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別の「群れ」『かもめのジョナサン』感想文とか その3

前回は人間という「群れ」から抜け出すためには喪失への覚悟が必要とか書いてまいりました。

今回はパート2の感想文。
正直、この章はなんか感想を書きづらいし、書いてもためにならない話ばかり(今までもためになったのかは知らないが)なので気が進まないのだけど、渋々書いてまいります。


ジョナサンはいつ「死んだ」か?

本章を読んでまず思ったのがこれ。ここでいう「死んだ」とは肉体的な意味での死のこと。

パート1の終わり辺でジョナサンは既に老いぼれている描写があり、2人の天使ならぬ「天かもめ」みたいなのに連れられて、『フランダースの犬』のネロの如くお空の彼方に行っちゃうじゃないですか。

その時点で死んだのか、それとも瞬間移動を完成させた時点か、戻ってフレッチャーと会う前の時点か、果てはパート3のラストなのか、流石にパート4のラストでは死んでるよな…などと考えてしまうのであります。

フレッチャーと出会う前の描写に

そして彼はすっかり身についたやり方で自分は骨と羽のかたまりではない、なにものにもとらわれぬ自由と飛行の完全な精神なのだ、と念じた。

『かもめのジョナサン』2章

なんて書いてあるので、やっぱり1章ラストあたりか瞬間移動の時かなあ、なんて思うわけですが、疑問は尽きません。

ここで思い出すのがブローノ・ブチャラティのことで、彼は最初にディアボロと戦った時に肉体的な死を迎えているけど、その後ゴールドエクスペリエンス・レクイエムが発動するまで「生きて」いたので、本書のジョナサンもブチャラティ兄貴みたいなものなのかもしれません。

ジョナサンなのに5部の話題とはたまげたなぁ…

別の「群れ」

そんな下らない話はともかく、本章はジョナサンがお空の彼方のコミュニティ、群れで色々訓練する話になっていて、

この「これまでとは違った(高レベルで神秘的な)群れに属する」という箇所がヒッピーに受けた原因、また村井秀夫をオウムに行かせた原因なのだろう、と私は考えております。

『イージーライダー』とウッドストックが69年、本書がアメリカでヒットしたのが72年、あさま山荘事件が同じく72年、
ベトナム戦争終結が75年、最後のアメリカン・ニューシネマである『ディアハンター』と『地獄の黙示録』が78年および79年なので、

本書がヒットした時は既にヒッピーのコミューンなんてものは衰退していたと思うのですが、その当時は生まれてもいなかったので分かりません。

ただ言えるのは、

「チャン、ここは天国なんかじゃありませんね。そうでしょう?」
長老は月光の中で微笑した。
「かなりわかってきたようだな、ジョナサン」
「うかがいたいんですが、いまの生活のあとにはいったい何がおこるのでしょうか?そして、わたしたちはどこへ行くのでしょう?そもそも天国などというものは、本当はどこにもないんじゃありませんか?」
「その通りだ、ジョナサン、そんなところはありはせぬ。天国とは、場所ではない。時間でもない。天国とはすなわち、完全なる境地のことなのだから

『かもめのジョナサン』2章

とあるように、天国なんていうものは「場所(もろちん群れも含む)」や「いつか」などというものではなく、「境地」の話だとちゃんと書いてあるのに、何でヒッピーや村井はそこんとこ取り違えちゃったの?と思わずにはいられません。

要は、今のコミュニティに不満があるなら別のコミュニティに移るのも大いに結構だけど、

  • コミュニティがあなたを「別の何者か」にしてくれることは絶対にない。

  • ましてやコミュニティがあなたを「天国の境地」に連れていってくれることなど絶対にない。

くらいはちゃんと自覚しておかないと、結局コミュニティの中で「自分」を見失い、移る前と何一つ変わらない、というオチになるのであります。

危険な宗教の見分け方

そんなわけで自分自身の意識というか見方が変わらないとどうしようもないということなのですが、
「移る前のコミュニティと同じ」というならまだマシな方で、一部の人間の欲望を満たすために他を犠牲にする「狂気のコミュニティ」が世の中にはワンサカある、というのは皆さんご存知の通り。

別にオウムみたいな極端な例を挙げずとも、ブラック企業もオウムと同質のものだし、ブラック企業と言われていない「普通の会社」についても、単に本人達が気付いていないだけで全く同質で、程度の問題だけなのです。

そんな話は脇に置いといて、当感想の最初に書いた通り、本書を語る際に外せないのがオウムの話で、
偶然『危険な宗教の見分け方』なんていう上祐史浩と田原総一朗の対談本を見つけたので目を通してみると、やっぱりジョナサンのことがチラと出ているじゃありませんか。

上祐 (前略)つまり、宇宙開発に携わることは手段であって、目的は「自己の価値を最大化すること」だったんです。
田原 自己の価値を最大化?
上祐 自分を、なるべく重要な存在だと思うことができること。
田原 ワン・オブ・ゼムではなくて、特別な存在になりたいということ?
上祐 そうとも表現できると思います。だから、それ(注:上祐が進んだ道)が宇宙科学じゃなくてもよかったのかもしれません。
田原 それは、村井秀夫が言っているのと同じ、『かもめのジョナサン』だね。ジョナサンはただのかもめじゃなくて、かもめの中の特別な存在になりたい気持ちがあって、修行僧のように飛ぶことに没頭した。
上祐 ええ、同じような気持ちだったと思います。(後略)

『危険な宗教の見分け方』

えージョナサンに「特別な存在になりたい気持ち」てあったの?読む限りでは飛びたいから飛んでいただけじゃないの?とは思いますが、
「自己の価値を最大化」ってつまるところ「エゴの肥大化」ってことじゃないか。

結局はエゴを肥大させる道具に成り下がっているところ、そう思われても仕方ない排他性が随所に見受けられるところが、本書に対して五木寛之氏が抱いた違和感なのでしょう、多分。

あと「特別」といえば、人間なんて誰でも特別な存在でいたいという欲望はあるだろうと思うのですが、
その一方で、誰もが異なる特別な存在であるとか、宇宙レベルでみるとジェフベゾスも西成のオッサンも大して変わらないどんぐりの背比べだ、などという思いもあるわけで、

そんな「心がふたつある~~」状態の主語、そう思っているのは誰なのかをまずは検証すればいいんじゃないでしょうか。

そういう「内観」みたいなのってオウムの修行過程の中では行われなかったんかな、やっていたら皆の洗脳が解けて教団が自然崩壊していたかも、などと思いつつ今回はここまで。

冒頭で「渋々書く」とかいいながら結構長くなったけど、次回はどうなるか全く決まっておりません。











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