあと、雅哉は優都が戻ってくるまでにはそれ以上この件については口に出さなかった。三人立のメンバーとして、常に優都と拓斗のあいだにはさまれている雅哉だからこそ、二人の関係には感じるものがあるのだろう。優都は、かなりわかりやすく身内とそれ以外とのあいだに線を引く癖がある。この部の中で、拓斗だけがその線の内側にいない。そのことを、だれも指摘したことがなかった。拓斗はそれに疎外感を覚えるような性格には見えないし、事実そうではないはずだ。だから、それでいいだろうとだれもがそこから目を逸らしていた。
優都の怪我は幸い軽い捻挫程度で、夕方ごろに医者から帰って来た優都は「一週間もすれば大丈夫だって」と、テーピングで固定された左手首を雅哉に見せながら報告した。
「新人戦にはぎりぎりだけど……ごめん、また迷惑をかけて」
「なあ、森田」
 ちょっとそこに座ってくれ、と道場の床を指差した雅哉の指示に従い、優都は背筋を伸ばして座り、真っ直ぐ雅哉に視線を合わせた。雅哉はそのまま優都を置いて部室に向かい、部室から拓斗を連れ出して来て優都の横に座らせた。拓斗が、優都の左手首に一瞬だけ目をやったのがわかった。雅哉は二人の前に足を折って座り、自身も姿勢を正してから口を開いた。
「俺はさ、頭悪いし察しも良くないから、おまえらが相性悪いのはわかっても、なんでここまでのことになったのかは考えてもよくわかんねえんだけど、」
 そう前置きした雅哉の言葉を優都も拓斗も黙って聞いていた。
「――少なくとも、いまのおまえら二人とは俺は団体に出たくない」
 言い切った雅哉は、そこでひとつ息を吐き、再び顔を上げる。
「森田は、風間のことまともに仲間だとすら思ってねえだろ。仲良くしろとは言わねえけど、同じ部で同じチームの相手を、そうも思わねえで、とりあえず上手い順にチーム組んで、勝てさえすればそれでいいって考え方は俺はなにより嫌いだよ」
 雅哉に痛烈に指摘された事実に、優都は返す言葉がなかったのか、あるいは言葉にするのに時間がかかったのか、雅哉から目を逸らすことはしなかったものの、謝罪も反論もなかった。雅哉は優都の返事を待つでもなく今度は拓斗に向き直り、「おまえもおまえだよ」と語気を強めた。
「おまえがいま弓を引けている場所が、だれの努力でできてきたのか真剣に考えてから森田に物を言えよ。……なにはともあれ、手を上げようとした時点でそのことに関しては百パーセントおまえが悪いのはわかってんだろ。それは絶対許さねえよ」
 すみません、と短く言って拓斗は頭を下げたが、雅哉に「俺に謝ってどうする」と一蹴された。けれど、拓斗が優都に向き直る前に、雅哉はまた溜息をつく。
「森田の怪我が治るまでは、森田や他の奴がなんて言っても、俺は風間は道場に入れないし、森田に主将の仕事もさせない。俺が仕切る。いま適当に謝ったってなんにもならねえのは自分らでわかるだろ。一週間だっけ? おまえら二人とも頭を冷やせ」
 いいな? と言った雅哉に、拓斗は短く返事をして今度は深く頭を下げ、しばらくそのまま動かなかった。優都も、「わかった、ごめん」とだけ言って同じように床に手をついた。
「矢崎、なんか言いたいことあるか」
「ないよ。俺は古賀に全面的に賛成」
 ふいに雅哉に話を振られ、千尋がそう返すと、雅哉は大きく息をついて「そういうことで」と言って立ち上がった。
 その後、拓斗を帰らせたあとに、雅哉は優都に対して、「先生に怪我のことなんて言ったの」と問うた。
「転んで捻ったって言った。……嘘ついてないよ。僕も、悪かったと思うし」
「まあ、おまえがそれでいいなら今回はいいけど」
 部の顧問は優都のことを全面的に信頼していて、今回の怪我についていまのところなにかを問いただしてくる様子もない。指導経験のない部に割り当てられた顧問の先生が部にほとんど関わってこないのは翠ヶ崎では珍しいことではないし、休部から復帰するときに数合わせのように当てられた人選ならなおさらだ。
「森田、おまえもちょっと気抜けよ。部活も、怪我治るまでは別に来なくてもいいしさ。ずっとおまえに任せっきりだったのも悪いと思ってるし、この際だと思ってちゃんと休んで」
 優都は雅哉のその言葉に「ありがとう」と微笑んで、自分の左手首を右手で軽く握った。彼が、休めと言われて素直にそうできる人間だったら、こうはなっていないということには雅哉もおそらく勘づいていて、すこし苦しげな表情をしていた。それに対して優都のほうは、動揺や苛立ちをようやく自らのうちに押し込めることに成功したようで、渦中にいるのは自分の方にも関わらず落ち着いた表情を保っていた。
「……大丈夫か?」
「うん、僕は。……迷惑かけてごめん」
 千尋の問いに、優都は相変わらずそう答え、いまも頭の中に渦巻いているであろう言葉にならない思惟を全部飲み込んで首を傾げて笑ってみせた。

 その後数日、優都は弓は引けない状態ながら毎日部活には顔を出して、雅哉の仕切る練習を後ろで眺めながら、記録を取ったりアドバイスを請われればそれに答えたりと、裏方の仕事を続けていた。弓が引けるわけもなく、主将としての仕事があるわけでもなくとも毎日いつも通り道場に優都が足を運ぶのは、責任感や罪悪感というよりも、単純に、素直に表に出せない焦りを、動いていることで紛らわせたかったのだろうと思う。優都は、なにもできないという状況がなにより苦手だ。「動いてる方が楽だよ」が口癖だった。
 優都が怪我をしてから四日ほどあと、放課後に弓道場の点検が入るということで授業後の練習が取りやめとなる日があった。生徒会の仕事もその日は特に残されておらず、千尋にとってはテスト期間ぶりに授業後に直帰を選択すると、乗換駅のホームには知った顔があった。まだ十一月の初めだというのに、ブレザーの下にセーターを着込み、ネックウォーマーに顔を埋めたままぼんやりと電車を待っているのは、数日ぶりに顔を見る後輩だった。
「風間」
 中央線のホームで柱に寄りかかる彼に声をかけると、拓斗は声のほうを振り返って千尋を捉え、浅く頭を下げたあと、「今日、オフでしたっけ」と問うた。
「耐震構造のチェックがあるらしくて、休み」
「ああ――そういえば、そんなこと聞いたかも」
 千尋を前にしても気だるげな態度を崩さない拓斗は、ブレザーのポケットに両手を突っ込んで電光掲示板を眺めていた。特快はあと十分、遅延はなし。この時間に帰るのも久しぶりだな、と千尋も時計を見上げた。
