映画「ファースト・マン」感想
あまりに固有な具体性に基づく感情は、その感情そのものは観念として普遍的であったとしても、共有することを躊躇ってしまうものなのだろうか。
月面の地形には様々な名前がついている。ケプラーの時代に、月の暗く見える部分には水があると考えられていたことから、「海」、「湖」、「入江」など、水にちなむ名前が多い。実際のところ、その暗く見える領域は太古の火山活動に由来して、いわゆる玄武岩に満たされているらしい。反射率が低い――すなわち、光を吸収してしまうからこそ暗く見える。
その乾いた月面の一角、「静かの海」に人類の最初の一歩を刻んだのが、アポロ11号の船長、ニール・アームストロングである。
「ファースト・マン」は彼の視点を軸に月面着陸計画を追う映画だ。
この映画を通じて知ったのだが、彼は寡黙で有名らしい。映画内では全編を通じて、その寡黙さに対するひとつの解釈が示されていたように思う。
映画そのものについて漠然とした感想をひとことで述べると、詳しすぎるホームビデオを見たようだった。人が、ふとした瞬間に衣服の糸のほつれを眺めたり、フローリングの木目を意味もなく凝視してしまうのと同じ温度感で、船内のビスやシートベルトの金具を見つめる視線が描かれている。
日常と地続きの場所にあって、しかし具体性により確実に隔離された、特異な「体験」を、映画の中に再現したかったのではないかと感じる。
何かを注視するとき、具体性と抽象性におく意識の比重は、人によってだいぶ違うだろう。私の場合は気を抜くと抽象性の方に目が行って、具体性が疎かになる。逆の人もいる。
「思い入れ」という言葉があるが、具体的な「モノ」、「オブジェクト」に強い気持ちを抱ける人は、かえってそこに没入する己の気持ちは盲点に呑まれ、その容器としての「モノ」自体を凝視してしまう傾向があるのだろうか。あるいは、「モノ」が見えすぎるからこそ、そこに自分の意図が結晶してしまい、もはやその「モノ」を通したコミュニケーション以外を諦めたくなるのだろうか。その孤独は深かろう。
画面ごしに再構成されたニール・アームストロングの虚像に、そのようなものを感じた。
人の感情には、具体性によって隔離され、抽象性によって風穴が開くような側面があると個人的には思う。どちらかだけでは成り立たない。あまりに具体的だと、観念の上で歩み寄れない。あまりに抽象的だと、「個人」というモノとしての「形」を確立できない。どちらもそれなりにストレスフルだが、そのどちらもひとつの個性であり、そこにこそ人の尊厳は宿るだろう。
その尊厳を守ることと、その尊厳を突き崩してある種の隙を作ることは、どちらも人生において同等に重要なことのように思う。
しかし、実際にはどのように折り合いをつければよいのだろう?
私はずっとわからないでいる。この先、わかるときがくるだろうか。
映画「ファーストマン」をみて、こんなことを考えた。
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