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私はくにひろの妹だから【報酬未払いを諦めない理由】

今回は今書いている【中村が中村を追う】で、なぜ未払いを諦められないのかについて考えてみました。自己紹介をかねて、トップページに貼ります。

くにひろの妹

私は、小学生のころから目立つ子どもではなかった。ただ、はっきりと「やめて」がいえる子だった。それは、私が「くにひろの妹」だからだ。

小~中学校では、私は「くにひろの妹」という位置付けが大きかったと思う。その「くにひろ」とは、私の兄のこと。

幼少期のくにひろ

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2才の頃、兄は記憶力がズバ抜けてよかった。車の車種や電車の路線図を覚えるのが好きだった。そんな兄を親や祖父母は神童のように扱っていた。そして、兄は3才になってある病気を発症する。突発性紫斑病という病気だ。

母から聞いた話では、歯ぐきから出血したり、鼻血が出やすくなって、血がなかなか止まらなくなるという病気らしい。ちょっとぶつかっただけでアザができて、1週間経っても治らないことがよくあった。だから、兄の足はアザだらけだったという。

ある日「足が痛い」といって突然歩かなくなった兄の足は、パンパンに腫れていた。ただのアザだと思っていたら、内出血が止まらなくなっていたのだ。

兄はそのまま入院して、大量の抗生物質を投与することになった(昭和の終わりの話)。そのとき医者に「強い薬を投与することで障害が出る可能性もある」といわれた。生きるか死ぬかの状態で「障害」などという言葉は、なんの意味も持たない。生きて欲しい。両親の願いは、間違ってない。

そんなわけで、兄は後天性の発達障害になった。親はわかっていたのかもしれないが、私は兄が発達障害であることを知らされずに育った。

だから、「この人、ちょっと変わってるな」くらいにしか思ってなかった。「変わってる」というのは、例えば授業がつまらなくなって、3時間目とか4時間目とかに勝手に早退してくるとか、すぐ保健室にいくとか、学校から頻繁に電話がかかってくるとか。
一連の出来事でも私は「やらかしちゃってんな~」くらいにしか思っていなかった。

子どもを持つようになって思うのだけれど、それは兄なりの『SOS』だったんじゃないかと思う。勉強がわからないだけじゃなくて、周りから浮いていていて、うまく馴染めない自分を肌で感じていたんだと思う。

ここに僕の居場所はない。そんな「SOS」を発信していたんだと思う。

小学生時代のくにひろ

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兄が低学年の頃は、他の子どもとの違いがわかりにくかった。4年生くらいまでは、それなりに友達がいた。うちにはファミコンがあって、兄の友達がきてはゲームをしていた。私もその中に混じって遊んでいた。

しかし、よく見ると兄はゲームをしていない。
やっているのは、友達として居座っている子ばかりだ。兄は、みんなが帰ってから一人でゲームをしていた。勉強は全然できなかったけど、ゲームはやたらとうまかった。

私には、いつからか『兄は私が守らなくては』という正義感が身についていた。それは私の性格なのかもしれないし、兄を家族に持っていたからからもしれない。

兄は見た目は普通だし、話すことも普通で、生活していると普通の一般人にしか見えない。なのに、学校へ行くと兄は突然「変人」になる。人よりできることが少なくて、できないことが全然できるようにならないのだ。

私と遊んでいるときは、兄は友達と楽しく遊ぶ。兄を叩いたりバカにしたりする人は、私が蹴って罵ってやっつけてやった。
絶対、負けなかった。
「妹のくせに生意気!」といって殴ってくる奴もいたし、女だからといって黙って帰った子もいた。仲良くしてくれた人も。

そうやって兄を守れたのは、私が3年生くらいまでだった。
兄が5年生になると、陰湿ないじめが見えないところで行われるようになった。私も親も気づかなかった。

あの日のことは、鮮明に覚えている。
兄が父と久しぶりに風呂に入った。その後、母が呼ばれて、突然発狂した。何ごとかと私が慌てて風呂場に駆けつけると、アザと切り傷だらけの兄が真っ裸でつっ立っていた。
兄の背中は傷だらけだった。
「何これ、どうしたん?」
「クラスの子にカッターで切られたんやって!!」
母が泣き叫びながらいった。

背中一面に何本も赤い線が入っている。
血は乾いていて、切れて血が滲んでいるところと乾いているところがあった。
「痛くないん?」と、聞くと
「じんじんしとる」と、兄はいった。

「お前、やられっぱなしで、抵抗せんかいや!!」と、父は怒鳴った。
兄は無表情のまま、黙って立っていた。

「これ、病院いかんと。留守番しとるけ。はよ、病院行ってきーや」
私はいった。

夜の8時だった。
母は慌てて、電話をかけていた。
私は、兄を守ってあげられなくて、気づかなくて、悪かったなと思った。

顛末を学校に話すと、兄をいじめたという5名の生徒の名前が出てきた。いじめはあの日だけではなく、教科書を切り刻んだり、荷物を隠したりという些細なものから徐々にエスカレートして、教室で全裸にさせるのが常態化し、トイレに行く兄を止めて裸にして教室でするように強要したり、全裸でトイレに行かせて大便を開けっぱなしのままやらせるなど、なかなかもってひどい行為を楽しんでいたらしい。
加害者側は、それをみて笑っていたという。

この日は、兄が服を脱ぐのを嫌がったため、主犯格の子がカッターで切りつけてきたという。兄は学校から帰って、すぐに服を着替えていた。家族にバレないようにこっそりと。
洗濯機には、血のついたシャツが入っていた。痛いのを我慢しながら、ずっと普通の顔をして過ごしていたのだ。
しかし、痛みは治らず、背中がしみるのが怖くて「お風呂に入りたくない」とゴネて、傷が露見した。

