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人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても


こんばんは、戸田真琴です。

日頃より、このnoteや私の参加した作品、執筆した記事等、気に留めていただいているみなさん、ありがとうございます。

先月から始めたマガジンも、たくさんの方に購読していただけてとっても嬉しいです。大きな本の作業も終わって、日記のように日々のことを話していけたらと思っていますので、これからもよろしくお願いします。


さて、みなさんに嬉しい報告があります。

InstagramとスタッフTwitterでは先にご報告させていただきましたが、自身にとって二冊目の書籍の出版が決定いたしました。

タイトルは、『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』

このタイトルにピンとくるあなたのために書いた本です。

そして、処女作『あなたの孤独は美しい』では意識して一文一文をみじかく、どんな人でも読みやすいように、と心掛けていましたが、今回はもう少し、いつも書いているここでのnoteに近いような、あるがままの文体をなるべく崩さずに書き下ろしました。要は、私らしいなと思える本になりました。

角川書店さまより、2020/3/23公式発売です。



これからしばらくの間、新しい本のことを知っていただきたく、気に入っている箇所をいくつか試し読みとして掲載しようと思っています。

ぜひ読んでみてもらえたら嬉しいです。

本日は、第三章「私は私のままで、あなたはあなたのままで」より、

『光になるしか方法がない』という一節を掲載します。



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 光、ばかりを撮っていた。携帯電話のムービーモード、趣味で始めた8ミリフィルム、記憶の中の風景さえも、眩しいものを追っている。夜勤のコンビニバイトから帰るローカル線の窓にだって、目覚めのカーテン越しにだって、眠らない街の風俗店のネオンライトにだって、ただ眩しさだけを感じていた。
 撮りたいものは他にない。8ミリフィルムを現像する完全暗室の中、心の底からそう思った。私はこの世界がたぶん本当はちゃんと嫌いで、もう何も見たくないと思う理由が山ほどあって、それなのにどうしてここで生きることを眩しいことだと、綺麗なことなのだと思う日がまだあるのだろうか。
 それがずっと不思議だった。不思議で不思議で仕方ないから、眩しいものだけを撮っていた。この世界が眩しいことが、こんなに残酷なことだなんて、きっと君は知らないだろうね。楽しそうに生きている、ように見えているすべての人に思う。私はもう生きていたくないと思う夜がいくらでもあるのに、それでもこの世界のことを見続けなければいけないと、どうしてそう思うのだろうか。

 高校生になるにつれ、視力がどんどん落ちた。頑固だったので、駅の乗り換えの電光掲示板が見えなくて電車を間違えるまでは、ほとんど見えずとも裸眼のまま過ごした。あんまり見えないまま生きるのは、きれいだ。雨の日の通学バスの結露で歪んだ街の明かりも、ハレーションしたように伸びていく街灯も、ミネラルウォーターのペットボトルをベコベコに潰して水越しに覗く光も全部、見えすぎなくて、きれいだった。
 本当は全部光なんだよな。目に映るものすべての、知りえなかった正体を知る。
 嫌いな人も、好きな人も、みんな光のもとで生きていて、その魂もきっと、ずっと目を悪くしたまま見つめていられるならば、生きているというだけで等しくぼうっと光っている。あれが嫌いとか、あれが汚いとか、あれは噓とか、あれは卑しいものだとか、そんなふうに選り好みしてしまうのは、きっと見え過ぎているからなのだろう。
 この世界は、ちゃんと見つめるにはあまりにつらい。調和もくそもない異素材同士をベタベタと貼り合わせ、ほつれたところをまた別の素材で無理やり補修して、縫い目の間から何人ものマイノリティを零しながら、たくさんの犠牲を無視しながら、無理やり回っている。ものすごい速さで。

 それでも、何も見ようとせず、何も感じようとしないのならば、もったいないくらいにこの世界には美しいものがあるのだった。

 本当は、もう少し程よい解像度で、この世界のちょうど素敵なところだけを見ながら生きていけるのなら、私もきっともっとハッピーな生き物になっていたと思う。誰かに優しくするには、余計なものが見え過ぎている。
 高校の進路調査票に、「いい人」とだけ書いた。
 それ以外になりたいものなどなく、そんなものにもなれない自分に、本当に嫌気がさしていた。
 人に優しくするための最良の方法が、いつもわからない。友達の相談に乗って、それを解決するための方法を必死に探して事細かに説明をしても、そんな現実的なことじゃなくてただ慰めてほしかっただけだと言われてしまう。
 塾に通い詰めている友達よりもテストの点数がよかったことで、とても悲しい顔をさせてしまったから、勉強するのはやめてしまった。お母さんの宗教を笑顔で一緒に信じてやることもできない。祈りにはなんの意味もないのだとずっと昔に気づいてしまった。ただ友達になりたかったのに、ただの友達にさえなれなかった、そういう人がたくさんいた。普通の優しさがわからない。ただ誰かに優しくしたいといつも願っていたはずなのに、私が生きているだけでそれが嫌だと思う人がきっといるのだろう。
 物事の幸福な側面を見て、それを疑いなく愛し、他人にちゃんと、その人に届く種類の優しさを渡すことができたら、どれだけいいだろうと考える。
 お父さんとお母さんにはずっと、意味不明で理解不能なわがままな子供だと思われている。お母さんが私の言動を理解できず、「あなたの育て方を間違えてしまってごめんね」と言いながら泣いてしまったことがあった。
 私は何を言われているのか一度には理解できなくて、ただどうすることが今お母さんと、この世界と、私自身に対して同時に優しいことなのだろうと考え、こう返した。
「おかあさん、私は間違えられてなんかいないよ。私は今にきっとすごい人になる、私のことを育てたことを誇らしいと思う日が来るよ。だから泣かないで」そんな保証はどこにもなかったけれど、今誰のことも失敗作にしないためには、私がこれから、誰よりも強く光るしかないのだと思った。
 全然感性がそぐわない、今のままの私の良さはわからないお母さんやお父さんでもわかるくらい。誰も何も言えなくなるくらいの強さで私自身が、光るしかやり方はないのだ。今まで優しくすることができなかった、すべてのものにいつか優しく仕返すことができるくらい、正しい人になりたいと願う。

 多くの人に「優しさ」として受け取られる優しさと、本当に相手とこの世界のためをどこまでも思いやって捧げる優しさは、悲しいことに同じではない。
 失恋した人に、「女なんて星の数ほどいるさ」と歌うJ-POPが慰めになることもあるけれど、その人の失った人は代わりのいない、かけがえのない人かもしれない、という可能性も想像したとしたら、そんな軽い言葉で救えるわけがないと思ったりもする。
 プレゼントだって、自分があげたいものをあげることが優しさか、あるいは相手の欲しがっているものを調査して買うのが優しさか、あるいはギフトカードや現金の方が確実に喜ばれるから優しさなのかもしれなかったりもして、正解なんていつもわからない。受け取る人の数だけ優しさの正解があり、それさえもその人や周りの環境によって日々変わっていく。
 私の優しさはわかりにくく、そしてまわりくどい。相手のことを裏の裏まで想像しすぎて、本当はもっと手前の方で思考停止しておいた方が良かったりもするのに、最後には何が正解なのかわからなくなって結局何もしてあげることができなかったりもする。
 だけど、同じように考え過ぎてしまう人にとっては、私たちが普通の優しさになったりもする。私は、いつか本当に正しい人になるまでは、私の担当する種類の優しさを、ちゃんとそれを必要とする人に対して渡したいと願う。
 それが、今の私にできる「いい人」への唯一の道なのだと思うから。



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ありがとうございます!助かります!