普通の幸せ

初対面の人や、付き合って日の浅い人と世間話をするにあたって、いつも答えに困る質問がある。
「休みの日に何をしていますか」または「趣味・好きなものは何ですか」である。

以前はこの質問をされると、頭の中を瞬時にクソ真面目な思索が駆け巡っていた。「趣味とは何か」と。
白状すれば、私には気軽に「ちょっと時間あるからあれやるか」と手を出して「あー、楽しかった!」と楽しめる類の趣味はない。気分が奈落に落ちたときに、それを忘れるために中毒する対象はあったが、ただ死活問題でそれに明け暮れているだけなので、趣味と呼ぶには甚だ抵抗がある。
それ以外のときには、だいたいものを考えている。自分のこと、職場のこと、ささやかな幸せと不幸せ……。私はそらで考えを言語化することがとても苦手なのだが、日常の違和感や驚きは比較的鮮明に、その場面ごと覚えてしまう。そして、それらについてどうにかして納得しないと、いつまでもわずかな違和感が体のどこかに残ってしまう。だから私は、帰宅後や休日などの空き時間のほとんどを、自分の中に溜まってしまった場面への解釈を、言語化して吐き出すことに費やしている。「これは生理的情動だから論理的には説明できない主観だ、こっちは情動と思考が主観の中で重なり合って価値観の幻影を生んでいる、あれはただの論理的破綻、なぜその人はその言葉をしいて選んだのか、なぜこの言葉を選ばなかったのか、ゆえにこの人の言動にはこんな仮説が立つ」……そうやって、自分が主観的に体験した事象の論理的な整合性を確認している間だけは、あらゆる価値観のしがらみから解放されて、静かでありながら高揚した気分になれる気がする。しいていえば、それが私の趣味なのかもしれない。料理や皿洗いと同じレベルの、生きるためのルーチンワークを趣味にしている。

だが、相手はそんなガチな返答は求めていないのだ、だって間を持たすための世間話なのだから。さすがにこの類の打ち明け話はふさわしくない。

仕方がないので「まあ読書ですかね」とか適当なことを答える。すると「どんな本読むんですか」と返ってきてまた困る。本当にお気に入りの数冊を、思い出したときに執拗に読み返すだけで、言うほど数はこなしていないからだ。だから、適当な小説をいくつか決めておいて、そのタイトルを言うことにしている。最近の作家の名前を出すと「ああ、その人ならこないだ新しい小説出てましたね。読みましたか?」と話が繋がってしまうので、作家名ではなく、昔の作品の名前を出す。それから、自分の私生活に関する話が繋がらないうちに、できるだけ速やかに相手に話の矛先を向ける。あるいは、仕事やら最近のニュースやら、自分たちの共通の話題に。

困るのは、ときどき勘がいいわりに無遠慮な人がいて、どうにか私生活のことを聞き出そうとしてくるときだ。こちらがはぐらかそうとしていることに気付いて、そういうの良くないよと言わんばかりに質問攻めにしてくる。好きな音楽は、好きな食べ物は、じゃあ先週末は何をしたの、何もしてないわけはないでしょうと。ときには本当に「秘密主義はよくないよ」と言ってくる人がいるので「まあそうかもしれませんね、よく言われます」ともう正面から『煙に巻きます』という宣言をする。笑っておけばどうにかなるというものでもないが、とりあえずついでに笑っておく。別にその人と私生活を共有するわけでもなし、正確に話したところで相手の中には言語記号に基づく私の不確かな幻影が生まれるだけ。今一緒に居る時間がすべてなのだから、その時間の中で共有できる実体だけを共有すればいいんじゃないの、と思ってしまう。たぶん私は面倒くさがりなのだ。

もし、普通の趣味があって、普通の感性で幸せを感じられたら、私はたぶん嬉々として何だって答えるだろうと思う。こないだ読んだ新しい小説、あれ結構おもしろかったのでお勧めです、先週クックパッド見て作ったあれが意外とおいしくて、食べたことありますか、前に誰々が何とかって話をしてたんですが、もう笑っちゃって……長らく、そんな他愛ない話をしてみたかった。相手が楽しいと感じられるような、自分の話を。まあできないのだが。できないものは仕方がない。普段何をしているの、と聞かれるたび、どうすれば速やかに煙に巻けるかを考えながら、心の中で「ごめんね」と謝る。

それが寂しくて仕方がなかった時期もある。だが、そういう場数をこなし「自分のことをうまく話せない」という罪悪感が薄れたせいか、近頃は「なんかこれはこれでいいな」と思えるようになってしまった。
私には普通の感性が感ずるところの幸せが何なのかわからないし、じゃあ私自身の幸せとは何なのかと聞かれても答えられない。誰かと相対するとき、ああ、この人と自分はあまりにも違う、と直観する。

そう、違うのである。人間はみんな違う。あなたも私も、それから向こうのあの人も。それが覆しようのない客観的事実だということを、実体験に基づいて思い知り納得すればするほどに、私はなぜか安堵するのである。普通かどうかは問題ではない、違っていていいのだと。そしてわずかに高揚する。各々の生きる先に、私には到底知りえない限りなく創造的な展望が潜在しているのを予感するからだ。

私には決して見えない景色をあなたは見ている。あなたには決して見えない景色を私が見ているのと同じように。どんなに同じものを見たいと思っても見ることは叶わない。人間は誰しもそういう不可侵の神聖な何かを抱えて当たり前のように毎日を過ごしている。それがすごく不思議で、どこかアンバランスで、私にはどうしようもなく面白い。世間話のぎくしゃくを苦笑いでごまかすたびに、そんなことを考える。

憚りなく人に話せる日常こそ持ち合わせてはいないが、私は案外、普通に幸せに生きているのかもしれない。

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