序章 きみがきみの居るべき場所へ - こぐま座アルファ星

 思えば、このひとと二人でどこかに行くことはあまりなかったと、真夜中の電車で潮(うしお)はここ四年間の記憶に指を滑らせる。部活が終わったあとにファストフード店で夕飯を食べた、テスト期間に泣きついて放課後の教室で勉強を教えてもらった、休日に何度か家に訪れて共通の趣味の話をした。部活の先輩後輩の付き合いとしては親密なほうなのだろうけれど、それくらいだ。意外といえば意外だった。それくらい、隣に座る先輩は、出会ってからの四年間、潮のなかでなによりも大きな存在だった。刻まれた全ての景色を、このひとの肩越しに見ていたと錯覚するほどに。横目で視界に収めた彼は、電車の揺れに身を任せながらぼんやりと窓の外を眺めていた。がたん、と身体(からだ)が突き上げられる。それに合わせてわずかに上下した頭の位置は、潮のものよりもほんの数センチだけ低い。
 東京の西端へ向かう終電は都会の明るさをとうに通り過ぎ、音を奪い取るほどに動かない暗闇の中を突き抜けている。ここにいる自分たち以外の人々は、これからこの静寂の中に帰って行くのだろうと動きの鈍り始めた頭の隅で思案する。日付はついさっき、土曜から日曜に変わったばかりだ。だというのに、昨日の夕方まで学校で部活をしていたことが不自然に思えるほど、昨日という時間が遠い。先輩はやはり所在なさげに外を眺めているだけだ。ただただひたすらに暗いだけの郊外の景色になにが見えているのだろうかと聞こうとして、やめた。会話のないことは、このひとといるときに限っては決して苦痛ではない。
 電車が冬の線路を鳴らす音だけが、潮の鼓膜を揺らしていく。潮がひとつ欠伸をすれば、先輩はようやく向かいの窓から視線を外し、左隣の潮を見やって表情を緩める。「寝ててもいいよ」と微笑んだ彼は、きっとこんな時間にはまだ眠れないのだろう。「平気です」と笑ってみせれば、優都(ゆうと)は小さく「そう」と呟いた。

 「星を見に行かないか」と言い出したのは優都のほうだった。今週の月曜日、部活が終わったあとに二人ですこしだけ自主練をし、駅までの帰り道を一緒に歩いているとき、彼はふとそう呟いた。寒さに滅法強い優都は、とうに十二月に入ったにも関わらず制服の他にはマフラーを巻いているだけで、潮はその隣でグレーのダッフルコートのポケットに両手を突っ込んでいた。くすんだ都会の夜空を見上げる彼の視線の先にはオリオンの三つ星があり、つられて潮も上を向く。あまり、自分から好んで空を見上げた記憶はない。
「星、っすか」
「うん。日曜の明け方に、ふたご座流星群を観に行こうと思ってて。ちょっと遠いけど、いい場所知ってるんだ」
 優都が口にする「真夜中だから多少寒いけどね」の言葉には一瞬躊躇したけれど、それはだれよりも尊敬している先輩の誘いを断るだけの理由にはならなかった。特別、見渡す限りの星空や流れ星に心を躍らせたこともなかったものの、優都の見ているものや見たいと思うものは気になった。どれだけ憧れても自分が決して彼にはなれない理由は、単純なようで実はひどく難しいということを潮は知っていた。なにが好きで、なにが嫌いか。そんな簡単なことにさえ、何年隣にいても予想すらできないことが隠されている。頭上のオリオン座もまたそのひとつだった。まっすぐに一途なはずの彼が、いまどこにいてどこを見ているのかさえも、ときどきうまく掴めなくなる。
「先輩、星好きなんです?」
「言わなかったっけ」
「初耳っすよ」
「そう? こっちに引っ越してくるまえは、近所に天文館があったんだ。郊外に住んでいたから、こんな都会よりもずっときれいに見えたよ」
 懐かしむように優都が吐いた息は冬空の下で白く色づいた。中学に入るときに関西から東京へ越してきたのだという彼の幼い頃は、潮には知る由もない時代だ。優都のローファーがアスファルトを叩く音がわずかにテンポを落とした。彼は自分の後ろを歩く潮を振り返る。気が付いたら思いの外距離が離れていた。大股で近付いて、いまだ白熱電球の街灯に薄く浮かび上がる彼の姿に目を細める。長いこと履いているはずなのに音の変わらない黒いローファーと、丁寧に巻かれたマフラーは、潮の知る彼そのものだ。赤と緑のタータンがよく似合う人だ。知らなくたって、彼が真冬の生まれだとわかる気がする。 
