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ラマナ・マハルシの『私は誰か?』解説その11

※タイトル写真はアルナーチャラ(大嘘)の道端に咲いてた紫陽花。


今回は問23と問24。
この2つは書きたいことあるからタフネタ抜きで書けます。

でも私、タフって序盤(アイアン木場戦くらいまで)と20巻周辺の露土馬&朝昇と、『TOUGH』20巻のタフ対おとん辺りから幽玄編最終話までをナナメ読みした程度のニワカなんですよね。

こんなニワカがタフネタを使って喜ぶのはルールで禁止スよね。
(真我の声「タフネタはルール無用だろ」)

ハッ!…(悟った音)
…やっぱ怖いスねタフネタは。

問23 解脱を願う者にとって、本を読むことにはどんな価値があるのでしょうか?

そんな戯言は置いといて、タフ同様この冊子も本といえば本なのですが、回答は以下の通り。

  • 自己探求によって心を静かにすれば、本を読む必要はなくなる。

  • どうして本を読むことで自己探求ができるんだい?「私は誰か?」と主体に問いかけることでしか自己探求はできないのに。

  • 5つの鞘(要はマインド)は最終的に棄て去られるものなので、それを書物の中に求めるのは無駄である。書物で覚えたことも全て忘れることになる。

これは皆さん経験されたことある通り、本などを読んでもただ余計な概念が上塗りされるだけで、相変わらず何も変わらないということ。

そもそも、他人の書いた文章を読み、頭で幼稚な理想化しても無駄、「幸せになって『嫌なこと』など起きなくなる」なんて考えていたら大間違いであるし、本当の「宝」は本やネットや他人の意見などではなく、あなたの内にあるのであります。

まあ、こうやって書いても伝わらないだろうし、趣味で読みたい人は読み続ければ良いと思いますが、本の中に何かを求めている限り自分の内にある「宝」は決して見つからないとだけ申しておきます。

あと、私的には「忘れる」というよりも、必要性がどんどん減少していくという感じです。「へーそうなのかい。でも本なんていらないわ(笑う)」みたいな。「あれをしろこれをするな」なんて本は特に。

あと『ニュー・アース』みたいな本とかは「なんでこんな当たり前のことを仰々しく書いとんや」みたいになります。

これは前にも引用したラマナがパパジに言った通りでしょう。

「列車はあなたを目的地まで連れて行った。もう必要なくなったから、あなたは降りた。列車はあなたを、あなたが行きたかった場所まで連れて行った。牛車も同じだ。馬車はあなたをラマナシュラマムまで連れて行ったが、あなたは降りた。もうあなたには列車も馬車も必要ない。それらはあなたをここへ連れて来る手段だった。今あなたはここにいるが、それらはあなたにとって何の役にも立たない。それがあなたのサダナに起こったことだ。あなたのジャパ、読書、瞑想があなたを精神的な目的地へ連れて来た。それらはもう必要ない。あなた自身が修行をやめたのではなく、それらは目的を果たしたので、自らあなたから去ったのだ。あなたは到着したのだ。」

『Papaji Interviews excerpt』David Godman

まぁその現れかたは人それぞれでしょう。「こうならなければならない」なんてものは無いですからな。

悟りはルール無用だろ。

人生の処方箋

「ルール無用だろ」で思い出したけど、上のガンガジの

私はそうなのだ、というふうに認識をし始め、教会やスピリチュアルな先生、テレビの悩み相談、などというような援助団体が語っている、『どのように生きたらいいか』という処方箋に従って生きるようになります。
誰かが教えてくれる『どうすればいいか』に従って生きるのでは、まったく子供と同じです。
ですから、成長なさることです。
そして一体どうしたらいいのかを、誰にも言ってもらわないことです。
そうしたとき、あなたは、あなたの本質である明晰さ、静寂な意識へと引き戻されます。そこには、イエスがそう言ったとか、ガンガジがそうしろと言ったとか、ラマナがそう言った、というような処方箋はありません。

私があなたを静けさへと導く目的はそれです。

するべきだ、するべきではない、などというおしゃべりの根底には、いつも必ず、静寂が在ります。
その静寂はあなたご自身の『開かれた意識』です。
この静寂は、それ自身に目覚めている、あなたの本質です。

すべきであるとか、すべきではないということとは関係のない、そして、すべきである、すべきでないということをも包み込んでいる、愛そのものです。

『自由に生きる、とは』ガンガジとの対話

という言葉が分かれば、私の書いていることも分かるでしょう。

要は、
「あれをすべきだ、これをすべきでない」とかいって処方箋を求めている「私」こそが、あなたを苦しめている根本の原因である。
処方箋なぞ捨ててただ恩寵にまかせればいい、ということなのですが、分かるかな?

まぁ、処方箋を求めるのも恩寵かもしれんけど。

問24 幸福とは何でしょうか?