「古賀とかは中等部に行ったけどな。あんま大勢で押しかけても悪いし俺は帰ってきた」
「中等部と高等部で道場別なのまじで金持ちっすよね」
「場所離れてるし。あっちの道場は狭いけどな」
 優都の前では基本的に愛想の悪い姿しか見せない拓斗が、機嫌さえ悪くなければたわいのない会話にも普通に乗ってくることを千尋は知っていた。千尋も拓斗も東京都の市部から区内の翠ヶ崎に通っており、通学に使う路線が同じだ。部活が終わったあと、乗換で他の部員と別れてから拓斗が先に電車を降りるまでのあいだ、この半年間でそれなりに会話はしてきた。
「優都が、明日医者行ってオッケー出れば、明後日から戻れそうだってさ」
「そうすか。――大事なくてよかったです。俺が言うことじゃないけど」
「喧嘩は手出したほうが悪いってのは鉄則だしな」
 帰宅ラッシュには早い時間で、構内にひとはまばらだ。今日はこれから予定あるのか、との千尋の問いに、拓斗は「別に」と首を横に振った。
 コーヒーでも飲もうと千尋が誘うと、拓斗はその意図も問わず存外素直に後をついてきた。駅構内にあるにしては質素な構えのコーヒーショップには、品ぞろえの悪さもあってか、あまり学生は立ち寄らない。店主は制服姿の千尋と拓斗を見てすこしだけ怪訝そうな顔をしたけれど、なにかを問うでもなく二人を奥のテーブル席に通した。
 しばらく会話もなしに頼んだコーヒーを待っていると、先に口を開いたのは拓斗の方だった。
「――すみませんでした」
 いくらか迷うように視線を巡らせてから投げ出された言葉は、おざなりではあったものの、ある程度きちんと意味を含んでいた。
「なんの謝罪?」
「いや――考えなしに動きすぎて、迷惑をかけたなと思って。森田さん以外にも」
「まあ、おまえらが仲悪いのはいまに始まったことじゃねえし、合わねえ相手がいるのは、それこそ仕方ないけど。殴りかけるまで気に食わないとは思ってなかった」
 運ばれてきたコーヒーに角砂糖を溶かす千尋の手元に視線を逃して、拓斗はまたしばらく黙ったままでいた。こと、自分の内側を言葉にする作業においては、拓斗は優都とおなじくらい不器用だ。
「あのひとに、羨まれるのが嫌で」と拓斗はゆっくりと口にした。
「なにを? ――才能?」
 千尋の問いに、拓斗は「そんな感じです」と頷いた。拓斗が優都に手をあげたのは、優都が彼のことを、特別製と形容した瞬間だった。
「たとえば、坂川は、森田さんのことを特別だと思ってるじゃねえすか」
「そうだな。是非は別として」
「でも、あのひとはもともとそういうひとじゃないから――意味わかんねえ努力をして、それができるってことで、特別でい続けようとしてる、だけで」
 よく見てるな、というのが千尋の第一の感想だった。まだこの部に入って一年も経っていないのに、拓斗は優都と潮の関係をおどろくほど正確に見抜いていた。逆に言えば、優都にある種の憧憬を抱いていない人間にこそ見えることではあるのかもしれない。この部にいる拓斗と千尋以外の人間は、多かれ少なかれ優都の言葉と背中に救われている、そういう閉じた世界だ。
「そういうふうに、特別だと、勝手に思われるようになるのに必要なものを、才能って呼ぶのかどうかはわかんねえし、それこそ、弓の上手い下手とかそれだけのことでもないんですけど」
 優都は拓斗の才能のことを、底の見えない可能性だと形容したことがある。「僕みたいなのが片鱗を覗いたところで、果てのなさに恐ろしくなるだけだ」と語った優都は、だれよりも自分自身の可能性の限界には自覚的で、けれどそれを理由に努力を諦めることだけはできない、そういうふうに生まれついた男だ。
「だけど、そういう意味で、俺が持っててあのひとが持ってないものがあるっていうのは、自覚してるつもりです」
 コーヒーに口をつけながら千尋は耳を傾ける。拓斗は、自分に生まれつき備わったその能力と、あたりまえに共存している人間だと思っていた。他人の偶像となるのに必要なもの、底のない可能性という無限性そのもの。それはある側面で、容易に才能と名付けられたものに形を変える。
「だけど、そんなものを、自分から望む神経が俺には理解できない」
「なんか、しんどい思いしたことがあるってことだろ。おまえ自身が、そうされるような――まあ、才能みてえなのを、持ってるってことで」
 羨まれたくない、というのはそういうことだろうと千尋が問うと、拓斗は頷きはしないまま、ほぼ冷めたコーヒーを口元に運んだ。改めて正面から見ると、綺麗な顔の作りをした男だ。記憶に残りづらいほど隙がなく整っていて、どこか無機物じみたところを感じさせる容貌も、彼の可能性の極限を構成する要素のひとつとして必要であったのだろうと思案する。
「あのひとは、――森田さんは、普通には弓の腕もあるし、頭もいいし、人望もあるし、家族の仲もよくて、それ以上、なにが欲しくてできもしねえことやろうとして自滅して、諦めもしないんですか。わざわざ頑張らなくても、あのひとは、十分に恵まれてるし幸せでしょ」
 拓斗がソーサーにカップを置く音がやけに響いた。彼はわずかに目を伏せて、吐き捨てるようにその言葉を投げ出した。
「もともとあれだけ持ってるひとが、自分が恵まれてないみてえな顔をして、努力ばっかり無駄に続けて、俺のことを恵まれてるほう、みてえな顔して見てくるのに、腹が立ったんです」
 そこまで言って、拓斗は口を閉じた。しばらくは沈黙が続き、それを遮るように千尋が二杯目のコーヒーを注文すると、拓斗もそれに追随した。
「手上げる理由になるかどうかは別として、まあ、おまえの思うことは妥当だよな。あいつに実力以上の影響力があるのは、たしかに昔からそうだし」
「――すみません。そっちは、ある程度人望とか性格の問題だから仕方ねえとも思ってたつもりだったんすけど」
「はは。まあ、別におまえに人望がないわけでもねえだろ」
 性格は悪いけどな、と千尋が笑い飛ばせば、「わかってますよ」と拓斗は息を吐いて答えた。無愛想で気分屋ではあっても、拓斗の実力はたしかだし、彼も彼で弓道のことに関しては能う限りは真摯だ。そのことを、雅哉や彼の同期はわかっているし、優都だって気付いていないはずはない。優都が他人と真剣に向かい合い、常に話を聞きながら信頼を築いていく類の人間なら、拓斗はそれ自身強固に他人の指針や憧れとなる存在なのだろうとは思う。そこには対話も理解も存在しないながら、彼はいつだってそうやって他人を誘引している。