「星とか、言われてみたらあんま知らないっすね。中学受験以来縁ないかも。なんでしたっけ、冬の大三角。オリオン座のベテルギウスと、えっと、おおいぬ座のシリウスと?」
「こいぬ座のプロキオン。意外と覚えてるんじゃないか」
「ていうか、流れ星なんて見えるもんなんすね」
「この辺でも、粘れば何個かは見えるんじゃないかな」
「——なんで、俺を誘うんですか」
 それは純粋に疑問の言葉だった。今度は肩を並べて歩き、息を吐いて問う後輩の横顔を優都はしばらく見つめたのちに、前を向き直ってどこか遠くに視線を投げる。彼がなにかを考えるとき、よくする仕草だ。
「深い意味があるわけじゃあないんだけど、なんとなく、おまえに見てほしいと思って、かな」
 ううん、と真面目な顔で首を傾げる彼の姿に思わず笑ってしまった潮を、彼は不服そうな顔で見やり「なんだよ」と眉をひそめた。居心地悪そうにマフラーに顔を埋めた優都に向かって、潮はおどけて肩を竦めてみせた。
「や、すんません。そういうセリフは、俺に安売りしないで彼女とかのためにとっといたらどうっすか」
「なに、嫌味?」
「違いますって、俺だってここにきてまだクリスマスがら空きっす」
「二十四も五も部活だよ」
「わあい、うれしいっすわ……」
 大袈裟に溜息をついてみせた潮から視線を外し、優都は近づいてきた駅の明かりを瞳に収める。乗り換えもない小さな駅だが、この時期は申し訳ばかりのイルミネーションに覆われていた。街路樹が青色に光り、植え込みには色とりどりのLEDが撒き散らされている。パン屋とコンビニと薬局がそれぞれ別々に店舗を飾り立て、街路樹はその前にも続いていた。駅前の鮮やかさは今日に限って耳鳴りがしそうなまでに無秩序で、潮はそっと目線を快晴の一等星に逃がした。あれがたしか、シリウスだ。
「まあ、俺が優都先輩のお誘い断るわけないっすけどね」
 そう思いません? と体ごと優都の方を向けば、彼はまじまじと潮の満面の笑みを眺めたあとに、呆れたような白色を吐き出した。「なんすか」と唇をとがらせてみせるのは今度は潮の番だ。
「お前も大概だよ、潮」
 「俺、わざと言ってますもん」と真面目くさった顔で返したら、非難の言葉のかわりにもう一度溜息が聞こえた。その後ろでジングルベルが鳴っている。「連れてってください」と言いながら構内に足を踏み入れて、そのあと先輩がなんと返事をしたのかは、意外と曖昧だ。

「うわ、真っ暗。なんも見えねえ」
「転ぶなよ」
「つかなんか変な音しません?」
「虫かなにかだろ」
「ちょっと待ってくださいって」
 街灯も家屋の明かりもほとんどない暗闇では、過敏になった聴覚が些細な物音すらをも拾い上げ、背筋が粟立つ。それでなくとも、電灯のない夜中というものをほぼ体験せずに育ってきた潮にとっては、暗闇そのものが恐怖に近い存在だった。躊躇も恐怖も見せず進んでいく優都は、自分の後ろをおぼつかない足取りで歩く潮に懐中電灯を手渡して、足元に気を付けるよう促した。
「先輩前見えてんすか……」
「まだ目慣れないの?」
「全然っすよ」
 潮の手袋越しの左手の親指が、懐中電灯のスイッチを押し上げた。自分たちの立てる足音から、アスファルトの上を歩いていることは予想していたが、潮にわかっていたのはほぼそれだけだった。足下を照らした鈍い光に、それが正解だったことを知る。フィラメントの灼ける音さえ聞こえてきそうで、びりびりと空気を揺らす冬の冷たさまでもが、一歩踏み出す度に音階を作る。呼吸の音が背中を走る。忠告通り目一杯着込んできたのだから、きっと寒いわけではない。耳を塞ぐ努力をしながら、地図もなしに黙々と歩き続ける先輩の後をひたすら追うのが潮には手一杯だった。
「優都先輩、ここよく来たりするんですか」
「年に一度くらいかな、あまり機会もないし」
 静寂が音となるのを恐れて声を発すれば、返ってくるのはいつも通りに冷静な口調と声だった。次第に街の明かりから離れてどことも知れない場所へ踏み込んでいく優都に、それ以上なにかを問うことができなかった。優都が潮を気遣わないのは、潮が自分を信頼しているとわかっているからだ。転ばないように気をつけながら、右足と左足を交互に前に出す作業に専心する。付いて行きさえすればいい。街灯も家もないけれど、目の前にはこの人がいる。潮にとっては、それ以上の鼓舞はなかった。
