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28:「幸せ」とは何か

あけましておめでとうございます。

最近は下らないニュースばかり書いていた(というよりそっちの方が書いてて楽しいので筆が進む)ので、こちらの更新が滞っておりましたが、久々に書いてまいります。

そんな今回のネタは「幸せ」とは何かについて。

これまで散々「苦しみから解放される方法」なんて書いてきたので、逆の「幸せ」について私の思うところをちょっと書いてまいります。

「幸せ」とは脳の一状態

普段皆さんが使われている「幸せ」というものは、何だかんだと意見や議論を重ねてみたところで、一言でぶっちゃけてしまえば「脳の一状態」、これに尽きます。

金や物や肩書をゲットした、排泄した節句酢した、「悪い」状況が「良く」なった等の外部の事象に対して脳が反応し、セロトニンとかドパミンとかがドバドバ出てきて、そのプロセスを「幸せだ」と感じる、これが紛れもない客観的事実でしょう。

これ自体は別に悪いことでも何でもなく、脳を持った生命体、カンブリア紀のピカイアかミロクンミンギアか何か分からんけど、が誕生してから脈々と受け継がれている現象に過ぎません。

ただ、無駄に脳が発達してしまった人間は、思考でもって「悪い」ことや苦しみから過剰に逃れようとするのと同時に、この「幸せ」状態を貪欲に追い求め、

言葉を変えれば「生理現象」を「複雑な脳信号」でもってどうにかしようと躍起になり、

やっとこさ「幸せ」状態になってもその状態は単なる一時しのぎで終わり、さらなる別の「幸せ」状態をもっともっとと追い求めてしまうという、キリがないことを延々と繰り返しているのが現状でしょう。

「幸せ」を求め、やっとの思いで「幸せ」を掴んでもその「幸せ」は崩れ、また「幸せ」を追い求めるという堂々巡りになってしまう…

「幸せ」を求めた結果が賽の河原みたいな「堂々巡り」だなんて、何とも皮肉な話じゃございませんか。

本当の幸せとは何か

それでは脳の一状態ではない「本当の幸せ」というものは存在するのか、という話なのですが、
存在するにはするけど、思考ではつかまえられない
というのが正直なところ。

思考が苦しみの原因だとこのnoteで散々書いてきましたが、そんな苦しみの根源である思考に、本当の幸せというものを認識できるでしょうか、いやできない(反語)。

たとえば、「覚醒の本質は存在であり意識であり至福である」なんて言葉を読んでも、頭の中でゴチャゴチャ考え「なんだこれこれ意味不明だよ」となるだけで、至福なんて味わえないでしょうし、

万が一理解してちょっと触れることができたとしても、死ぬまでずっとその至福が続くかというと、そんなことないでしょう。

そんなわけで、頭で「至福の状態になろう、幸せをつかまえよう!幸せになりたい!」なんて考えても無駄であり、
金を稼ごうがモノや肩書を得ようが節句酢しようが瞑想しようが変なメソッドをしようが、全て無駄なのであります。

幸せになる方法

じゃあどうすれば良いのかというと、本noteで書いてきたように、思考を原因とする苦しみを減らしていけばよい、
苦しみが減ると、自ずと(元々あった)幸せが現れる
ということなのであります。

そのための本noteであり、幸せを追い求めて散々苦しんでいると、
「あれ、今、本当の本当に幸せならば、何も求める必要ないじゃん。俺って一体何を求めているのだろう?」
なんて気付きます。

以上、新年一発目でしたが、今回はここまで。

応援、ありがとー