「優都は、別に、なにかが欲しいわけではないんだと思うし、あいつもあいつで、隠しちゃいるけど短所は多いよ」
 千尋の言葉に、拓斗はなにも言わないまま耳を傾けた。表情を窺われているのがわかる。
「頭いいくせに不器用で、要領悪くて、得意不得意激しいし、考えてること他人に喋るのも苦手だし、結構身内びいきするしダブルスタンダードなとこあるし」
 親友の短所を指折り数えていく千尋を眺めながら、拓斗は残り少ないコーヒーを飲み干す。
「――でも、そういう、どっか足りてねえとこだけは、おまえらそっくりだと思うけどな」
 そう言って肩を竦めた千尋に、拓斗は「そうかもしれないですね」とだけ返した。その言葉が本心からのものなのか、話を合わせようとしただけなのかは千尋には読み取れなかったけれど、この後輩には、他のだれもが見ようとしてないところがきちんと見えていて、それゆえに苦悩があるのだろうという確信だけはたしかにあった。

 優都が復帰したあと、優都と拓斗のあいだでどのような会話が交わされたのかを千尋は知らないが、新人戦の数日前には部はいつもの雰囲気に戻っていた。一週間のブランクを、拓斗はさほど苦にもしていないようだったが、優都はやはり焦りがあるようで、ほんの数分の時間も惜しんで弓を握っていた。彼らのあいだのその温度差に解決があったわけではないとはいえ、拓斗は優都の弓に対して、攻撃的な意図を持たない意見を述べる頻度が多くなっていた。優都はそれは素直に受け止めて礼を言っていたし、自主練の際などは優都自身が拓斗に助言を請う姿も見られるようになっていた。十一月の新人戦で東日本大会に選抜されなければ、全国選抜に選出されていない優都たちの次の主要な大会は二月まで飛ぶ。引退までの残り時間が徐々に少なくなっていることも、この頃の優都の焦りの一因だっただろうとも思う。
 その努力を嘲笑うように、新人大会の団体戦で、優都はすべての立で四射中一射を中てるのが精一杯で、拓斗や雅哉も前ほどには調子が良くなかったことも相まって、団体は決勝トーナメント進出をかけた同中競射で敗退した。団体予選の成績がそのまま予選の成績に使われる個人戦でも優都は当然順位決定の競射には進めず、一次予選だけは皆中で通過した拓斗が、なんとか個人戦で食らいついて入賞は果たしたが、どのみち東日本大会に選出されるのは団体のみだ。
 試合が終わったあと、優都はいつも通りに試合後の部員をねぎらってはいたものの、二大会連続でほとんど中りもしない弓を引くことになったのがさすがに堪えたのか、余裕のない表情はあまりうまく隠せてもいなかった。
「森田」と、会場を出るとき後ろから声をかけてきたのは、櫻林高校の松原だった。
「久しぶり。なんか顔死んでるけど大丈夫か?」
「松原。え、そうかな、情けないな……」
 優勝おめでとう、と優都に声をかけられた松原は、新人戦を団体でも個人でも制していて、三月の東日本大会も、十二月の全国選抜も出場権を持っている。彼は優都の賞賛をを当たり前のように受け止めて「ありがとう」と答えた。
「おまえが最近全然射詰まで上がってこないからつまんないよ。関東予選は待ってるからな」
「そのまえに遠的があるだろ」
「俺、遠的得意じゃない」
「よく言うよ。去年もちゃっかり入賞してただろ」
 頑張れよ、と松原に肩を叩かれた優都は、一瞬だけなにかを堪(こら)えるような表情を見せてから、「うん、また機会があったら一緒に練習させてよ」と答えた。松原はその後、すこし前を歩いていた拓斗を呼び止めて、拓斗は彼に軽く頭を下げて「優勝おめでとうございます」と言った。
「今年、優勝と準優勝以外してます?」
「そういやしてないかも。四月の関東予選くらいかな。なんか調子良くてさ」
「個人戦ってそんな連勝できるもんだと思ってませんでしたよ」
「まあでも、俺の一年のときよりおまえのいまの成績のが良いよ」
 時と場合によっては手がつけられないほど中り続けるものの、中学時代から調子にはムラがある拓斗と比べて、今年の松原は都内でいまのところ比肩する相手がいないほどの強さを誇っている。松原は拓斗の素直な賞賛を軽く受け流したあと、十二月の全国選抜について拓斗に話を振り、「俺が中三のときの全中もおまえと一緒だったな」と言った。
「俺、いまんとこ都内の選手ではおまえがいちばん怖いからな」
「どうも。他の都内の選手はだいたい松原さんが怖いと思いますけど」
「はは。まあ、また選抜でな。あれだったらまたうちの練習入ってくれていいし連絡して」
 あざっす、と返した拓斗は、松原と話をしているときは普段よりこころもち饒舌だった。松原はそのまま、もう一度拓斗や優都や雅哉に手を振って、バスに向かう櫻林の集団の方へ駆けて行った。
 櫻林の選手団が去ったあと、その列から多少離れて歩く私服の男性が、翠ヶ崎の方を窺ってくるのが見えた。それに気付いた千尋がそちらを見ると、彼は千尋に気付いたのか、薄手のコートのポケットから手を出して千尋に向かって振った。
「優都、宮内先輩来てんぜ」
 再び黙りこくって歩いていた優都に彼の方向を指し示すと、優都はぱっと顔を上げてそちらを向き、すこし遠いところにいる宮内の姿を視界にいれて、なにかを噛み殺すように唇を結んだ。宮内は千尋や優都の方に近付いてくるまえに、櫻林の集団の後ろの方から名前を呼ばれ、ごめん、という仕草をしてからそちらに駆け去っていった。優都は宮内に向かって深々と頭を下げ、彼が完全にこちらに意識を向けなくなるまで、立ち止まってずっとその姿勢を保っていた。

* *

 拓斗だけが出場権を得た十二月の全国選抜も終わり(基本的に舞台の大小にあまりパフォーマンスの左右されない拓斗は、いつも通り順調に決勝までを勝ち上がったが、決勝の競射で三本目を外して入賞は叶わなかった。一方で同じ都代表の松原はここのところ絶好調なようで、団体こそ入賞を逃したものの個人では準優勝を果たし、帰ってきた拓斗は真っ先に「あのひと今年強すぎるわ」と零していた。)、年が明けて三学期が始まった。高校二年の三学期ともなると、進学についての問題から目が逸らせなくなる。雅哉は早々に翠ヶ崎大学への内部進学に進路を絞っていたから受験勉強に悩む必要はなさそうだったが、優都はかねてから翠大にはない学部に行きたいと言っていたこともあり大学受験の準備を始めていたし、千尋も国立の大学に外部受験を考えていた。優都は変わらず勉強をおろそかにすることもなかったけれど、「都総体が終わるまではできる限り弓道に集中したい」とも口にしていた。
