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【自分史①】生誕~幼稚園

中学生の時に、学校からの課題で「自分史」を書いたことがある。

どんなことを書いたかはすっかり忘れてしまったが、家族に過去のことを聞きながら探し出してきた古い写真を眺めたり、幼馴染に「私はどんな子だったか」とインタビューをしてみたり。

当時15歳そこそこの自分がそれまでの人生を見つめ返すというのは、かなり新鮮ではあったものの、振り返るほどの人生を歩んでいない不足感を持った印象がある。

ふと自分史の存在を思い出したので、初めて作成してからちょうど2倍の人生を歩んだ今、再び自分史に挑戦してみることにする。


誕生

社内恋愛をしていた両親が、(当時でいう)「できちゃった婚」をして誕生したのが私だ。私自身、この「でき婚」について初めて聞かされた時から、マイナスな印象を抱くことなくむしろ”私を授かったことが結婚のきっかけになったのだな、良かったな”くらいにしか思っていない。生まれる直前、父は仕事の都合で夜中まで飲んでいたようで、早朝に陣痛を迎えた母は一人で車を運転し病院に向かったという。そこから約半日後、3500グラムを超える大型な赤ん坊としてこの世に生を受けた。両親にとっては第一子ということで、父も母もかわいくてかわいくて仕方なかったようだ。父は体育一家に生まれた生粋の体育会人間で野生児タイプ、母は歌うことが大好きで感受性が豊かだが負けん気が強いタイプである。そのハイブリッドとして生まれた私は後々、このどちらの良いところも悪いところも発現させてしまうことになる。

姉になる

生まれてから2年も経たないうちに弟ができる。弟の誕生により(母が不器用だったのと、私がおとなしかったのとで)母は私の面倒をあまり見ることなく弟につきっきりになる。ある朝、母が目覚めて何か音がすると思い襖を開けると、私が「ありの”あ”、いぬの”い”、うさぎの”う”・・・」と壁に掛けられていた あいうえお表 を念仏のように唱えていたという。さながらホラー映画のようで恐ろしかった、と母はいまだにこの話を面白半分にしたがる。弟のことがかわいい反面、母を取られたという気持ちがあったのか、弟が歩き始めるころには「弟いじめ」が始まった。ホームビデオを見返すと、弟が積んだつみきを全力でぶち壊す一部始終が収められている。(弟が大泣きする中、満足げに高笑いする小さな私が映っている。)その反面、弟の面倒もよく見ていたようで、小さいながらも”姉”としての人格が出来上がっていたのだなとも思う。

人生初のモテ期到来

幼稚園に通い始めた当時、身長が高く体格もよかったので、喧嘩をしては男の子をよく泣かせていたそうだ。母譲りの負けん気と頑固さ、父親譲りの身体能力もあいまって、母曰く”武闘派”だったそうだ。そのせいか、男の子からよくモテた。当時、母にねだって好きな男の子にチョコを作ったのだが、当日自分がチョコを渡すつもりだった男の子から逆にチョコをもらってしまったのだ。さらには、同じ組の男の子同士で「僕が遊ぶ!」「俺が遊ぶ!」と私を取り合う事態になったこともあったそうだ。私はほとんど記憶にないが、母は自慢げに当時のモテ期について話してくれる。(そのモテ具合を今に分けてくれと切実に思うが)

E.T.で泣く

母は早々に私が一人で留守番ができるように訓練させた。ビデオを流しておいて興味をひかせその隙にでかける作戦は功を奏し、難なく一人で留守番ができるようになった頃、母の大好きなE.T.を流して外出した母が帰宅すると、私が大泣きしている。どうしたのかと聞くと「イーチーが!行っちゃった!バイバイしちゃった!」と悲しげに話したそうだ。それが、母が認識する私の人生初めての「感動で泣いた」出来事だった。大人になった今でも、映画を見て心を揺さぶられるとすぐに涙してしまう。

しっかり者(?)と言われるルーツ

小さい弟がいた私は、自分の身の回りのことは自分でこなすようになったようだ。幼稚園の制服は帽子からスモック、靴下に至るまで自分で着替えることができたし、髪の毛も自分で結わえるようになった。うっすらした記憶では、母に髪の毛を結ってほしいとお願いしても「ちょっと待ってね」を連発され、しびれを切らす形で自分で結い始めたように思う。(お気に入りのヘアゴムがたくさんあった。特にお気に入りは赤いチューリップの形をした飾り付きのもので、本物のチューリップのような立体感がとても素敵だった。)30年間生きてきて一番多く人から言われた言葉が「しっかりしてるね」なのだが、これは確実に、この頃に自分の身の回りのことを自分でこなしていたことが始まりだ。(今日に至るまで”しっかり者”である自覚はなく、ただ単に自分のことを自分でやり切ってしまうだけだと思っている)

ディズニー大好き

当時住んでいたエリアが東京ディズニーランドから近く、自転車で10分ほどというアクセスのしやすさもあり、年間パスポートを購入していた。母は、自転車の前後に弟と私を載せて、かつ後部座席の後ろにベビーカーを引っかけるというパワースタイルで、毎日のようにディズニーランドに連れて行ってくれた。もはや”庭”のようなものだ。そのおかげか、とにかくディズニーが大好きだった。ショーに出てくるミッキーがかっこよくて、「ミッキー!ミッキー!」と大声で叫んだことは今でも鮮明に覚えている。家では短編アニメが収められているビデオを、テープが擦り切れるほど見た。弟とセリフを言い合って”ミッキーごっこ”もした。大人になった今でも、疲れたりしんどかったりする時にはディズニーの短編アニメを見て元気をもらっているほど、私の根幹にはディズニーが根付いている。


生まれてから幼稚園まで、一度だけ、高熱を出して救急車で運ばれたようだが、それ以外には大きな病気や怪我はなかったようだ。

そして、父と母の血を濃く受け継いでいると強く感じるエピソードが多い。幼稚園の運動会ではかけっこで毎年1位だったし、喧嘩も負け知らず(暴力はいかがなものかと思うが)と、父の運動能力をしっかりと引き継いでいたようだし、母の歌に感化され、私もよく歌い踊る子だった。ホームビデオにはディズニーのショーを録画した映像に合わせて、くねくねと踊る様子が残されていた。また、毎年冬には家族でスキー旅行にでかけ、幼稚園の時点で中級コースは滑りこなすまでに上達したそうだ。確実に父の血である。


まだまだたくさん書きたいことはあるが、今の自分を形成する要素だけを抜き出して書いてみた。

次は小学生のころを振り返ってみる。

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