TockN(トックン)です!

はじめまして。TockNと申します。
この記事では自己紹介と新規就農までのことを書かせていただきます。
長いのでゆっくりご覧いただけたらと思います。

私は福岡県の農家で、季節ごとに様々な種類のお野菜を少しずつ栽培(少量多品目)して販売まで行っています。実家は農家ではありませんでした。
お野菜は農薬や化学肥料を使用せずに栽培を行なっています。
また栽培を行う品種は原種や固定種と呼ばれるものを主にしています。
販売はマルシェなどのイベント販売、個人宅や店舗への配達などを行なっています。

これまで何やってたの?

農家歴は11年目です。その前は約3年農業法人でお仕事をしていました。
さらにその前はIT系の企業で働いていました。
さらにさらにその前はバンドマンでした。

バンドマン時代

バンドを始めたのは高校1年の時。バンドに憧れながらも楽器の心得も無く、楽器屋さんで安く販売されていたブルースハープを単音で吹くだけだった中学時代。それでも楽しく、趣味と呼べるものでした。
高校生活の最初に訪れる自己紹介。
ここで私は「趣味はハーモニカです!」と言い放ちました。
単音でしか吹けないのに。
何人か自己紹介が進んで隣の席のクラスメイトの番。
「趣味はギターです!」 ……カッコいい!!!
なんてカッコいいんだ…… そこで担任の先生、
「じゃあお前たち一緒にバンドできるな!」
先生!僕、単音でしか吹けません!と思いつつも休み時間に話しかけました、
「ギター弾きよると?一緒にせん?
(ギター弾いてるの?一緒にやらない?)」
私のバンド人生が始まりました!(担当はハーモニカボーカル)

高校卒業後は音楽の専門学校に進み、卒業後はアルバイトをしながらバンド活動を行う典型的なバンドマン生活でした。
しかし芽が出ることはなく、20代中盤に差し掛かった頃に友人からの紹介でIT関係の企業に就職が決まりました。
変なところが真面目なフシがある私は就職=バンド禁止と思っており、音楽活動を辞めました。

IT企業に就職

ITとは言ったものの、スキルほぼゼロからのスタートでした。
バンドマン時代に携帯でホームページを作ったくらいです。
めちゃくちゃ仕事の出来る憧れの上司に倣って、日々仕事と勉強!
上司より遅く出勤、早く退勤なんて以ての外!と勝手に思い込み、
朝7時半出社、深夜0時退勤、土日祝日出勤。を続けていました。
(たまにある出張はめちゃくちゃ楽しかったです。今のように発展する前の中国 深圳は今でも思い出深いです。)

何の為に仕事してるんだろう?
仕事をしていると理不尽な事にも遭遇します。そういう時にふと思います。
毎日頑張ってるんだけどなぁ。栄養ドリンク飲みながらでもやってるし、食事の味がしなくてもやってるんだけどなぁ。
食事の味がしない!!
そう!よく考えてみたら夜眠れないし、何も楽しくないし、急に悲しくなるぞ!?なんだこれ?でも仕事しなきゃ。仕事仕事。
しかし落ちていく仕事の効率。何かがおかしい……
そんな中、たまたま見ていたテレビのCMで「夜眠れない、気分が落ち込む、それは鬱です。お医者さんに相談しましょう。」なるほど!
今ほど鬱という言葉を聞くことがなかったあの頃、病院に行けばすぐ治るものだと思っていました。
病院に行くと結構な待ち時間。呼ばれて診察。いくつか質問されただけでわずか数分。渡されるたくさんのお薬。

不安はありましたが、薬の効果か調子が上向き活発さを取り戻しました!

が、長くは続きません。また病院へ。前回よりも増えるお薬。
調子が上向き活発に!長続きせず病院に。を繰り返すにしたがい、
私は安定剤を飲まないと何も出来なくなっていました。
指定された容量だと効かないような気になりラムネのようにいくつも口に放り込んでガリガリと食べるようになっていました。
そんな異変に気づいた上司から有給を使ってゆっくり休むよう命じられました。
ほとんど有給を使う事はなかったのでほぼ2ヶ月丸々休む事になりました。

しかしやることは無く、というより何かする気分にもならない。
それどころか休んでいること自体に罪悪感が生まれ自分を責めていました。

一度だけ「そうだ京都に行こう!」と思い人生初の一人旅に出かけました。
その頃「鹿男あをによし」というドラマが放送されていて、鹿にも会いたい!と思い奈良にまで足を伸ばしましたが、駅を降りた瞬間に鹿に遭遇し一瞬で目的を達成してしまし時間を持て余しました。
また京都では(その頃気分転換の為と思って奇抜な髪の色にしていたせいか、)映画でしか見たことのないようなスキンヘッド全身タトゥーの関西弁お兄さんにめちゃくちゃ陽気に話しかけられました。
今思い返してみると結構いい経験をしていたのですが、その頃は楽しくも感じていませんでした。