 三学期が始まって二週間ほど経った月曜の朝、千尋は朝礼の準備のために始業前の職員室を訪れた直後、廊下でばったりと雅哉に出くわした。「いいところに」と千尋の顔を見るなり言った雅哉は、ウィンドブレーカーを着込んだ姿ですこし息を切らせていた。
「体育教官室開いてないんだけどさ、道場の鍵って出せねえ?」
「ああ……クラ管がスペア持ってるよ。つーか優都は?」
 道場や部室の鍵は体育教官室と生徒会のクラブ管理局にスペアが置いてあるが、基本的にはメインの一本は部内で管理されていて、弓道部ではいつもだれよりも早く登校する優都の持ち物だ。千尋の問いに、雅哉は困ったように溜息をついた。
「森田が来ねえんだよ。連絡してんだけど、返事もないし。坂川と早川は来てるんだけど、どっちも教官室以外の場所は知らねえって言うから」
「まじか、あいつ来てねえのか。代わりに台風とか来そう」
 純粋に珍しいと思った。優都が遅刻をするところを千尋ですら見たことがない。体調を崩して休むにせよ、彼がそのことについて連絡を怠るということも考えづらかった。
「クラ管から鍵出すのわりと手続きめんどくせえから、適当にパチってきてやるよ。届けに行くからちょっと待ってて」
「サンキュー、助かる」
 雅哉はそう言って来た道を駆け戻って行き、千尋も講堂に向かおうとしていた目的地を変えて生徒会室に足を運んだ。
 千尋が生徒会室から勝手に持ち出した鍵を届けに道場に向かうと、入口の前では潮と由岐が立っていて、二人揃って千尋に挨拶をした。
「ごめん、遅くなった!」
 優都が息急き切らして部室に飛び込んで来たのはその数分後で、駅から相当全力で走ってきたのだろう、足を止めるなり咳き込んで次の句を継ぐまでにしばらく時間を要していた。
「ああ、おはよう、森田。どうした?」
「優都先輩! なんかあったかと思ってめっちゃ心配しましたよ」
 雅哉と潮がほぼ同時に反応して、優都はそれに短く「ごめん」と返すと、呼吸を整えてから、「寝過ごしちゃって」と答えた。
「慌てて家出てきたら、携帯置いてきちゃった。ごめんな」
「おまえ寝坊とかできたんだな」
 千尋のからかうような言葉に、優都は「自分でも絶対しないと思ってた」と返し、もう一度「ごめん」と続けた。
「油断してたのかも……鍵大丈夫だった?」
「教官室閉まってて、矢崎に生徒会室から借りてもらった」
「それは遠出させちゃったな……申し訳ない。というか、千尋、今日朝礼じゃないの? ここにいて大丈夫?」
「ああ、残りは後輩に全部押し付けてきたから別に平気」
「それ平気なんすか?」
「後進の育成的なやつだと思えば」
 でもそろそろ戻るわ、と千尋が立ち上がると、優都は「ありがとう、助かったよ」と千尋に頭を下げた。
「貸しでつけとくから」
「あとで甘いものでも奢るよ」
 そう言った優都は、千尋がコートを着直して部室を出る頃にはもういつも通りの態度で駆け足に朝練の準備を始めていたし、周りも彼の遅刻に関しては特にそれ以上なにも感じていない様子だった。

 朝練と朝礼を終えてクラスで再会した優都とは、三時間目の英語と四時間目の日本史が同じ選択科目で、彼は相変わらず一から十まで真面目に授業を聞き、ノートをとっていた。優都と千尋は、中学一年で同じになってからはずっとクラスは離れていたものの、高校二年でまた五十音の名簿の前後に名前を連ねることになっていた。翠ヶ崎では、文系と理系は選択科目の違いだけで、ホームルームのクラスは区別がなく、高校二年と三年のあいだにクラス替えがない。そのため、文系の千尋と理系の優都であってもホームルームでは同じ教室に机を並べているし、来年もそうであることがいまのところ確実だ。
 四時間目が終わると、優都は昼食もとらずになにか書類を抱えて足早に教室を飛び出して行き、昼休みが終わる十五分ほど前に教室に戻ってきた。優都はいまは持ち主が席を外している千尋の隣席に腰を下ろし、「遠征関連の申請とか片付けてたら遅くなっちゃった」と言いながら、購買で買ってきたらしいサンドイッチの封を切り、ツナサンドを一口咀嚼して飲み込んでから、すこし目を伏せて息を吐いた。
「朝のことへこんでんの?」
「ちょっと。寝坊とかしたことなかったから、久しぶりにものすごく焦った」
「だれだってあるだろ。おまえはむしろその睡眠時間で生きてる方が不思議だよ」
「それは別に平気なんだよ。前からずっとそうだし」
 部室の鍵を持っていながら朝練に間に合わなかったことに、優都は周りが思うよりも自己嫌悪を覚えているようで、考え詰めたような表情をしながら黙々とサンドイッチを喉に送り込み続けていた。優都は拓斗とは対称的に典型的なショートスリーパーだが、日中も眠そうなそぶりはまったく見せずに活動するし、寝起きも寝付きも抜群にいい。
「でも、最近ちょっと寝付き悪くて、それかも」
 だから、優都がそう呟いたことには多少驚いた。「絶対それだろ」と返しつつ、千尋は鞄から取り出したペットボトルのお茶を呷った。
「なんで? それも珍しいじゃん」
「なんだろう。なんだか、こう、まだやり残したことがあるような気がして不安になるんだよな。もうちょっと数学の課題進めときたかったのにな、とか」
「いや、おまえそれさあ……」
 優都がそういったことを、千尋の前であるとはいえ素直に口に出す時点で、本人の自覚はともかくとしてかなり参っているのはたしかだ。「別に昼間そんなに眠かったり調子悪いわけでもないんだけど」と言い訳をして、優都は食べ終わったサンドイッチの包み紙をビニール袋に戻し、袋の口を結ぶ。「そういう問題じゃねえよ」と返した千尋に、優都は「わかってるけど」と軽い溜息をついてから、「大丈夫だよ」とだけ言った。
 その後、始業までのわずかな時間で、空になったペットボトルの二本目を買いに行こうと立ち上がった千尋に優都も便乗し、購買前の自動販売機まで二人で歩いた。朝のお礼と称して千尋の分のお茶の代金を払った優都は、自分の分のコーヒー缶もついでに買うまではいつも通りの表情を浮かべていたが、自販機から教室まで戻るわずかな道のりを歩いている途中、ふいに歩みを緩めて俯いた。
「優都?」
 振り向いた千尋が声をかけるのにも、彼は返事を返さなかった。「どうかしたか」と千尋が歩み寄ろうとした途端、彼は肩を震わせて口元を手で押さえ、そのまま千尋を振り払って教室とは逆方向に向かって走り出した。優都の顔色からはひどく血の気が失せていて、こめかみに汗が薄く滲むのが見えた。