問24は皆さん興味津々なネタであろう「幸福とは何か?」について。

  • 幸福とは真我の本性そのもの。

  • 世界のいかなるものごとの中には幸福はない。我々は無知ゆえにものごとから幸福を得るものだとカン違いしているが。

  • 「私」が根本の思考が静まり、マインドが真我の内にあれば(つまり世界が消え去ったとき)幸福を感じる。

  • 「良いことが起きた」「願いが叶った」などと喜んでいる場合も、実は、マインドが真我の内に入っている状態なだけ。

  • 逆に、「私」という思考が湧き上がりマインドが真我の外に出ていくと、世界が現れて不幸を体験する。

  • じゃあ最初からマインドを真我の内にとどめておけばいいじゃん。そのための自己探求、そのための「私は誰か?」である。

というのが回答となっており、かつて私も下記のような記事を書きました。

上の記事を要約すると、

幸せなんて「脳の一状態」に過ぎない。ただし一時的な状態なので堂々巡りとなる。
→本当の幸せなんてものは思考では認識できない。この「世界」の中で追い求めても全部無駄。
→思考を原因とする苦しみが減ると、自ずと元々あった幸せが現れる。

上の素晴らしい記事

この「思考を原因とする苦しみ」を減らす方法こそが自己探求だというのは、賢明な読者の方ならお分かりの通り。

『覚醒の炎』読む1年半以上前にこんな記事書いているなんて、一番戸惑っているのは俺なんだよね。

また、パパジ的な表現だと以下の通りとなります。

空とは単に想念と欲望の不在にすぎない。肩に重荷をかついでいれば、安らぐことはできない。例えば百キロの重量をかつぎながら、それから逃れたいと願っているなら、それが重荷だ。それを降ろしたからといって、あなたは何かを得るわけではない。以前にはなかった新たな状態を達成したわけでもない。ただあなたを苦しめていたものを捨て去って、重荷を背負う前の本来の状態に戻っただけなのだ。この思考過程、この重荷とは、私たちがいつも抱いている欲望のことだ。
私はあなたにこの厄介な重荷をどうやって降ろすかを指し示している。「考えているのは誰か?」と尋ねることは思考過程を止め、あなたは本来の自己、自然な状態、空なる純粋な源に戻る。これがあなたの本性だ。あなたはいつも「それ」なのだ。そこに心は入りこまない。時間も、死も、恐れも入りこまない。これが自己本来の永遠の本性だ。そこにとどまりさえすれば、恐れは消え去る。そこから一歩外に出れば、このサンサーラ、世界という現れに足を踏み入れることになる。そして絶え間ない災難に巻き込まれるのだ。

『覚醒の炎』

幸福の素などない

こういうことを書くと、「世界が真実である」とカン違いしている人々は
「嘘だ!俺は○○さえ手に入れば幸せになれるんだ!!」
「俺が今不幸なのは△△のせいだ!!」
などと言うでしょうが、そういう人は概ね以下の状態でしょう。

心は忙しくしていたい。わかるだろうか。それはあなたのためにある目的地を定め、それからそこに到達しようと試みるのだ。それはつかの間の至福状態をあなたの目的地として定め、それからそれを達成するためにあなたに努力を強いる。そして何か良いもの、何か霊的なことを達成したと考えるのだ。これはただの先延ばしにすぎない。あなたはただ悟りを次の年、次の生に先延ばししているだけだ。

『覚醒の炎』

このパパジの言う「先延ばし」の意味、分かる人には身に沁みて分かることでしょう。

別にモノや肩書等の形を求める人に限らず、「悟り」「解脱」「幸福」を求める人間も同様で、求める限り苦しむ羽目になるのですが、それも恩寵なのでいいんじゃないでしょうか。

その典型的な具体例が以下の引用。

通常、幸福の感覚はどのようにして現れるだろう?それはある特定の欲望が満たされた瞬間に起こるのだ。
あなたは「隣の家の人がメルセデスの新車を予約したばかりだから、私もそれが欲しい。海岸沿いの新しいマンションも購入したい。これらが私を幸せにしてくれるだろう。なんとしてもそれを手に入れよう」と考える。
(中略)
ついに新車は購入され、あなたは通りにそれを駐車し、誰もがそれを褒め称えるのだ。あなたの家の前の新車を見て皆が幸せになる。
この過程はヨーギ(行者)が至福に達するのと同じものだ。ただ欲望とその目的地が異なるだけだ。そこには至福に満ちた状態への欲望がある。
(中略)
さて、この幸福はどこから現れたのだろう?体験者は体験する前も、体験の間も、体験の後も同じだ。そこには何の変化もない。車は鉄やゴムなどでできている。それが一つの機械として製造される過程で幸福が加えられるわけではない。あなたがこれらの鉄やゴムを全て購入したとき、幸福はあなたのものとなるのだ。実際には何が起こったのか?新車を購入したことが、どのようにしてあなたの中に幸福の感覚を生み出したのだろうか?

『覚醒の炎』

その答えはもちろん、「新車を手に入れたから」などではなく、「新車が欲しい…イッパイイッパイホシィィイイイイ!!!!」という欲望が消えたから、
つまり、マインドが真我に還って欲望が不在になったから、であります。

このように、「幸福の素」などなく、「『私』の欲望がなくなったから元々あった幸福が現れた」が実のところで、

しつこいようだけど、マインドによって反映・投影され、そしてマインドがいちいち反応しくさる「世界」の中に幸せを求めても無駄で、世界、その根本である「私」を消すのが一番の近道?なのであります。

よって、「もう欲望を追いかけて振り回されるのはこりごりだよ~」という人は自己探求によって「私」を還るべきとこへ還し、常にここにある、「世界」などに左右されない、無条件の絶対的幸福に気付きましょう。

まだそんな風に思えない人は、肉体的な死を迎えるまで思う存分欲望を追求すればよろしい、物質的にも精神的にも、ということで今回はここまで。

<参考文献>