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#6 もっと

全然関係の無い話なのだけど、私がなにか言葉を綴るときはいつもタイトルから決まることがほとんどなのだが、まれに情景から浮かんできて、タイトルがなかなか決まらないということもある。

前者のタイトルが先行した場合は、結局タイトルのことをなぞってしまうから、つまらなくなりがち(ほとんど)。以前、友人に「タイトル回収はやすぎてつまらないね」と言われたことも。後者の場合は自分的には気に入った内容になるのだけれど、その分タイトルを決めるのに困ってしまう。なかなか良いタイトルが決まらなくて、ボツにしてしまったものもいくつかある(悔しい)。


きっとお気づきかもしれないが、今回もタイトルが先行してしまった。
本当は“もっと”ということについて書きたかったのだけれど、いざパソコンに向かったら、タイトルの話が頭を侵食してしまい、今回はタイトルのことについて書きたいと思う。”もっと”の話はまた今度に。




タイトルってなんだろう。その物語を一言で要約したもの?内容に関係のある事かな。肩書?ちょっと違うね。

僕はね、『名前』だと思うんだ。
そのものを呼ぶにふさわしい名前なんだと思う。

そう思ってるんだけど、そうなるとやっぱりおかしいんだよね。どうにも難しいことになってくるんだよ。僕は、まだ生まれてもいない虚構に名前を付けているということになるんだ。“名は体を表す”というけれど“名を表すために体をつくる”をしていることになるんだろうか。文字通り、中身の無いものはつまらなくなる、というのは周知の事実だし、僕は今までつまらないものを書いてきてしまったことに最近気付いた。


これは余談だけど“名を表すために体つくる”はとても難しいと思う。例えるなら、生まれたときに授かった名前に恥じないように生きるくらい難しい。願いの込められた名前ほど、プレッシャーだってあるだろうし、周りからの風当たりや無責任な期待を投げかけられることもあるだろう。「〇〇なんだから〇〇じゃないと」「〇〇なのに〇〇できないの?」とか。小学校ではよく聞いた。大人になるにつれてそんなことは減ってくるし、名前とその人自身の関係性などないなんてことは誰もが理解する年齢にみんながなる。
いつのまにか名前も“その人そのもの”になるから。からだに馴染むってのは、たぶんきっとそういうことなんだと思う。少しだけ脱線してしまった……。話を戻そう。



でも、不思議なことにそうでもないのかもしれない。
ときに、体は名をひょいっと超えることがある。
私のnoteにある「十年前に死んじゃってたらしい」という作品はタイトルが先行した作品だ。突如として、「十年前に死んじゃってたらしいんだよね」という言葉が降ってきて、その言葉から膨らませて、一息に書き上げてしまったものだ。これにはすごく驚いた。タイトルが先行したのに内容が追い抜かしてしまったのかと錯覚するほど、多く見てもらいたくさんのスキを貰ってしまった。

そんなこともあるんだなぁと風船みたいに軽い気持ちを抱くだけだった。けど、それとは別になんだか複雑な気持ちも持っていたことを少し思い出した。



名前って言葉だし、詩でもあって、歌でもあるし、魔法でもある気がしている。あだ名だってそう。私はね、小学生の時は下の名前で呼ばれていたのだけれど、中学校に上がってからは苗字をもじったあだ名で呼ばれるようになったの。みんなもそういう経験があるんじゃないかな。今までとは違う名前で呼ばれる経験。
場所や相対する人が変われば、背負う名前も名乗る名前も呼ばれる名前も変わる。今はSNSがあるから、ほとんどのみんなが経験するごく普通のようなことになっているのかもしれない。けど、中学生の僕には新鮮だった。初めてのことだったから。
大好きな先輩がつけてくれたあだ名だったから、すぐに馴染んで今でも気に入っている。それからずっとそのあだ名を沿っている。今では私をあだ名で呼ぶ人の方が多くなった。下の名前で呼んでくれる人は少ない。だから、ふと小学生のときに出会った友達と駅ですれ違った時に声をかけられると、なんだかこっぱずかしい気持ちとはっとする気持ちを抱いてしまう。〇〇〇、そう呼ばれていた。今の今まで忘れていたんじゃないかって思うくらい。懐かしい自分の名前。生まれたときから馴染んだはずの名前。例えるなら、n回目の初めましてをするような感覚。“また出会えた”って思うんだ。私と私の名前と。


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