「おい、大丈夫か?」
 階段横のトイレに駆け込んでうずくまってしまった優都は、五時間目が始まるチャイムが聞こえてもまだそこから動けないままでいた。真っ青な顔で床にへたりこむ優都の背をさすりながら、クラスメイトのひとりに連絡を送って、教師への伝言を頼む。優都は苦しそうに何度かえずいたあと、ようやく胃の中身をすっかり吐き出して冷や汗を浮かべながら呼吸を整えた。
「ごめん、千尋……授業始まっちゃったよな」
「いいよ。具合悪かったの?」
「いや、ほんとうにそんなつもりなかったんだけど、急に……」
 息も絶え絶えにそう言った優都は、背を支える千尋の腕に力の抜けた身体を預けた。なまじ普段はタフで規則正しい生活を送っているからこそ、優都は自分の体力の限界に鈍いのだろう。彼の繰り返す「大丈夫」という言葉は、優都にとって嘘ではないのだろうが、本心なのか暗示なのかは自分自身にももはやよくわかっていないのかもしれない。
「今日はもう帰れよ。疲れてんだろ、いい加減オーバーワークだ」
「ちょっと休めば大丈夫だよ、遠的も近いし、練習しないと――」
「おまえさ、いい加減にしろよ」
 いくぶん声を低くした千尋に、優都はびくりと肩を震わせたけれど、すぐにまっすぐに千尋の眼を見た。
「できねえことはできねえし、そうやって無茶ばっかして体壊すまでやって、おまえになにが残るの」
「わかってるけど!」
 珍しく声を張った優都は、指が震えていた。すこし俯いたまま絞り出した声そのものはしっかりとした芯を持っていたものの、優都はそこにいつものように自信を持った正しさを込めることだけができていなかった。
「頑張らないでいるほうが、よっぽど苦しいし、なにもしないでいるなんて、僕にはそっちのほうができないよ」
 止めないでよ、と縋るように言った優都の言葉を否定する術を千尋は持たなかった。優都が最後にはそう言うであろうこともわかっていた。それだけの献身を、無意味だと切り捨てられるほど、自分自身が真摯には決してなれない。
「頑張っても無駄だって言うわけじゃねえよ。そう聞こえたなら悪かった。だけど、おまえが吐くまでしんどい思いしてんの見て、まだ頑張れとはさすがに俺は言えねえし、調子悪いときは物理的に体休めんのも絶対に必要なのはわかるだろ」
「――うん、ごめん。心配してもらってるのに、完全に逆切れだったな。恥ずかしい」
「いいって。言いたいことあんならついでにそれも吐いとけ」
 優都が弱音をあまり吐かないのは、強がっているからというよりも、自分が苦しいのだということに目を向けるのが苦手だからだ。不器用なこの男は、なにかに対して、真正面から向き合う以外の方法を知らない。だから、逃げたいと言うことはおろか、考えることすら優都は自分に許さない。他人にその選択肢を与えることはできたとしても、決して自分がその選択をすることがない。
「僕のやってることには、価値があると、信じてるから」
 だから、大丈夫。と優都ははっきりと言い切った。普段は千尋より体温の高いはずの優都の身体は、体調がよくないせいか今日はかなり冷たい。
「合宿んときみたいにまじでぶっ倒れられても困るし、今日は休めよ。古賀には適当に言っとくし、あいつも相当おまえのこと心配してるから」
「そうするよ。……ごめんな、いろいろと」
「別に謝ることねえだろ。ちゃんと飯食って、やること残ってようがなんだろうが今日はとっとと寝ろ」
「うん、ありがとう」
 さきほど買ったばかりのペットボトルの封を開けて優都に手渡せば、優都は時間をかけてそれを飲み、千尋が「まだ気分悪いか」と聞けば首を横に振った。
 千尋が優都に手を貸して廊下に出たところで、探しに来たのであろう担任とばったり出くわし、優都はそのまま存外大人しく担任に引き渡された。「頑張りすぎるのもよくない」と担任に軽くたしなめられた彼は、すみませんと頭を下げたあと、制服のポケットに手を突っ込んで二つの鍵が下げられたリングを取り出した。
「古賀かだれかに渡しておいてもらっていい?」
「了解」
 それを千尋の手に差し出した優都の指は、まだすこしだけ震えていた。
「一日くらいなんもしなくたって死なねえから、ちゃんと休めよ」
 その言葉に、うん、と頷いた優都を担任に預け、とうに五時間目が始まっている教室に戻る。この時間は別の選択科目で使われているホームルームのクラスから聞こえてくる物理かなにかの授業を聞き流しながら、ロッカーから古典の教科書を取り出し、自分の科目の教室へ向かう。道中、優都と担任が並んで階段を降りている後ろ姿が見えた。優都は思ったよりもしっかりとした足取りで歩いていたけれど、途中、右手が階段の手摺を強く握っていた。

 翌日、優都はまた連絡もなしに朝練を欠席し、そのあとの朝のホームルームにも姿を見せなかった。雅哉からも担任からも、なにか聞いていないかと問われたものの、千尋も「なにも」と答える以外の術を持たなかった。一、二時間目の選択科目を終えて、三時間目の英語のためにクラスに帰って来ても、やはり窓際の席に優都の姿はない。朝送ったメールには返信もなく、携帯に電話をかけてみても繋がらなかった。
「家にかけたら、朝普通に出て行ったってお母さんはおっしゃってて」と、授業前に千尋を呼び出した担任は眉をひそめていた。
「さっき電話したんですけど、携帯電源入ってない感じでしたよ」
「そう。どうしたのかな、親御さんに嘘ついて学校サボるような子じゃないし……」
 それから、優都の普段使う路線と通学路について千尋に確認をとった担任は、そのまま足早に職員室まで戻っていった。中等部の頃から合算しても、優都は体調を崩して休んだことこそ何度かはあるけれど、遅刻は恐らく皆無だろう。朝練にすら遅れたことがないのだから当然だ。
 結局優都は午前いっぱい学校には現れず、メールにも電話にも返答はないままだった。騒がしい昼休みの教室で、優都をひたすらに心配している様子の雅哉からの連絡に返事をしつつ自席で菓子パンを食べていると、ちょうど昼休みも半分ほど終わったころ、その騒がしさとは似つかないほどゆっくりと教室の後方のドアが開いた。隙間から体を滑り込ませるように恐る恐る教室に入ってきた優都は、ドアに近い席に座る千尋と目が合うと、どこか気まずそうに首を傾げた。昨日の昼ほど体調が悪そうな様子ではなかったものの、あまり顔色は晴れない。
