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『ブッダという男』感想文とか その1

Twitterで宣言した通り、これから清水俊史氏(以下「著者」もしくは「清水氏」とする)の著作である『ブッダという男』(以下「本書」とする)の感想文みたいなものを書いてまいります。

当初はざっとナナメ読みした後に短い感想文を書いてお茶を濁そうと思っていたのですが、著者が本書を著されるにあたってかなり調査されたことが見て取れたので、
「此方も読み込まねば…無作法というもの…」という感じになり、当然著者の足元にも及ばないけれども、本書をそこそこマジメに読んだ上で当記事を書く運びとなったのでありました。

大前提

そんな当記事を書くにあたっての大前提を、まずは以下に並べておきます。私の文章をよく読まれている方ならまあ予想できることが書かれているのですが、一応書いておきます。

1.パーリ語分からない

本書はパーリ語文献を基に著されているのですが、以前『歎異抄』の記事でも書いたように、私の仏教に対する専門知識(何をもって専門知識とするかは置いとく)なんてものは、東大にてイン哲の基礎授業を齧った程度、しかも二日酔いの頭で居眠りしながら齧った程度のものであり、
当然のごとくパーリ語なんてサッパリ分からない、いやパーリ語どころか初期仏教がどっちの方角を向いてるやら皆目検討がつかないという体たらくなのであります。

要するに、口だけは達者なトーシロが書く感想文なので大目に見てちょ、ということであります。

2.知識より効果

そんなトーシロがこんなこと言っても言い訳にしか聞こえないのですが、私が常々重きを置いているのは、「それは本当に正しいのか」ではなく「それは果たして効果があるのか」の方であります。
つまり知識ではなく実際の効果、「名」より「実」の方を取るのが私の方針であり、なにせ卒論からしてそんな感じやったからな。

なので、こんなこと書くと元も子もないのですが、「本当のブッダがどういう人間だったのか」「それは確かなのか」といったことよりも実利の方が大事なのですが、本当のブッダがどんなのかについても興味があるので、本書を読むことになった次第であります。

あと追記しておくと、ここでいう「効果」「実利」というのは、金がドサッと入ってくるとか出世するとかキラキラ☆ハッピーになるとかそういうことではなく、何らかの「気付き」を想起させるものかどうかということ。

とはいえ、いきなり仏教から外れた話になるけど、

真我は五つの鞘※の内にあるが、書物はその外にある。真我は五つの鞘を棄て去っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物のなかに求めるのは無駄なことである。いずれ学んだことをすべて、忘れ去らなくてはならないときが来るだろう。
※五つの鞘:なんか「食物、正気、精神、知性、至福」という人間を構成する5つの要素。調べてもヨガのサイトしか出てこない。五蘊みたいなもんだと思えば良いのでは…?

ラマナ・マハルシ『私は誰か』問23より。注釈は私。

というラマナの意見に同意するし、本やら何やらを読んで知識を蓄えたからといって根本的な変化には至らないというのは、私自身が経験してきた通りです。

3.件の騒動について

話がズレはじめたので元に戻すと、本書を知ったキッカケは、本書「あとがき」に記載された「件の騒動」がTwitte等のSNSで拡散され、私の耳にも届いたというもの。

何も知らない人に騒動について簡単に述べると、2021に発刊された『上座部仏教における聖典論の研究』という本が元で、2017年頃から著者が某東大教授から様々な嫌がらせを受け、出版社も異例の声明文を発するといった、非常に殺伐としたものでございます。

私も上記声明文や佐々木閑教授の評論文『ブッダゴーサの歴史的位置づけをめぐる馬場紀寿氏と清水俊史氏の論争』を読み、「さる先生」て酷いやつだなーなんて思ったクチで、本書について書くならば不可分である本件についても書かねばと思い、最後あたりに私なりの考えを書く予定であります。

まぁぶっちゃけてしまうと、こんなの単なる俗物の野次馬根性に過ぎないのでありますが。

4.「ブッダ」という呼称について

最後に本書のタイトルにもなっている「ブッダ」という呼称について。
これは私の勝手な思い込みおよび判断でありますが、「ブッダ」と聞くとどうしても手塚治虫の方を連想してしまうし、「シッダールタ」ではヘルマン・ヘッセの小説を連想してしまうし、だからといって「ゴータマ・シッダールタ」と毎回フルネームで呼んでいては長いし富野アニメみたいなので、こっからは「ゴータマ君」と呼ばせていただきます。

親しみやすそうでいいじゃありませんか(自己弁護)

本書の概要

そんなわけでお次は本書の概要。

本書を一言で表すならば、皆さんが普段思っているだろうけど口に出さないこと、「ゴータマ君は本当に現在言い伝えられてる通りの人やったんかいな?」という疑問に対して、著者がパーリ語の文献を元に解説したものとなっております。

流れとしては次の通り。

第1部:ブッダを知る方法

第1部は導入部。

歴史のブッダ:仏典から「常識外」の記述や後代の加筆を廃して復元しようとしたゴータマ君像。
神話のブッダ:仏典上で神通力とか使うバビル2世みたいなゴータマ君像。

これらゴータマ君像についてと、初期仏典をどう読むかについて、あらためて問い直してみようみたいなことが書かれています。

第2部:ブッダを疑う

第2部では「果たして現在巷で流布されているゴータマ君像は果たして正しいのか?」という問いについて、初期仏典を基に著者が考察しているものになっております。

  • 平和主義者だったのか?

  • 業と輪廻を否定したのか?

  • 階級社会を否定したのか?

  • 男女平等を主張したのか?

主にこの4つから成っており、読んでみると、大なり小なり疑問を持っていた人は「やっぱりな(レ」と思ってしまうこと請け合いであります。

逆に仏教に対して無知だったりゴータマ君を完全無欠の聖人と崇め奉っている人は「へぇっ!?ゴータマ君ってそーなのー?」と思ってしまうことでしょう。

3部:ブッダの先駆性

前部を受けて「ゴータマ君が当時のインド人と大して価値観の変わらない男ならば、じゃあ何でゴータマ君は歴史に名を残したのさ?」という疑問に対する著書なりのアンサーが書かれたのが第3部。

  • 仏教誕生の思想背景

  • 六師外道とブッダ

  • ブッダの宇宙

  • 無我の発見

  • 縁起の発見

という区分けがされており、当時のインド思想とどう違うのかがそれぞれ説明されております。

概要についてはこんな感じで、今回はここまで。

次回からは感想を色々書いてまいりますが、どんな感じで書くかまだ全然決まっていないのでいつになるか不明かも。

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