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29:正直になろう、そして何もしない

最近下らないニュース解説ばかり書いていて、ちょっとはこちらにも書こうと思って覗いてみたら、なんと最後に書いたのが2023年1月頭で、1年以上放置されているではありませんか。

私のサイトも含めて既に書きたいことは書き尽くしているし、あとは皆さんの実践、というか気付き次第なので、もはや私ができることなど何もないのでありますが、おさらいのつもりで簡単に書いてまいります。

まあ内容についてはラマナ・マハルシ系統のパクリなんですけどね、初見さん。

正直になろう

まずこれ。散々書いてきた気がするけど、まずは自分の感情やら思考やらに正直にならないとお話になりません。

例えば生活保護に関するニュースで「不正受給している奴らはけしからん!」と思ったり喚いたりしているとき、
「自分は正義で奴らは悪だから糾弾してもいいんだ」という思いの裏には
「羨ましい」「自分も生活保護もらってゴロゴロ暮らしたい」という妬みや羨望といった感情があり、
さらにその奥には「金がないと生きていけない」「無一文=死」なんていう恐怖があり、

突き詰めていくと根本には、「『私』という肉体や思考が消えて無くなってしまう『死』や『喪失』に対する恐怖」なんてものがあり、

大抵の人間の場合、この「死や喪失に対する恐怖」が、ありとあらゆる思考や行動の動機となっているのであります。

恐怖が全ての源動力になっているなんて、そら人生が苦しくて当然ですわ。

何もしない

お次はこれ。

本当は上で書いた「恐怖」よりももっと近いところに言葉で表せない「何か」があり、それこそが正直になった場合の「本当のこと」なので、それを認識するというか感じるというか、触れてみましょうというお話。

それで何をすればいいのかというと、「何もしない」これがアンサーであります。

この「何もしない」というのは自分でおこなえる行為だけでなく、あらゆる思考活動を止めるということで、
「あらゆる思考活動を止める」というのは、船場吉兆みたいに頭を真っ白にするということではなく、思考や感情を思考で追っかけない、ということであります。浮かんでくる思考はどうしようもないですからな。

その「何もしない」という状態(というかスタンス?)で、上で書いた恐怖に向き合うというか直接触れてみるというか体験してみると、上の「何か」や「本当のこと」というのが少しは分かるのですが、

こんなこと書いても理解できる人間は1%もいないし気付けるかは本人次第だし、そもそも言語でもって表現するには限界があるので、まあそんな感じなのです。

バベルの塔

そんなわけでおさらいを書いてまいりましたが、私が常々思っており最近強く思うことは、「知識や概念を積み重ねても何にもならない、無駄である」ということ。

当記事でいえば、「そうか!正直になって何もしなければ悟りの境地に至って苦しみから解放されるんだ!」なんて考え、「正直になろう」「何もせずにいよう」なんてやっても全く無駄、ということで、

当記事に限らず、伝統的な宗教や哲学といったものからカルトやインチキセミナーといったものまで、聖典や経典(教典)を読んで理解する、教祖の言動に従う、瞑想やメソッドをおこなう等、
何もかも全て無駄だし、実際無駄で効果無いから次から次へと「悟り」「救い」を延々求め続ける羽目になる、ということは、こういうことに興味ある方なら薄々気付いていらっしゃるでしょう。

「悟り」や「救済」を求めて聖典・経典の理解やら瞑想やらメソッドやら何やらし続けるというのは、丁度神に近づこうとしてバベルの塔を建てているみたいなもので、
神(仏)に近づこうと何をやってもキリがなく、最後には崩れてしまうのがオチなのであります。

なぜそうなるのかというと、それはもろちん思考や知識といった概念レベルの積み重ねだからで、いくらレンガを積み重ねても神(仏)に近づけないのと同様、いくら概念を積み重ねても神(仏)には近づけないのであります。

実際神(仏)の域まで概念を積み上げた人間なんて人類の歴史上おらんでしょう。

※「それは違う!○○様は神(仏)になられた!」なんて反論あるかもしれんが、その「○○様」とやらは十中八九カルト教の教祖だったりする。

なので「悟り」だの「救済」だのといった概念は忘れちゃえばいいし、聖典・経典を読んだり瞑想やったりメソッドやったりすることに少しでも義務感や苦痛を感じるのならさっさと止めればいいし、こんな記事も読んだ端から忘れればよいのであります。

以上、なんかよく分からんことを簡単に書いたけど今回はここまで。

ホンマの真実を書こうとしたら「沈黙」「静寂」でせにゃならん、つまり何も書かない白紙の状態になるので、仕方ないね。

次回の記事も1年後になるかも。

応援、ありがとー