「おはよう、優都」
 千尋のその言葉に、優都はほっとしたように表情を緩めて、「おはよう」と返した。
「なんかあったの?」
 それだけ聞いた千尋に、優都はすこし迷ったように黙り込んだけれど、結局「そういうわけじゃないけど……」と言葉を濁して首を横に振った。
「ふうん。ならいいけど」
 連絡のひとつもなしに朝練どころか午前の授業にすら来なかった理由も、おそらく千尋以外にも何人もの友人から送られている「どうかした?」のメッセージにも、学校や家族からの連絡にも返事をしなかった理由も千尋は聞かなかった。優都はそのことに安心したようで、コートを脱いで鞄を抱えると、千尋の横の席に腰を下ろした。
「大丈夫か?」
「うん――ごめん」
「担任が、事故にでも遭ってんじゃねえかって心配してたから、来たってことだけは言っとけよ」
「……そうだな、行ってくる」
「付いてこうか?」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
 そう言って、鞄とコートを一度自分の席に置いてから教室を出ようとした優都は、途中で何人かのクラスメイトに捕まっていろいろと問い詰められ、困ったように笑いながら「ごめん」と「大丈夫」を繰り返していた。
 そのあと職員室に向かった優都は、昼休みの終わる直前に戻ってきて、「ちょっと怒られちゃった」と肩を竦めた。それから彼はようやく携帯を開いて電源を入れ、送られてきていたメッセージのひとつひとつに返信を送り始める。さっきまで、そういうことができなかったのだろう、と横目でそれを見ながら千尋は息をついた。あらゆることを適当に扱うことができないこの男が折れるときは、きっとなにもかもができなくなってしまうのだと思う。
「なあ、優都」
「うん?」
 頬杖をついて自分の名前を呼んだ千尋に、優都は携帯から顔を上げて向き合った。
「俺は、おまえのやってることは報われてほしいとは思ってるし、口出す気もないんだけど。――おまえが、潰れない限りだからな」
 ほんとうはそんな恩着せがましいことを言うつもりもなかったのだけれど、言葉は口から滑り落ちていた。優都はすこし目を丸くしてから、かすかに視線を伏せて「うん」と言った。
「千尋にそんなこと言ってもらえるなんて、僕もまだ捨てたもんじゃないね」
 そう続けて表情を緩めた優都は、そのまま携帯を閉じて立ち上がり、予鈴が鳴るのと同時に窓際の自分の席へと戻っていった。

 放課後のホームルームが終わったあと、てきぱきと荷物をまとめた優都は、教室を出る前に千尋の席で足を止めて「部活に行こう」と声をかけた。
「行くの?」
「うん。土曜の練習から一本も引けてないし」
「ぶっ倒れねえ程度にしとけよ」
「元気なつもりなんだけどな」
「いまのとこ、そこの信頼ゼロだぜおまえ」
 そう言いつつも、昼からすれば顔色自体は良くなっているように見えたし、優都にとって、いまは丸二日も練習に穴を開けてしまったことへの焦りの方が大きいのだろう。
 部室にたどり着き、雅哉や後輩たちに囲まれて口々に心配の言葉を並べられた優都は、その中心でどことなく居心地悪そうに笑っていて、いつものように「大丈夫だよ」を繰り返していた。拓斗だけがある程度距離を置いた場所でそれを見ていて、千尋が彼に目線をやると、拓斗はふいと千尋から目線を逸らした。
 練習が始まったあと、優都は相変わらずきびきびと背筋を伸ばして弓を引いていたけれど、十一月の新人戦以来、春からずっと右肩下がりだった彼の弓の調子は完全に底を叩いてしまったようで、持ち味だったぶれのない射形が嘘のように安定感のない行射を繰り返すようになっていた。分析や練習を重ねても、むしろ重ねるごとにあちこちに粗が浮かぶようになっていく射に、優都は目に見えて苛立つことももう嫌だと吐き捨てることもしなかったけれど、追い詰められているのはたしかだ。「俺じゃ全然力になれなくてまじでふがいない」と先に雅哉が弱音を吐くほどで、優都の背中を眺めながら、やるせなさそうに顔をしかめていた。
「あんだけ続いたら俺だったら折れる」
 個人練習の時間、優都に頼まれて彼の行射の動画を撮ったあと、雅哉は優都には聞こえないようにぼそりと呟いた。射位から戻って来た優都は、拓斗が後ろで自分の射を見ていたことに気付くと、「どうしたらいいと思う?」と肩を落として問うていた。
「弓手(ゆんで)が負けてるのは自覚あるんだけど……」
「それ意識して握りすぎてません? どっちかってと、胴造りの時点で歪んでるから引き分けで肩張れてない感じしましたけど」
 拓斗はわりと素直に優都に助言を返し、優都もそれを真剣に受け止めていた。二人に近付いて行った雅哉を加えた三人であれやこれやと話し合ったあと、優都は「型を見直してくる」と巻藁に向かい、同じく巻藁の前に立っていた由岐の隣でゆっくりと体の動きを確認していた。
 いつも練習時の的中を記録しているホワイトボードの優都の欄には、今日はとりわけ見ているほうが苦しくなるほどバツ印が連なっていた。今年度から入部してきた拓斗と由岐以外は、ここに二重丸が連続していた時期を知っている。だからこそ、優都自身も周りも、どうしようもなくやるせなさが募っているのだろう。
 それなりの時間を巻藁の前で過ごしたあと、優都は再び矢を取って的前に戻ってきた。射場の一番端に立ち、ゆっくりと息を吐いた彼は、祈るように一瞬目を閉じてから、的を見据えて弓を打起こした。
 四射をすべて引き終えたあと、優都はしばらくその場から動かなかった。表情を隠して俯いていた彼は、唇を引き結んで立ち尽くしている。「森田?」と雅哉が名前を呼ぶと、優都は顔を上げ、ようやく射位を離れた。
「もう駄目なのかな、僕」
 雅哉がどうかしたかと問うより先に、優都の口から零れた言葉にだれもが驚いたし、優都自身も言ったあとはっとしたように口をつぐんだ。優都は愚痴や泣き言を言わない。中学のころから、なにに対してもそうだ。意識的なのかそうでないのかはわからないが、彼がその献身を向けているものを諦めようとすることなどいままでなかった。いまのままでは駄目だと思ったとしたら、なんとか改善する策をすぐさま考え続けるような人間だった。
「大丈夫か? おまえ、最近きつそうだぞ」
「――ごめん、すこしだけ頭冷やしてきてもいいかな。すぐ戻ってくる」
