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ブリキと湖

朝と昼と晩のこと。
乾いた鐘の音が聞こえて目が覚めた。
高い空が見えてここがベッドの上だと気づいた。
枕は昨晩の雨の匂いを残して。
起き上がるブリキの身体は関節が軋んで
ギシギシと音を立てる。
妙に爪が綺麗なのは昨晩研いだダイヤが光るから。
そうだ。
今日は外に出る約束を彼としたはず。
私は寝坊をした。女の子なのに。
時計はこの部屋にはないけど
もうじき夕方だと思う。
カラスが泣いて空が焼けるよと言っているから。
慌てて支度をしなくてはいけない。
「鏡に映らないところだけ綺麗にしなさい。」
全て鏡に映らない私にとっては呪いの言葉。
部屋になる椿で髪をとかす。
オレンジの雫で喉を潤す。
自作の七色に変色するカラーコンタクト。
作り方は私だけの秘密。
この部屋ひとつで身支度が整うのは父がくれた
私へのプレゼントを母が遺してくれたから。

約束の湖に行くと彼は映画を見ていた。
どんな映画を見ているのと聞くと
森から一頭の鹿が逃げ出して
その鹿の一生を描くドキュメンタリーだと教えてくれた。
私はせっかくだからとポップコーンを売店で買ってきた。
彼はポップコーンを飛んできた鳩にやった。
ひとつ残らず食べ尽くした鳩は
満足そうに湖の中に帰って行った。
彼が映画を見終わるのを待っていると
日は暮れて夜が来ていた。
彼は私の小指だけを引いて
湖の中へと私を連れていく。
出会った時から彼は私の小指にしか触れない。
私の小指だけが熱を帯びた本物だからかもしれない。
その他は冷たいブリキ。
歩くたびに不快な音が鳴り
声だけが鈴の音色を奏でる。
それがまた悔しい。

冷たい足先に湖がまた冷たい。
小指を引っ張る彼の手はまだ暖かい。
くるぶし。
脛。
膝小僧。
太もも。
柔らかな足裏の砂。
ジャブジャブと冷え切った足を進めていく。
彼はもうこちらを見ることはない。
腰。
私は怖くなっていつもここで
彼の手を振り払おうとする。
だけど彼の手は冷たく硬直して離してはくれない。
暴れる私に彼は一瞥もくれない。
仕方なく私は本物の小指をいつも切り落とす。
小指だけを持って軽くなった彼は
湖の底を目指して歩いていく。
手には私の小指。
彼のためにおめかしをした爪。
ダイヤモンドを加工し月灯りを反射して
彼の居場所がわかるように。
彼がちゃんと湖の底まで辿り着けるか
見届けるために。

帰り道は雨が降る。
傘を持っていない私は
ずぶ濡れになる。
また新しい本物の小指を探さなくては。
彼に会えない。
次はエメラルドでも埋め込もうか。
彼が好きな石はなんだったろうか。
私の頭には何も思い浮かばない。
家に帰って鏡に聞いてみようか。
「私の小指は何処」って。


あの湖には満月の夜に水面が星空のように光る。
有名な都市伝説があるみたい。

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