結局2ヶ月の休養も虚しく改善することなく、会社を退職する事になりました。(結果や病気になってしまった事は辛い事でしたが、会社や上司、同僚には今でも感謝の気持ちでいっぱいです。)

引きこもりというか……

退職後はいろんな事にチャレンジしました!っというか所謂 躁 の状態の時に何かをやって、それ以外の時に落ち込む。を繰り返していました。
お薬の量も順調(?)に増え続けて、病院帰りにはどこかスーパーでお買い物をしたかのような大量のお薬をぶら下げて帰っていました。
その頃には感情のコントロールはできなくなっていました。
そうなると友人など周囲の人とのトラブルも多くなってしまいました。
もう駄目だ。人に迷惑をかけるばかりだ。こうなったら……
最後の最後くらいできる限り迷惑をかけずに消えよう。
身辺整理をしてこの世から自分を消す準備を行う毎日。
この日が最後の日と決行日を決め、誰にも悟られることのないように。
そして願わくば眠るように。

一度目は自宅の部屋の中で。
意識が朦朧とする中で、たまたまその時に連絡をしてくれた友人が異変に気付き、家族に知らせてくれて発見。病院へ搬送。

二度目はもう見つかるまいと自宅外の産廃置き場の中。
ゴミらしくゴミの中でと思った記憶があります。
私が部屋に居ない事に気付いた家族が捜索。私の友人にも協力を仰ぎ、その友人が産廃置き場の中で倒れていた私を見つけてくれました。病院へ。
(いまでもその友人とお酒を飲むと度々その時の話になり、幸せになってよかったね〜と喜んでくれます。)

友人が手遅れになる前に見つけてくれた為、なんとか命は助かりました。
家族は私の為を思って入院しての治療を勧めました。しかし、もう戻って来れなくなってしまうような気がして泣きながら家に居る事を懇願しました。
家に居るには大人しくしておく必要がありました。
引きこもりというか、セルフ引きこもりのような感じでしょうか。
外に出ない。人と接触しない。感情の起伏を起こさない。何もしない。

草取り、耕す、畝を作る

何もしない期間を長く過ごしましたが、晩夏の頃だったかと思います。
一緒に暮らしていた祖母から庭の畑の草取りをしてほしいと頼まれました。
たまたまその日調子が良かった事と、人から何かお願いされたことが嬉しく軍手もせず庭の小さな畑の草取りをはじめました。
屋外に出るのすら久しぶりです。
必死に草を取りました。小さな草まで一本残らず抜き取りました。
綺麗になった畑を見て祖母がとても喜んでくれました。喜ばれたことが嬉しくてこの畑で次にする作業を聞きました。
耕すだそうです。耕すならクワか。

3本鍬

3本鍬を持ってひたすら地面を起こす。
久しぶりに体を動かして汗をかきました。
次は!?ウネを作るそうです。

平鍬

ウネが何の為にあるかなんてその頃は知りませんが、平鍬を使って何となく◢██◣←こんな感じに形を作りました。また祖母は喜んでくれました。
これから もちきび と呼ばれるモチモチしたトウモロコシを植えると教えてくれました。うちは農家ではありませんでしたが、祖母は自宅で食べるくらいの野菜を畑で育てていました。
私は小さな頃から祖母が育てた もちきびさつまいも が大好きでした。
畝(その頃はウネってこんな漢字であることも知らなかったよ。クワも。)を作った私にある感情が出てきました。自分も何か育ててみたい……
自分で何かを育てるなんて小学生の頃以来でしょうか。
何を植えようか。ハツカダイコンって聞いた事があるな。ハツカは二十日か?ということは20日で食べられるのか!正直一ヶ月後に生きているという自信が無かった事もあり、できる限り早く収穫できるものを育てたいと思いました。(いまではもっと早く収穫できるものをたくさん知りました!)

