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賛歌/上映最終日の夜に

2019年に監督した、『永遠が通り過ぎていく』という映画が、昨日まで吉祥寺の映画館でかかっていた。3週間。もともと仕事が入っていた日以外は毎日劇場に行って、ゲストを招いて、話した。そのあと物販を買った人にサインをして、ひとりひとりと更に話した。人と出会って対話をすることは、自分の銀河とは別の銀河を覗き込む行為だから、ずっと脳がチカチカした。みんなぜんぜん違うんだ。しかも、それがそれぞれすごくよくて、本当に私が今ものづくりをしているのは、たまたまなんだな。と思った。卑下しているわけもなく、たまたま言葉という表現と相性が良くて、映像と、そこでしか使えないリズム感と、瞬き方を選ぶセンスと、それらを編み上げる才能が、未だ荒削りだけれどあって、本当にその全部がたまたまだから、君の魂の光り方は私が代わりに言葉や映画にするし、それを、君の光を照り返すようにして伝えるよ。と、心から思った。映画は、私が思っていたよりもずっと多くの人と心の奥深くで対話してくれたし、その中で見えるその人自身というものは、この社会が想定しているよりもずっとずっと眩しい心を持っていた。やっぱり、観客を見縊るような作品は作ってはいけないんだ、とあらためてちゃんとわかった。君はもっと感じることができるのだということを、作品を作る側が信じなくてどうするんだろう。信じてみて、すべったとして、それは作った側が傷つくだけだし、傷なんて治るんだから、やっぱり怪我する可能性があるとしても、観客を信じた方がいい。

映画を上映する日々の中で感じたことを発端に、そろそろちゃんと書いておかなければいけないな、と思っていたことを、エッセイにして、メディアに掲載していただいた。


これを読んだ人の引用RTの中に、家庭生活に追われている女性の方のコメントがあった。育児と家事と雑事、日々家のことで追われていてくしゃくしゃになった心の奥に水を与えられたような気分。というようなことが書いてあった。ほとんど一人で子供を育てている友達や、親の介護で自由な時間が少ない人、極端な親の元で行動を制限されながら生きている未成年や学生の方たち、心を誤魔化しながらやりたくない仕事を続けている人、さまざまな人たちの、生活、と、その人本来の心、のことを思う。

君が今どんな暮らしをしていても。それが君にとって決して崩せない枠組みだとしても、映画はそれを超えてあなたに逢いたがってしまう。心だけは私が奪い去りたいし、君を、君の良さというものを、もしも誰かが作った箱と同じサイズに無理やり収めておかなければならないのだとしたら、盗みの代わりに、そこには適当なダミーでも置いておくよ。てきとうにつくったおもちゃの宝石さ、君の輝きには叶わないけどけっこうかわいいもんだし、きっとばれない。だって、君の魂の本来の苛烈さを、その箱を作った人/世間/社会は知らないんだ。ばれるわけない。本当の宝石は私が盗んだ。汚れていたことも忘れるくらいぴっかぴかに磨くためにね。
君が今どんな遠くに住んでいても、そこに電車もバスもなくても、門限が8時でも、家から一歩も出られなくても、いつか絶対にそこまでいくよ。私ほんとうに、君のためならなんでもする。

Hymne à l'amour.
愛の賛歌っていう歌がある。
あれは悲しい愛の歌だ。
昔。2017年くらいかな。その時胸にあった自分の愛を、とうとう空に返さなければならないな、と感じていたときに、書いた詩がある。盛岡駅から、行ったことのない方角のバスに乗って、何もない畑だけの道をずうっと走っていた真っ昼間のこと。空が世界の半分以上でさ、ほとんどで、逆に星空みたいで。
ポエトリーリーディングのような速さで湧き出た詩。「ミルキーウェイ」。あれが私の愛の賛歌だったんだ、っていうことに、最近気がついた。


私は、君の魂が、行くべきところへ行きたいと、今もほんの少しでも思うのならば、それが死なないように、殺されないように、欲を言えばもう少しまた、瞬いて、君が退屈しないように、君の目が輝くように、祈りを超えて欲望する。そのためなら、私はどんな配役でも受けよう。

私の言うことが信じられないのなら、目の前で魔法を使って見せましょう。そのせいで魔女狩りにあうのだとしてもきっといい。
君が見たいと言うのなら、星を掴んで持ってきましょう。煌めきの切先で指をどんなに切ってもいい。
風と踊ったことがないのなら、私があの風をそそのかして、無限の面積の織物を織りましょう。朝までかかっても、何晩かかってもぜんぜんいい。このくらいきれいで貴重なのが、きみにやっと丁度良いんだよ。
私はそのための手段として映画をまた撮るし、
昨日までやっていたこの映画も、まだこれからも映画館にかけられるようにする。
映画館のない場所で、たったひとりでTSUTAYAにいって好きなディスクを借りることさえもゆるされない場所で君が生きていたとしても、そのせまいリビングまで、真夜中窓から空を見上げようとするその時間まで、なんとかして、届くようにする。
今回がもしもだめでも、次はきっともっと近くまで行く。その次はもっとめりこんでやろう。
君には、まだ知らない愛がある。そしてそれを、私も見たいんだよ。私はそのために生きている。たとえば君が、殴られても好きでいる男の人がいるとして、その人を大切にしたくて殴られているとしても、私は、君のことが好きだから、君が嫌だと言っても、君がなるべく傷まなくなって、君だけが助かればいいのに。と、思ってしまう。だけれど、君が選ぶならなんでもいいんだ。君が選んだ暮らしの上で、そこで生きる君を、私は愛する。愛は変容する。私の愛は最強なんだよ。君の家の網戸の、どんな小さい編み目でもすりぬけよう。誰にもばれないように限りなく透明にすることもできる。ぬいぐるみのように抱いて眠りたいならそういうかたちにしておくね。駅前のモニュメントみたいにさ、あまりにも大きくしてしまえば逆に堂々としていてもばれないかも。星や風の中に預けることもできる。彼らはみんな私の友達だから。そうそう、地下鉄に乗せて君の働くビルまで通勤させてもいいし、お皿を洗う時の水道水にも溶かしておこうか? この世界のどこにも君に釣り合うものがないのなら、君の良さとちょうど釣り合うくらいの、それはとんでもない作品を、これから私がいくらでも作る。もう決めた。

だから、私これからもずっとやります。映画を観にきてくれたみなさん、ありがとう、何度でも出会いましょう。その度に新しく立ち上がる何か、真新しく懐かしいそれを、また教えてください。観ようと思ったけれど観られなかったみなさん。必ず届くように、ほんとうにがんばります。待っていてください。何かの形で、私は必ず、あなたのもとへ迎えに行きます。そのとき気に食わなかったら無視しても大丈夫です。私が勝手に行きます。君のことが好きだから。まだ出会っていない君のことも、既に好きだから。

映画は、5月28日から名古屋のシネマスコーレさん、そのあと関西の映画館でもかかります。東京でもまだやりたいので、今大切な仲間たちががんばってくださっています。いいお知らせができますよう。
もしも映画を撮る機会がとうぶんやってこないとしても、私は私でやれることをやり続けます。言葉を編み続けるし、あなたを温め続けるにはきっと一生編んでも足りないけれど、たった一晩でも側に置いてくれたなら。

また、これから、よろしくお願いします。


ありがとうございます!助かります!