癒えないものと付き合うということ

人生において、何か望まぬアクシデントに遭遇して深い傷を負い、一握りの希望をどうにか見出して、その傷を癒そうと試行錯誤し、躓いては立ち上がって、努力に努力を重ねる。
それでも万策尽きて、ふと努力に費やしていた思考に余白ができたとき、「決して治らないのではないか」「すべて無駄なのではないか」という無力感が去来する。

私は何度かそのような経験をして、人生におけるいくつかのことについて、自分の望み通りに推し進めるのを諦めた。
「諦めるな、逃げるな、単に努力の方法が悪いのだ」という内的な発破と、「本当にどうすることもできないのだろうか」という迷いが常について回ったが、タイムリミットがあったのだ。
それに、精根尽き果てるまで行動を以て意志を貫く、という生き方は私には無理だった。
今、思い返してみれば「自分の理想や望みのために費やせる、時間と気力に制限があったこと」は、私にとっては幸福なことだったのだと思う。
私の対処能力を超えた「望まぬアクシデント」は、私の望みを大きく妨げたが、同時にその望みを諦めるための口実も内包していた。
つまり「仕方のなさ」である。
その「仕方のなさ」が、自分が自分として肉体を持ち「環境の中に実体として位置を占めて存在すること」の本質なのだと思った。

意志の限界を知ること、すなわち意志がまるで役に立たない場所があり得るのだと知ることで、そして、それは誰が悪いせいでもないのだと納得することで、かえって意志から解放された気もしている。
ただ「どんな人間の意志や感情も影響しない事象」が存在しうるのだという実感が、充分に自分の中に育ったのだと思う。
とはいえ、やっぱりつらいものはつらいし、あのときああしておけばという後悔はいつでも自分の中にわき起こるのだが。

何かしらの傷を癒すことができないとき、それは誰が悪いわけでもない。
まして、立ち直れないのはその人の弱さのせいではない。
とはいえ、つらいものはつらい。

つらいといろいろなことを考える。
自分がああすればよかった、あいつがああしてくれていたら、あのときあんなことが起きなければ……けれど仕方がない、もう覆らないのだ……そうは言っても、もしもあのとき……。

自分が干渉できない「仕方のなさ」と、何かを欲する「自分のエゴ」との間を揺れる。
それでいいんだなと、少しずつ実感している。
それでいい。

私がそんな風に自信をもって日々を坦々と生きていくことが、いつか誰かの迷いを肯定する、ささやかな支えのひとつになると信じている。

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