 雅哉にそう告げるなり、弓を置いて早足で道場を去っていく優都の背を、皆が皆戸惑いながら見送るしかできなかった。優都が、自ら練習時間に道場を離れたことの衝撃は大きかった。我に返ったような雅哉の指示でめいめいが練習には戻ったものの、どこか意識の浮ついてしまったような雰囲気はぬぐえない。

 優都はそれから十分もしないうちに戻ってきて、心配の表情を見せる部員たちに「ごめんな、大丈夫」と頭を下げて苦笑してみせた。
「情けないところを見せてばっかりだな。申し訳ないよ」
「優都先輩は、情けなくないです」
 きっぱりとそう言い切ったのは潮の声だった。彼は優都を見つめて一度言葉を飲み込み、再び口を開いた。
「調子悪くても、うまくいかないとき続いても、腐んないで諦めないでだれより頑張ってずっとめちゃめちゃ努力してたの知ってますし、優都先輩なら大丈夫って信じてるんで――」
「潮」
 熱の入ったその言葉を千尋が遮ったのは、ほとんど無意識だった。潮の言葉を聞きながら視線をわずかに床に落としていた優都の目も千尋に向いた。
「いい加減にしてやれよ」
 彼が、静かにそう言ったとき、だれひとり視線を動かすことすらできなかった。だれよりも静かに、なにも目立つことは言わないままにこの部を支えてきた人間が、いま、だれよりも冷たい声でこの場所の時間を握っている。
「優都がおまえのこと信頼してたから、ずっと黙って見てたけど、ここまで来て気付かねえんじゃもう駄目だろ」
「千尋、」
 ようやく千尋の名を呼んだ優都の声は繕いようもなく慌てていたけれど、不安を滲ませながら親友の表情を見遣った優都を、千尋は目線だけで制した。なにも言えず押し黙った優都と、うまく表情の窺えない千尋とを交互に見ながら、潮は震え始めた呼吸を飲み込んだ。
 千尋はこの五年間、ほとんど後輩を怒ったことがなかった。部員を叱るのはいつも優都か雅哉の役目で、千尋はむしろ怒られた後輩のフォローにまわる側の存在だった。その千尋が、理性だけで隠しきれないほどの怒りを孕んで、いま自分に相対しているという事実は、それだけで潮の首を絞めた。手足の先が温度を失っていく感覚が鮮明だ。この冷たさは、潮が昔から知っているものだった。
「優都に大丈夫でいてほしいのは、――優都が折れたら困んのは、おまえのほうだろ」
 千尋も、揺れかける声は意識的に抑え込んでいた。純粋な尊敬と憧憬に見せかけた作為が、潮自身の知らないところで、確実に優都を削り取ってきているのを、千尋はずっと隣で見ていた。それでもなにも言わずに傍観していたのは、当事者たる親友が、それで構わないとはっきり言い切ったからだ。潮がそのことに無意識であることが、千尋にはなにより恐ろしかった。僕は大丈夫だよ、と言う優都はなにもかもわかっていて、だというのに笑っていられる強さを持った親友のことを、なにも知らずに消費し続けられる後輩の行為が、その盲信をどうにか受け入れようと前を向き続ける親友の姿が、どうしたって、ただ怖かった。
「そりゃあ、価値観も、善悪の判断も、生き方も、他人のもんを全部まるごと使わせてもらえたら楽だろうよ。――おまえは、そうやって優都のこと追っかけてりゃ、なんも考えねえですむから、そうしてただけだろ」
「そんな、こと」
 やっと発した潮の声は掠れていたけれど、千尋はそれには耳を貸さなかった。「潮、おまえさ」と千尋が言葉を続ける。俯いた潮が恐る恐る顔を上げるまで待って、千尋は潮の視線を捉えた。自分の言葉に怯え切った瞳の色が、もうこれ以上はやめてくれと懇願するように微かに揺らいだ。千尋が息を吸った瞬間、潮は瞼を閉じた。
「ほんとうは、優都みたいに生きたいなんて思ったこと、一度もねえんだよな」
 その事実を、かつて千尋に教えたのは優都自身だった。「潮はね、」と語る言葉すらが、彼を慈しむようでいて、どこか息苦しそうでもあった。
「あいつは、ほんとうは、僕みたいな生き方のことは軽蔑しているはずなんだよ」と、優都はそのとき、微笑みながら続けた。
 どういう意味だと問うた千尋に、優都はわずかに肩を竦めてみせ、「言ったままだよ」と返した。目を細めた彼はしばらく沈黙したあと、千尋に視線を戻し、口を開いた。
「ずっと、そうやって育てられてきたはずなんだ。才能のない人間はそれだけで無意味で、能力もないのに無駄な努力を続けることなんて見苦しいし滑稽だ――って。能力が、才能があることこそが至上で、なによりも美しいことで、いくら努力を積んだとしてその絶対性には決して敵わない。潮はね、そういう価値観を引きずって、それでもそういうふうに生きることができなくて、自分のことをいまでも認めることができないんだ」
「――だから、おまえのことをあんなに追っかけんのか」
 自分の価値観に嘘をつく、というのが、容易なことでないのはわかる。その価値観が、自分の根底を為すものであるほど、それは困難だ。他人を盲信するというのはたしかに合理的な手段ではある。特別に才能があるわけではなく、けれど努力だけは人一倍実直に重ねていて、そうして培った実力には矜持があっていつでも背筋を伸ばしていられる、森田優都という存在は、その意味での最適解だ。結果が出せなくても何度も立ち上がってもう一度、と言えてしまう優都の背中だけをひたすら追い求めてさえいれば、たしかに、才能なんかなくても、努力を続けられるということは美しいと思い込めてしまう、という論理は千尋の中にもすんなりと根を張った。優都は、合点がいったように千尋が発した言葉を受け止めて、何度か瞬きをした。
「きっと、そうしないとただ、普通に生きていくことすら、あいつには難しいんだろうな」
 そう、呟くように、自分を納得させるように言った優都の言葉の意味は、いま目の前の潮の表情を見ていると、どうしようもなくよくわかるような気がした。違和感も、確信もずっとあったのだ。潮の優都への偏愛が、まったくの純粋な尊敬ではないということに。それを、たとえば恋のような普遍的な感情に取り違えることがどうしたってできなかった理由も、いまならわかる気がした。それは、他人を愛すことよりももっと根源的で、致死的な問題だ。自分が、自分という連続体であるためにもっとも必要なもの。息をして、明日を迎えるためのもの。
 潮が千尋に反論することはなかった。瞼を閉じたままの潮は、涙こそ流さなかったものの、唇がすこし震えて、そのまま彼は両手で耳を塞いだ。
「いい加減、親でも兄弟でもない他人を利用して、自分だけそのことから目逸らしてへらへら笑ってんのはやめろよ」
