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『マインドフルネス×禅であなたの雑念はすっきり消える』感想文とか

以前Twitterに「感想文を書く」と言っていた本の感想文。


事の発端は、巷に氾濫していた「マインドフルネス」という言葉を聞くだけでも吐き気がしていた私が、本書をナナメ読みしたらマインドフルネスも中々いいじゃないかとなり、感想文でも書こうかということになった次第であります。

その後『神々の指紋』を読んでしまい、『神々の指紋』が強烈すぎて本書の内容が頭から抜け落ちていたのですが、まあ簡単に書いてまいります。

概要

本書の概要を適当に並べると以下の通り。

  • 「マインドフルネス」とはテーラワーダ仏教の「サティ」、「正念(サマサティ)」の「念」のこと。

  • マインドフルネスは仏教に基づくものだが、宗教性が隠されて広まった。

  • ずっと「私」だと思ってきた「thinkingマインド(所謂マインド)」、それとは異なる「もうひとつの私」、マインドをとっ払った後に残るものがマインドフルネス。

  • マインド:映画のプロジェクターとスクリーン。自分が映し出した映画(大抵はホラーor悲劇)に没頭し、映画の中を生きている。それが「普通」の状態。

  • その「映画」から抜け出すのがマインドフルネスなのだが、マインドフルネスな状態というものは空を飛ぶのと同じく、やろうと思ってできるものではない。

  • ただ、禅とかでいうところの「本来の自分」「彼岸の自分」「生まれることも死ぬこともない私」「観自在菩薩」には可能。

  • 禅の「道本円通」などや修行はドラマの2話目。2話目から見ても何のことやら分からない。

  • テーラワーダ仏教のマインドフルネスこそがドラマの1話目。

マインドフルネスと禅の融合

要は

  • 「テーラワーダ仏教のマインドフルネス→大乗仏教である禅」という順番。

  • テーラワーダ仏教のマインドフルネス瞑想においては、客体を観察する方法は詳細に書かれていたが、観察の主体が書かれていなかった。その主体は禅でいう「本来の自分」「彼岸の自分」」「生老病死を超えた自分」である。

  • 禅においては「本来の自分」「彼岸の自分」「生老病死を超えた自分」の知識はあるものの、それを体験する明確な方法がなかった。それが「本来の自分」の認識作用であるマインドフルネス、およびそれを想起させるマインドフルネス瞑想により方法が明確になった。

ということであり、
「自分にはもう何も求めるものがない。あとは座っておくだけだ」みたいな感じで只管打坐しましょう、なんてことが著者の試行錯誤の過程と共に書かれているのが本書であります。

私が本書で気に入った箇所といえば、

  • マインドの本質は「意馬心猿」、走り回る野生馬や飛び回る猿のようなものであり、到底コントロールできないものである。

  • よって、マインドフルネス協会のいう「とらわれ、好き嫌い、認知の歪みなしに観察する」など不可能である。

というところで、巷で流行っている意識高い系がほざいている、吐き気を催すマインドフルネス、いやマインドフルネスとも呼べない「マインドフルネスもどき」が効果がないのは当然のことだと思えるのであります。

※もし意識高い系のマインドフルネスでもう一生大丈夫という人いたら連絡ください。私を納得させられる文章で。
「仏の道」や「神の道」とは「失う道」であり、失う覚悟というのは虚栄心を満たすための意識高い系とは真逆であるから、意識高い系で平安の境地に至ることは絶対にない、と無学な私でも言い切ることができる。

方法は…?

そんな感じなのですが、じゃあ肝心の方法はというと、著者が曹洞宗の僧侶だからからもしれないけど、「ひたすら瞑想」になっているのがう~んとなるところ。

まずは映画の世界に閉じ込められていることを認識し、そこから出ることを目指す。映画に夢中になっているときは身体を忘れているので、身体をしっかり思い出し感じることから始める。
身体の部分にある微細なエネルギーを感じることで、普段感じている身体の表層からさらに深い次元に入っていく。
向こう岸にのみ存在する慈悲を自分の内側で感じることで、此岸から彼岸へのジャンプが起きる。

本書第5章

みたいなことが書かれており、一にも二にも瞑想しようとなっていて、実践編ともいえる『本当の自分とつながる瞑想』においても、タイトル通り瞑想瞑想なのであります。

私的には「『観察』『気付』は普段の生活の中でできるのに、わざわざお膳立てして座っておこなう瞑想なんてめんどっちい。これなら『私は誰か?』の方がいいな」なんて思ってしまったのでありました。

いやそもそも、『本当の自分とつながる瞑想』って、なんか元々つながっているものに対してつながっていないようなニュアンスにとれるんだけど、それは大丈夫なんですかね…?

そういえば私は、瞑想を"やって"いました。
つまり、瞑想している時、「今日の瞑想はうまくいったわ」とか、「いつもはもう少しちゃんとやっているのに、今日は全然だめだわ」という具合に、うまく行ったときは至福で満たされましたが、うまく行かなかったときはそうではありませんでした。

明らかに、自分の本質を得る為に、「私」が「何か」を「やっている」のでした。
パパジは、世界中の国々からやってくる、瞑想の達人たちに会っていましたが、「真実を得る為に重荷を作り出しているだけだから、努力をするのをやめなさい。全部忘れてしまいなさい」と私に言いました。

「君は何かを“得よう”としているね。ということは、本当の自分自身を、本質とは別物だというように考えている訳だよ。本来の自分自身を見いだす為に、何かをしなければならないというのは大間違いだ」と。

パパジが、身体や精神や感情、そして世界に対する瞑想の効用を否定していたという訳ではありません。
彼は「真理はある特定の状態の中にしか存在しない」というように、私たちが限定してしまっていると指摘したのです。
瞑想の状態にあるときだけ真理が存在する、と限定すると、私たちは真実を見失ってしまいます。

ガンガジ『私をやめるのは可能でしょうか』

私としてはこっちの意見に賛成でございますが、まあやり方は人それぞれなので、自分が合うのを選べば良いと思います。

マインドフルネスに至る秘技

そんな感じで、実践方法としては当noteでも散々書いてきた通り、「観察」と「気付き」こそが一番だと私は思うのですが、
いい機会だから皆さんに、私からマインドフルネスに至る秘技を特別に教えることにいたしましょう。

これは「ゆうさくメソッド」と呼ばれている、神々の時代より伝わる秘技であり、方法としては

ゆうさくの顔を思い浮かべて「マインドフルネス感じるんでしたよね?」と唱えることで、涅槃寂静の境地に至るというものであります。

※「ゆうさくって誰」などと言う人間はこの文章を読む資格は無いので、きちんとゆうさくについて学んで出直してくること。

以上、私はやったことないから効果は知らんけど、最後に有料コンテンツ並の秘技を皆さんに伝授したところで、今回はここまで。










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