その存在を「肯定」したい

近頃、ひとり黙って考え込んでしまうことが多いので、リハビリとして曖昧に考えていることをありのまま出力してみようと思う。「他者を無防備に全肯定したい」という気持ちと、「それが本当にその他者のためになるのか」という気持ちのせめぎあいについてである。

これは私にとっては避けて通れない議題だ。なぜなら、これはおそらくかつて私の養育者が幼いころの私に対して抱いた葛藤であり、私はその葛藤の悪しき側面によって私自身の自律性を徹底的にすりつぶされたことがあるからだ。その経験は、今も心の奥底に古傷として残っている。

私の養育者の養育方針は、完全に白か黒かの両極端であった。
ひとつは「子どもの意思決定の過程に一切の介入をしないが、計画の遂行を物理的に過剰に手助けし、失敗したときには『お前を信じてやったのに、お前は私を裏切った』と口汚く扱き下ろす」というパターン。
もうひとつは「子どもの『相談』に対して対話をせず、『自分ならこうする』という親の意思決定の結論のみを固持・主張した上で、『自分はもう忠告した。お前がどうするかはすべてお前の責任である』と突き放す」というパターン。
我が家では親子間のコミュニケーションといえばこの2パターンだった。
日常のあらゆる場面において「あそび」が乏しく、ほとんどの日常場面は「誰かの厳格な意思決定の結果」として導かれ責任が伴うものだった。私自身としては、幼少期にはその息苦しさには気付かなかったが、思春期以降は苦労した。特に口汚い叱責の数々は、幼少期のものから思春期以降に受けたものまで、断片的にではあるがかなり自分の奥底で残響しており、今でも折にふれて恐怖と劣等感を思い出す。

自分の過去を客観視できる程度に心の余裕ができてから、何かの口論のついでに養育者に当時のことを訊いた。養育者は「確かに厳しくしすぎたのかもしれない。だが、とにかく『ちゃんとした人』に育てないといけないと思ったのだ」と言った。
そのころの私としては、論点はむしろ「過剰な罵り」「口汚い叱責」(学校で友達に同じ言葉遣いをすれば先生に絞られるであろうレベル)を子どもに浴びせたことを、現状として養育者がどう思っているのかにあった。だが、それを問いただそうとすればするほど、養育者は「なんだってお前の言うとおりにしてやったし、お前もお前で親を頼り存分に利用した。当たり前のことなどひとつもないのにひとりで育ったような顔をして、お前は恩知らずで薄情だ」の一点張りで話にならなかった。

さて、私はいったん自分の論点を保留して、養育者の主張の論点を見極めることにした。ここで冒頭の議題に戻りたい。
「他者を無防備に全肯定したい」という気持ちと「それが本当に他者のためになるのか」という気持ちの葛藤である。

私の養育者は、私に対して「いつでもお前は期待を裏切る」というフレーズをよく使う。そこに、件の葛藤が表れているのだろう。
確かに私の養育者は私を肯定しようと努力したのだろうと思う。そして、私の成長途上の自己中心性や未熟さを目の当たりにするたびに、歯がゆさを感じたのだろう。

ゆえに、養育者の私への気持ちの根底に「愛情がなかった」とは思わない。補足すれば、私の養育者は幼少期に、私よりもはるかに過酷な家庭環境を経験しているのである。情状酌量の余地はある。愛し方がわからなかったのだろう。かといって、助けを求める余裕もないほど子育てに必死だったのだろう。それも理解している。

それでも「その愛情表現に問題がなかった」とはどうしても結論できない。その「愛ゆえの葛藤」「養育環境に起因する葛藤」を、あらゆる行動に対する万能の免罪符として使えるとは、私は解釈できないのだ。

いま私は、養育者が私に対して感じたであろう葛藤を、同じように養育者に対して感じているのだと思う。きっと私の養育者は心の片隅で、自分の人生の妥当性を全肯定されたいと感じている。かつて私がそうされたかったように。その気持ちはわかる。わかるからこそ、どうしたらよいのかわからない。必要なのは「全肯定されたかのような安心感」なのであって、「実際の行動の妥当性に対する、論理的・倫理的な全肯定」ではないと思うからだ。

互いに後者――すなわち「具体的な行動の是非」に焦点を当てているうちは、私と養育者の関係性は膠着したままなのだろう。おそらく、私たちには「あそび」が必要なのだ。無目的で、退屈で、意思決定の責任を問われない、何でもない日常が。白黒つかない、グレーな場所が。生活の必死さを忘れる努力が必要なのだ。
――それが現実的に可能ならば。

私のこの感覚は、養育者の自律性に対して踏みこみすぎなのだろうか?
養育者に対してだけではない。他者との人間関係全般に対しても、やはり同じようなことを私は自問している。自他の倫理観がぶつかり、いかに自分の倫理観が相手にとって不確かなものであり、また相手の倫理観も自分にとって不確かなものであるかを目の当たりにするたびに。自分は何をどこまで率直に話すべきか、あるいは要求すべきなのかと、適切な距離感を計りかねている。

それでも前提として、やはり私は自他を同等に「肯定」したい。考え方、感じ方、表し方……どれをとっても、あらゆる人が全肯定される完全な場所はないのだろうが、「ケースバイケース」のグレーな領域を数多経験し、折り合いをつけるごとに、私は自他の人としての尊厳を感じている。

願わくば、その漠々たるグレーな領域の先に広がる景色を見てみたい。
その過程にこそ、私自身が人間のひとりとして、責任を以て目撃し語るべき物語が存在するような気がしている。

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