「潮、上見てみた?」
「へ?」
 唐突に投げかけられた言葉に、頓狂な声を返して反射的に空を見上げ、誇張でもなく潮は言葉を失った。暗いという静寂にばかり気をとられてまったく意識のなかに入ってこなかったものがそこに広がっていた。オリオンの三つ星を見失いそうなほどの星空、粉砂糖ほどの小さな星を目で見たのは初めてだった。ひときわ明るく輝く青い光は、ほんとうにこのあいだのシリウスと同じものなのだろうか。そこに音が流れることはないというのに、喉の奥底に重たく溜まる感覚には覚えがあった。
 いつのまにかその場に立ちつくしていたようで、「潮」と名前を呼ばれて我に返る。慌てて先輩を追おうと駆け出せば、足下の小さな石に躓き、数歩よろけて優都に腕を掴まれた。
「大丈夫?」
「すんません……や、なんかすげえっすね、これ」
「感動した?」
「はい」
「それはよかった。音のないものには感動できないって言われたらどうしようかと思ったよ」
「そんなこと。だったら俺はどうやって先輩の弓に惚れりゃいいんすか」
「——そうか、そういえば、そうだったな」
 前を向いてまた進み出した優都の声は、こころなしかトーンが下がっていた。ようやく辺りのものが輪郭を持ち始めたけれど、目を細めても彼の表情を伺うことはできなかった。やはり黙々と歩き続ける、自分よりすこし小さい先輩の背中を追いかけて、結局それからあとしばらくは会話もなくひたすら歩いた。不思議と、「あとどれくらいですか」は問う気にもなれない。ときおり、車とすれ違う。足音とそれ以外には音もなければ色もない。自分と目の前の先輩も、進んでも進んでもそこにある星空も、暗いだけの風景も変わらない。その中を迷いもせず歩いていく目の前の背中だから、縋ってきたのだろうとそれを憧憬する。

 「着いたよ」と優都が足を止めたのは、光という光がほとんど見あたらない高台の公園だった。辺りを見渡しても同じ目的の人も見つからない。中学一年のときに初めて優都が彼の兄とともにこの辺りに来た際に、地元の人に話を聞きながら丸一日がかりで見つけ出した穴場らしい。車もバイクも入り込めない場所にあるから、あまり他の人が来ることもないのだという。
 レジャーシートとブランケットを敷いてその上に寝転がると、視界が一面星空に占拠され、それに思わずまた声を漏らした潮を隣の優都が笑った。手が届きそう、などという陳腐な比喩も意外と実感に即しているのだと思い知る。手を伸ばして掴み取る真似をしてみれば、優都がまた喉を震わせるのが聞こえてきた。
「笑いすぎっすよ、先輩」
「いや、だって潮見てるほうが面白くって」
「流れ星見逃しますよ」
「どれかは見えるよ」
 ひとつ息をついて、優都も空に視線を戻した。星が好きだというこのひとは、いまなにを考えながら空を見ているのだろう。聞いてみたいけれど、簡単に言葉にしてしまえるようなものであってほしくない、とも思う。
「先輩、星座とか詳しいんですか」
「詳しいってほどじゃないけど、日本で見られるやつは小学生の頃に全部覚えたよ」
「それ詳しいって言っていいやつじゃねえっすかね」
「そうかな。名前の由来とか神話とか、そういうのはあんまりだけどね」
「今日のは、ふたご座流星群、でしたっけ」
「うん。ふたご座わかる? 冬の大三角よりちょっと北側に、明るい星が二つ並んでるの見えないかな」
「あー……あれっすか、えーと、プロキオンの上の」
「そうそう。明るいほうが弟のポルックス、すこし暗いほうが兄のカストル」
「双子なのに兄貴のが暗いのなんか切ねえっすね」
「ポルックスのほうが地球に近いからな。絶対等級で言ったらカストルのほうがたしか明るかったと思うよ」
 夜空を見上げながら名を挙げた星をひとつずつ指差して語る優都は、いつもよりもどことなく饒舌だった。彼が、自分の好きなものについてこれほど熱心に話すところを見たことがなかった。
「俺、星座って、オリオン座とカシオペア座と北斗七星くらいしか覚えてねえっす」
 その三つは見つかる? と優都に問われ、その三つの星座を天球から探し出す作業に潮はしばらく没頭した。
「カシオペアと北斗七星がわかるなら、ポラリスが見つかるな」
