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『ブッダという男』感想文とか その4

今回で4回目となる『ブッダという男』の感想文。

そろそろ書くのが疲れてきたので、本文について言及するのはこの辺にしておきたいです。(感想を述べたり解説する知識が無いだけだろ)

第三部 ブッダの先駆性

前回のラストと内容は被るけど一応書いておくと、第二部までで、これまでの研究者達は「神話のブッダ」ではなく「歴史のブッダ」を探求してきたけれども、
結局は「差別をしない」とか「平和主義」とか「業と輪廻を否定した」とか、当時のインドの価値観ではありえない「神話のブッダ」を作り上げてきたとのこと。

そして初期仏典によると、ゴータマ君も当時のインド人の価値観とあまり変わらんかった、ということが書かれております。

それじゃあゴータマ君を単なるインド人じゃなくて、仏教の開祖たらしめたものは一体何かというと、

  • 他の沙門集団(六師外道)と違う

  • 宇宙観と解脱

  • 無我の発見

  • 縁起の発見

の主に4つであると説明されているのがこの第三部。

その4つについて、独断と偏見に基づく感想を書いてまいります。

1.他の沙門集団(六師外道)との違い

まずこれ。
「沙門集団」というのはバラモン教の伝統や束縛から解き放たれた沙門の集団、つまり祭祀主義やバラモン第一主義を否定する人たちの集団で、当時のインドには60そこらの集団があったとのこと。

その沙門集団の1つが仏教なわけですが、他の沙門集団とどこが違ったのかというと、初期仏典では他の6つの集団が引き合いに出されていて、違いが書かれているとのこと。

その6集団の主張内容を適当に要約すると、

  • 道徳否定論:業と輪廻の否定。「善行」「悪行」といった行為とその報いは何ら関係ないという主張。

  • 唯物論:我々の個体は四元素から成り立ち、死ねば雲散霧消する。なので死後の世界なんてありえないという主張。

  • 要素論:我々の個体は七要素から成り立ち、それぞれの要素は恒常不変であり互いに影響を受けないという主張。(道徳否定論+唯物論+ジーヴァといった感じ。そういやラマナ・マハルシは「ジーヴァとはマインドである」と述べていた)

  • 決定論:輪廻する回数や受ける苦楽は予め決定されており、何をしても無駄であるという主張。

  • 宿作因論と苦行論:ジャイナ教の教え。現世での苦楽は全て過去世の結果&苦行によって古い業を落として解脱するという主張。

  • 懐疑論:来世はあるのか等の質問に対して「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」と、どっちつかずの回答をするという主張。

こんな感じで、それぞれ初期仏教(ゴータマ君の主張)とどこが違うのかというと、これまた適当に要約すると以下の通り。

  • 道徳否定論:業と輪廻はある。ゴータマ君は生天論や解脱論を説いた。

  • 唯物論:物質要素の「色」だけではない。「受、想、行、識」の精神要素からも成り立っている。「行」の結果として「受」がある。

  • 要素論:互いに影響を及ぼす。「色、受、想、行、識」の五蘊が互いに影響を与えつつ変化しながら存在する。

  • 決定論:決定されていない。善業を積めば来世で天界に再生することも可能。

  • 宿作因論と苦行論:宿作因論については双方の思い違いもあるけど大体同じ。苦行論については、苦行によって業を滅しようとしても無駄であり、知恵によって煩悩を滅することが有効。

  • 懐疑論:ゴータマ君は一切智者であり不可知論者などではない。ゴータマ君が質問に対して黙った(無記)のは、異教徒による間違った質問だったから。

このような違いとなるとのことで、「初期仏教てこんな感じだったのね、今となっては違いが曖昧になっていたり別の解釈されている主張も多いんじゃないの?」というのが正直な感想。

現代における「仏教」

例えば上記の唯物論について、ゴータマ君は「色」という物質的要素に「受想行識」という4つの精神的要素があり、それが五蘊となっていると主張しておりますが、
現代においては、物質は全て原子、ひいては原子を構成するエネルギーから成り立っており、感覚や思考や感情といった精神的要素についても体内神経および脳の電気信号やホルモン分泌にすぎない、これらを物質的要素と定義するなら物質オンリーでないの?となりますし、
死後の世界なんてねーよ!「あなたの知らない世界」じゃあるまいし、という考えの方が優勢ではないでしょうか。

加えて、科学に携わった人が仏教について語ると以下の通り。

(前略)
私は、釈迦という人は、ものすごい天才で、真理を見抜いたと思っています。
(中略)
二元的なものの見方に慣れてしまった人には、一元的にものを見ることはたいへんむずかしいのです。でも私たちは、科学の進歩のおかげで、物事の本質をお釈迦様より少しはよく教え込まれています。
私たちは原子からできています。原子は動き回っているために、この物質の世界が成り立っているのです。この宇宙を原子のレベルで見てみましょう。私のいるところは少し原子の密度が高いかもしれません。あなたのいるところも高いでしょう。戸棚のところも原子が密に存在するでしょう。これが宇宙を一元的にみたときの景色です。一面の原子の飛び交っている空間の中に、ところどころ原子が密に存在するところがあるだけです。
あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。一元的な世界こそが真理で、私たちは錯覚を起こしているのです。
(後略)

柳澤桂子『生きて死ぬ智慧』あとがき
前も出した野辺山天文台にある写真。
光学と電波と、見方だけでこんなに違う。

このように、初期仏教と柳澤氏の内容、どちらが納得できるか、実感として分かるかといえば断然柳澤氏の方じゃないの。少なくとも私はそうですな。これまで散々科学のお世話になってきているし。

だからといってゴータマ君の主張が間違っているというわけではなく、2500年前だか3000年前だか昔のインドと現代を比べる方が間違っている、
ちょうど電子顕微鏡の無い時代に黄熱病の研究をしていた野口英世のようなものでございましょう。(もしくは量子力学を知らなかったアイザック・ニュートンとか?)

そして、野口英世の研究が全て無駄だったかといえばそんなことはなく、ゴータマ君の主張についても今日まで様々に変化しながら(そもそもアナンダやマハーカッサパとかに伝わった時点で変化しているかも)、
本書の言葉でいえば「神話」になりながら、人類の発展に寄与している、もしくは人々の生き方に影響を与えているのではないでしょうか。

「今回で本文についての言及は終わり」とか言いながら全然終わらないじゃないか。
どうしてくれんのこれと思いつつ、長くなったので今回はここまで。



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