 潮の手も、喉も、震えていたのは見えていた。けれど、千尋もそこからは目を逸らした。言わなければいけない、と決めた言葉があった。いまにも瓦解しそうな後輩の姿と、動けずにいる親友の横顔を同時に視界に入れて、千尋は潮を見据え、冷えた冬の空気を吸う。
「おまえの中の勝手な優都先輩を押し付けて、これ以上優都を潰してくれるな。――頼むから」
 潮の呼吸がひどく揺らいだのが聴こえた瞬間、彼は耳を塞いだまま地面に蹲った。荒い呼吸と湿った咳が静かな空間に重たく響き、京が弾かれたように潮の名前を呼んで駆け寄った。潮を支えようと膝をついた京の横では、由岐が不安げな表情で二人を交互に見やっていて、その後ろでは拓斗が一歩引いたところからその様子を見ていた。優都は苦しそうな表情で、両耳を握りつぶすように掴みながら唇を噛む潮の姿から目を離せずにいた。次になにか言うなら口を挟もうと決意したのか、優都は隣に立つ千尋を見上げたが、千尋は黙って潮たちのほうに視線をやったまま、それ以上はなにも言おうとしなかった。
「ふざけんなよ」
 凍り付いた空間を切ったのは、隠しようもなく震えた京の声だった。あからさまな敵意を孕んだ瞳が、千尋の眼を捉えた。京は、爪が白むほどにきつく指を握りしめていた。京が自分に向ける怒りの正体を千尋はとうに知っていた。それは、つい先ほどまで千尋が抱いていたのと同じ類の感情で、自分にとって大切な存在が、傷ついてほしくないと心から願う相手が、不条理に苦しめられることに対する、失望と悔しさともどかしさが入り混じった、どうにも堪えようのない淀んだ怒りだ。
「わかってたんなら、なんでほっといたんだよ。わかってて傍観してたあんたのほうがよっぽど卑怯だろ。うーやんが、なんも考えねえでいつもへらへらしてたように見えてたのかよ、――そうじゃないのなんて、なんも知らねえ俺でもわかるよ。うーやんも、優都先輩も、どっちもしんどい思いしてんだったら、なんでうーやんだけ悪者みてえに言うの」
 いまにも泣きそうな表情を隠しもせずに、京は真っ直ぐに千尋を睨み、しかし潮の肩を抱く手は離さなかった。
「自分だけはしんどくねえ立ち位置に居るあんたに、うーやんのことを責める権利なんてねえだろ。うーやんはたしかに、優都先輩に悪いことしてたのかもしんねえけど、それに気付かなかったのはこいつだけじゃねえし、わかってたなら、あんたがどうにかしようとすんのが筋じゃねえのかよ」
 京の言葉に、千尋はなにも返さなかった。「なんとか言えよ!」と声を荒げた京の名前を呼んでそれを制したのは、それまで沈黙を守っていた優都の声だった。「京」とひとこと、たしなめるように落ち着いた、それでもいつもよりはすこし上ずった声。どれだけ感情的になった相手にでも、優都の静かな声が届く、ここはそういう場所だ。京ははっとしたように優都を見やり、しかし謝りはせずに押し黙った。
「千尋の言ってることは、正しいよ」
 絞り出すように、優都はひとことそう言って、「僕が、言えなかっただけだ」と続けた。
「ただの虚勢を信じさせてしまっていたのを、わかっていて言えなかった。……ごめん。それを、貫き通すこともできなかった」
 優都は、うずくまる潮と、ついに泣き出してしまった京に視線をやり、あたりをぐるりと見まわして、最後に千尋でそれを止めた。「僕は、」と言った声はだれひとり聞いたこともないくらいひどく震えていて、それに気付いてか千尋は一時だけ優都から目を逸らし、しかしまたすぐに彼の眼に向き直った。千尋は、優都が言葉を探すあいだの沈黙を、だれよりも当たり前のように待っていた。
「僕には、正論では救われないやつに、正しいことを突き付ける勇気がなかったんだ。――正しいことがひとを救うとは限らないし、正しいことがすべてなら、潮があんなに苦しい思いをすることも、なかったはずだから」
 優都の言葉はわずかに揺らいだイントネーションで形作られていて、それも懐かしい、と千尋は過去に思いをはせた。きらきらした目で部の将来を語っていた、背の小さな関西弁の少年の姿を知っているのも、いまここでは千尋だけだ。何度も挫折を味わっているはずなのに、決して本当に折れてしまうことはなく、ひたすらに前だけを見ているのは途方もない強さに見えて、ほんとうのところは優都のいちばんの弱さだ。言葉ひとつ探すのにもひどく時間をかける、喋るのが遅いあの少年は、いつだって、自分を置いて進んでいく世の中に追いついていくことだけにただ必死だった。立ち止まったら置いて行かれるという恐怖に突き動かされてひた走ることを、強さだと言われるたびに、努力をやめることが余計に怖くなっていき、その恐怖から逃れるためにまた走り続ける。それを繰り返して擦り減っていく親友の姿を、千尋はこれ以上黙って見ていることができなかった。
「じゃあ、おまえは、おまえが潰れるまであいつのかみさまでいてやるつもりだったのか」
 努力を、不断の努力を積める人間はたしかに宗教だと思う。それと同時に、他人を偶像と呼ぶことは暴力だ。優都はそういう信仰が自分に課せられていることは知っていて、あるいは自らそれを受け容れようととはたらきかけて、他人の呼吸を丸ごと背負おうと息を切らしていた。腐らず折れない清冽な矜持を抱いて、どんな道であっても立ち止まらずまっすぐに歩くこと以外、潮は優都に許さなかったし、優都はそれに応えようと必死だった。
「他人の人生と価値観を、全部押し付けられて、そんなの抱えきれるほど強くもなくて、ほんとうは自分のことで精一杯なくせに、他人のためにおまえが駄目になることはねえだろ」
 千尋の声も言葉も、だれよりもずっと冷静で、彼は最後まで顔色ひとつ変えなかったものの、ただ、このときだけ、一言だけわずかに声が震えた。千尋はその言葉を、優都の眼を見て言おうとして、最後すこしだけ目を逸らした。千尋のその癖を優都は知っていた。彼は、感情をそのまま言葉に乗せるとき、相手の眼を見続けることができない。
「俺は、そんなのはいやだよ」
 だれひとり、そのあとなにかを言うことはできなくて、黙り込んだまま止まってしまった空間の中に、潮の荒い呼吸と京のすすり泣く声だけが響いていた。おそらく、だれよりも潮に声をかけたいと思っているのが優都だと言うことを皆が知っていた。けれど、優都ですら、そこに立ち尽くす以外の行為は許されていなかった。


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