車の運転もできる状態ではなかったので家族の運転で地元の道の駅に向かいました。今ではホームセンターやスーパーの店先などに野菜の種があることを知っていますがその頃は何故か野菜の種は道の駅にしかないと思っていました。
道の駅でたまたま知人に遭遇しました。その人は私が病気療養していることを知っていたので体調などを聞かれました。
療養中だが少し調子がいいことに加え、野菜の種を探しにきたことを話すと農業に興味があるなら知り合いのミカン農家さんがアルバイトを募集していると教えてもらいました。その方もお手伝いに行かれているそうで一緒にどうかと誘われました。場所は自宅から車で7〜8分のところで家族に送迎してもらいアルバイトに行く事になりました。

引きこもり期間終了!ミカン収穫のアルバイト

アルバイトの内容はミカンの収穫、空のコンテナの配置、いっぱいになったコンテナを軽トラックに運ぶ、軽トラックからミカンの入ったコンテナを降ろすなどでした。他にお手伝いにこられている方は高齢の方が多く、コンテナを運ぶには体力的にきつかったとのことで当時ガリガリに痩せていた私でも作業の力になることができました。私は身長は高く180cmを優に超えているのですが、当時の体重は50kg台後半、ウエストは50cm台後半でした。

復ッ活ッ 味覚復活ッッ

何もできなかった引きこもり期と比べると、外に出て体を動かし、人に喜ばれる。こんなに嬉しい事はありませんでした。しかもお給料もいただける!
社会復帰を果たしたような感覚を感じていました。
その頃にいくつか変化が現れました。食事の味がするのです。これまでは例えるなら消しゴムを食べているような感覚であったものが、しっかりと味を感じはじめました!すべての味に感動していました。
病院を受診した際にも報告を行い、増え続けていたお薬の量がはじめて減りました。寝る前には睡眠導入剤を飲まなければ眠れなかったはずが飲まなくても眠れる時が増えてきました。
一度お医者さんに不眠について相談したところ「そりゃ体を動かしてないから眠くならないですよ。眠る必要がないって体が判断してるんです。」と言われ、その時は意味がわかりませんでしたが今では納得です。

車の運転も再開でき少しずつ活発さも取り戻してきました。
お世話になった農園は早生みかんが多く12月中にはほとんど収穫を終え、
1月からはその他柑橘の収穫や肥料をまく作業になりました。一人、また一人とお手伝いの方が減っていきました。私ももうそろそろかなと思っていた頃、社長さんに呼ばれました。目の前にはどこまでも竹林が広がっていました。社長さん曰く、この竹林はもともと段々畑の果樹園だった。綺麗な石垣もある。しかし果樹園を借りて苗木などの栽培を行なっていた会社が手を引き長い間手が入らず竹林になってしまった。とのこと。
渡されたのは一本の竹切りノコギリ。

かい……こんっ…… から社員

与えられた使命は竹林化した段々畑を再開墾せよ!でした。
ノコギリ一本て!しかし何とかなるものでした。めちゃくちゃ広い農地なのでとにかく伐採!延焼を防ぐ準備や消火の準備をした上で焼却!今であれば竹の買取などを含め有効活用を考えますが、その当時はひたすら伐採焼却。
この頃にはお薬は漢方薬1つになっていました。成分を調べてみると牡蠣殻を焼いて砕いたもの。カルシウム。筋肉がつき体重もめきめき増えました。
春になると社長から新たなアイテムが。タケノコ掘り用のクワ。
渡すと同時に「社員になる?」と誘っていただきタケノコ掘りと言う名の入社式を行いました。

社員になってからまずは果樹園の再開墾。竹の伐採が済んだ場所は重機のオペレーターさんが来てくださり土を掘り返し竹の根を除去しました。
再開墾が済んだ場所では野菜の栽培を開始しました。また農園にあった使用していないハウスの中に水耕栽培の設備を作り、葉物野菜の水耕栽培にも着手しました。栽培技術は社長、メーカーの営業さん、本やインターネット上の情報から入手し試行錯誤をしながら少しずつ身につけました。

音楽聴き放題の落とし穴と埋め方

一人での作業がほとんどだったのでイヤホンを使って音楽を聴きながら作業をしていました。元バンドマンとしては好きな音楽を聴きながらなんて最高の環境!……と思いましたが一人での作業は音楽を聴いていても寂しくなってきました。
そんな時の助けとなったのがPodcastでした!当時はiPodを使って音楽を聴いていたのでTBSラジオが配信していた深夜ラジオのアフタートークなどを聴いていました。人の話す声は一人での作業の孤独感を和らげました。
配信されていたものをほとんど聴いて2周目に入ったころふと農業で検索をかけてみました。なんと2件の農業をテーマにしたPodcastが見つかりました。しかも配信を行なっているのは農家さん!農業に関わりはじめたばかりの私にはこの配信のどの内容も役に立ち勉強になるだけでなくモチベーションのアップに繋がりました。