 いくつかヒントをもらいつつも潮が星座を辿るのに成功したとき、優都は慈しむようにその星の名前を口にした。ポラリス、と聞き馴染みのないその四文字を反芻すると、優都は「いまの北極星」と言い直した。
「あー、えっと、北斗七星の先んとこ伸ばしたとこにあるやつっすよね」
「そうそう。だいたい五倍くらい」
 理科の教科書で覚えた知識を手繰って天の北極を見つけだす。まわりよりもすこしだけ明るい星が、北斗七星とカシオペアのあいだに瞬いている。シリウスやベテルギウスのようには存在を主張しない、長い瞬きをしたら見失ってしまいそうな星だ。「意外と地味ですね」と潮が本音を零すと、優都は軽く笑って「二等星だからね」と言った。
「僕、ポラリス好きなんだ。暗いところ来なくても見えるしね」
「一晩中動かない星なんすよね、北極星って。だから目印になる、みたいな」
「うん」
「まあ、俺にとっての優都先輩っすよね」
「……おまえ、ほんとよくそんなこと恥ずかしげもなく言えるよな」
「え、ちょっと、先輩引いてません? 俺悲しいっすよ」
 寝ころんだまま流れていく会話の心地よさに、なにを見付けに来たのかを忘れてしまいそうになる。流れ星は、きっとこの視界のうちにはまだ流れていない。
 ほんの、一瞬の沈黙のあとだった。視界の端を一本の白線が過ぎる。思わず「あ、」と声を上げた潮に、「見えた?」と隣から声をかける優都の声色も、心なしか弾んでいた。それは瞬き一つで忘れてしまいそうなほどの時間で、再び見上げた夜空はまた静寂のうちに静止していた。
 二つ目が流れたのは、潮が口を開くよりも早かった。滑るように夜空をつるりと撫でて消えていき、その先には光の残像すらを残さない沈黙があった。全天に広がる数多の星たちを意に介さぬように空を駆ける星の姿は、たしかに、希望を乗せる相手として語られるには格好だと納得する。
「願いごととか、するもんなんですかね」
「してみればいいんじゃない?」
「それはそれで難しいっすね……先輩なんかありません?」
「僕? ——そうだなあ、インハイ出たいとか、自分で願っても情けないな」
「あ、じゃあ俺がそれ祈っときます」
 言うが早いか流れたもうひとつに、勢いよく起き上がって真剣な顔で目を閉じ、手を合わせた潮の姿を見て、優都は苦笑しながら自分も半身を起こして毛布の上に座り込んだ。「これで負けられないね」と優都が呟くと、潮は満面の笑みで「大丈夫っすよ」と振り向いた。
「じゃあ、なにかお返ししようかな」
「先輩、なんか祈ってくれんです?」
「せっかくだしね」
 またも静まりかえってしまった夜空を二人で眺め、今度はそこに会話も生まれなかった。不思議と、眠くなることも寒さを感じることもなかった。異質さを感じることのない異質な非日常に包まれて、あらゆる感覚がいまこの場所ではあたりまえになる。星座をすべて覚えてしまうほど星が好きにはなれないかもしれないけれど、この感覚は忘れてしまいたくないと、潮は一瞬目を閉じた。瞬きほどの間隔で再び視界に空をおさめたとき、優都は彼の隣で両手を合わせていた。
「——いま、見逃しただろ」
「……ちょっと、目瞑ってました」
「まあ、そんなこともあるよ。祈っておいたから」
「なにをっすか」
「秘密。僕が言って、叶えてほしいことじゃない」
「ええ、なんかちょっと怖くねえすかそれ」
「大丈夫だよ」
 後ろ向きに毛布に倒れ込んで、体半分寝返りを打った優都は、その位置から座ったままの潮を見上げて笑った。暗闇の中、その表情の機微までは読み取れないまでも、彼がいつもよりはどこか幼い顔を見せているのがわかる。北極星の上を星が流れていった。
「おまえなら、いつかきっとわかるから」
 流れ星とともに夜空に飲み込まれていったその言葉に、どうしてか喉の奥が締め付けられる気がした。優都はそのまま、それ以上のことはなにも言わずに寝転んで、星空と、ときおり滑り抜けていく流れ星を眺め続けた。潮も先輩の横で仰向けになって空を見上げる。優都の言葉も、それを発した彼がなにを考えていたのかも、潮にはわからなかった。ただ、このときこの場所に、優都の言葉よりも祈りに近いものが、きっとなにひとつ存在していなかったであろうことだけがたしかだった。

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