旅立ち

この頃には漢方薬すら必要なくなり病院の受診もしなくてよくなりました。
しかし長い間お薬を服用してきた為、断薬の影響が大きかったです。
頭の中、首や舌に電気が走るような感覚がし、喋っているとイギッとなっていました。その頃は断薬の影響だとはわからず少し怖かったのを覚えています。この症状は数ヶ月でおさまりました。
農園でお野菜が収穫できるようになって売り先がない事に気付きました。
ある日高校の隣の席ではじめて一緒にバンドを組んだ友人と食事に行った時の話。売り先がないことを友人に相談しました。すると「店長に頼んでみたら?」食事をしていたお店はバンド時代の後輩がやってるお店で結構野菜を使っていました。野菜を育てていて販売先に困っていることを伝えると、
「先輩の作った野菜ならいくらでも持ってきてください!」
その時収穫していたキャベツを毎週1ケースずつ届けるようになりました。
お店のオススメはハンバーガーで中にレタスを挟んだものでした。店長はハンバーガーに挟むのにちょうど良いサイズのレタスがないかと相談してくれました。水耕栽培で育てたサニーレタスは大きくなった葉を一枚ずつかぎ取って収穫を行なっており、収穫するタイミングによってはハンバーガーにちょうど良いサイズで収穫ができました。試しにお店に持っていってみると「これが欲しかった!」と喜ばれ早速採用されました。1週間後の納品時にハンバーガーを食べられたお客さんから「レタスが美味い!」と褒められたと教えてくれました。自分で育てたものを食べて美味しいと言ってもらえることの喜びに打ち震えました。
そんな中、農に関わるきっかけをくれた祖母が入院しました。
最初は室内で転び骨折。入院先で脳梗塞。転んだ時点ですでに脳梗塞がはじまっていたのかもしれないとのことでした。その頃は東日本大震災の直後であり私は福岡県で直接的な被害はないものの、自分自身がこのままで良いのかを考えるようになった時期でもありました。
独立を決心しました。

独立、えっ?就農できない!?

2011年12月末をもって、お世話になったみかん園の農業法人を退職し独立就農への道を歩みはじめました。社長より市役所の農業担当者を紹介してもらい訪ねました。「農家になりたいです!」と伝えると、「農地は?」
のう…ち?農家って農家になりたいって言ったら農家になれるものだと思ってました(笑)
話を聞いてみると、農家さんとは私の地区では
『3000平米以上の農地で農作物の栽培を行なっている人のこと』
とのことでした。ふむふむ。ではその農地はどうすれば手に入りますか?
『農地の購入や借受は農家でなければできません』

詰んだーーーーーーー!!!!

意味わかんない!無限ループですやん!
その日は農家になれず帰宅。おかしい。絶対おかしい。
何か方法があるはず!!!検索検索!あった!!!
「一回の申請が3000平米を超える申請であればOK」
つまりは一度に3000平米以上の申請であれば
農地を買うor借りる農家になる を同時に達成できるらしい。
ドヤ顔で市役所へ。えぇ、先日はどうも。いやねぇ、聞きましてね。
一度に3000平米以上の申請をしたらいいらしいじゃないですか♪
「いや、だからその農地は?」
勝手に割り当てられるとまでは思っていませんでしたが、何かしら教えてもらえるとの期待も虚しく撃沈。
じゃあ自分で3000平米買ったり貸して貰えばいいんだ!
誰から!?そんな簡単に見つかるわけ……
父「遠縁の親戚が農地を手放したいらしいよ?」見つかったーーー!!
しかしその広さは1500平米。まだ半分。次は近所にアタックだ!
お隣のおうちにピンポーン!おっちゃん!農地ない!?
隣のおっちゃん「あるよ!」いやまさにHERO!!!
しかも広さ1700平米で合計3000平米をクリア!
市役所に報告。担当者さんは私が本気だとは思っていなかったそうでビックリされていました(笑)

就農。自分の農園を開園。

農業法人の退職から農地の利用権設定まで実は6ヶ月かかりました。
その間、年が変わってすぐ2012年1月の私の誕生日の次の日、祖母は亡くなりました。家族で祝ってもらった席に一緒に居てくれた気がします。
祖母が育てていたもちきびの種が残っていました。
この種を継ぎ育てることを一つの目標として私の農家としての第一歩がスタートしました。

農園のロゴ

農園のロゴに描いていただいているのはうちの猫で、持っているのが祖母が育てていたもちきびです。

っということでここまで私の生い立ちから新規就農までを駆け足で振り返りました。
ここから先、10年色々ありました。
興味を持っていただけましたらInstagramやTwitterなどでコンタクトを取っていただけたら嬉しいです。
またこのnoteにも新たな記事を書いていきたいと考えていますのでご覧いただけたら嬉しいです。

読んでいただきありがとうございました。 TockN

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