この問題で、菓子折りをもって謝罪に来たのは5人のうちの3人だった。
主犯格の子どもらはやったことは認めたものの、親といっしょに謝罪にくることはなかった。

それから、兄は少し変わった。
もしかすると、私が変わっていた部分が見えてなかっただけなのかもしれないが、一人でぶつぶつ呟くようになって、一人で遊ぶようになった。友達もうちに来なくなったし、ゲームもあまりやらなくなった。電車の本を眺めては絵を書いたり、一人の世界が一番楽しいように見えた。

親も私も気がつかなかったが、兄はこのとき、うつ病と自閉症を併発していたらしい(それがわかるのは、20年後)。

中学時代のくにひろ

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不思議なことに、兄はいじめられても、体が辛くても学校を休まなかった。

低学年のときはあんなにも『SOS』を出して帰ってきたのに、中学に入ってからは、なぜか無敵の皆勤賞。
その理由は、私が中学に入るとわかった。

私は同級生によく声をかけられた。呼ばれると、だいたい窓の外を指される。学校の裏庭だ。
「お前の兄貴、なんしよん?」
「いっつも、一人で何しよん?」
私の「くにひろの妹」の代名詞は大きくなった。

兄は、学校の裏庭で一人で遊んでいた。
ある日、音楽室へ移動する途中、兄を見かけた。兄は授業が始まっても、まだそこで遊んでいた。
先生も「くにひろくん、始まるよ」と声をかけるだけで、そのときの気分で教室に入るかそのまま遊ぶかは兄に任せていたようで、教室に入らなくてもとがめることがなかった。
おかげで、兄は一日の多くの時間を裏庭で過ごしていた。授業中も中休みも昼休みも。
なるほど、兄が皆勤賞の理由がわかった。
裏庭が彼の『居場所』だったのだ。

高校時代のくにひろ

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高校でも居場所を見つけていたのか、またまた兄は皆勤賞だった。紫斑病を患っていたときは、病弱ですぐに発熱するような子どもだったというのに。

ただ、トラブルはいくつかあった。
覚えているものは少ないが、ある朝、私が食卓につくと、めずらしく母ともめていた。
昼ごはん代として渡している1000円を兄が「いらない」というのだ。

「なんで?」と、母が聞くと、
「昼は食べんけ、いらん」という。

「なんでーね。お腹すくやん」「お弁当にしようか?」など、兄の話を聞かずに一方的に甘やかせる母を見て、私は辟易とした。

兄にこっそり話を聞くと、誰ぞに1000円をとられているのだという。
ははぁ〜ん、カツアゲか。
「持ってったら、とられるやろ?どうせ昼食えんし。お金もったいないけ、いらん。帰って食うけ」
「それ、いつからなん?」
「1週間くらい。俺、今狙われとるけ」

私は母にお金を返して、兄を呼んだ。
そして、私の財布から500円玉を取りだして、兄の定期入れの隙間に入れる。
「ここに入れて持ってってお金とられんかったら、このお金で帰りになんか買って食べり。そんで明日からは、ここに入れることにしようや」
「わかった」
と、いって兄は学校へ行った。
行かなくてもいいのに、と私は何度も思ったが口には出さなかった。

その日の夜、
「かんちゃん(私のこと)、今日とられんかったよ!」
と兄はいった。ちょっぴり誇らしげだった。
「よかったんやん。じゃあ、明日からは定期入れに入れてこう。買うとことか、お金使うとこ、誰にも見られんようにしいよ」
「うん。ほか弁でカレー買って、みよし公園で食べるけ。それなら、大丈夫やろ?」
えぇ!それって、もうほとんどうちの近くなのだが…。
昼ごはんが16時になってしまうけど、お金をとられるより全然マシだから、いいんだと兄がいう。まあ、いっか。兄が決めたのだから、それでいいことにした。

それから、しばらく定期入れを財布にしていたが、いつしかそれもバレた。
その後、制服の裏にポケットを縫いつけたり、カバンの奥にミニポケットを作ったり、朝行ったら上履きの中に入れたりと、私はお金を取られないための策を練った。
上履きの中は、大成功だった。

兄は、記憶力はいいが勉強はからきしダメで、いつも全教科赤点だった。
学期末には必ず再試験がやってくる。
あるとき、兄が「かんちゃん、どうしたらいい?」と聞いてきた。
この頃、私と兄はあまり仲が良くなくて、滅多に口を聞くことはなかった。
だから、兄から相談されることは「SOS」だと思って話を聞いた。

テストは、中学生の私でもわかる簡単な問題ばかりだった。たし算、引き算から始まり、分数の掛け算や二次方程式など、どれも中学生レベルの問題だ。それでも兄は10点とか8点とか。まあ、うん仕方ない。

再テストは、40点を超えたら合格だという。先生、ありがとう。
そう思って、最初は解き方をひたすら教えたのだが、これがまったく響かない。本当に、全然、全く。私、一人で空回り状態だ。

さらにこちらが真剣に教えているというのに、兄は一人で鉛筆で遊び出すという始末。そのうちに私の怒りが沸点に達し、大爆発するという日が続いた。
疲れ切った私は、解くことはできないが暗記が得意なら全部答えを覚えさせてみるか、と思いつく。
「1問目は4、2問目は15、3問目は5分の1、4問目はy=8」といった具合に、ひたすら答えを暗記させた。

数学は効果的だったが、国語や社会の暗記は本人のやる気がなくて、からきしだった。それでも、私はやれるだけ個別の家庭教師(無料)をがんばった気がしていたので、
「かんちゃん、数学45点やった。ありがとう!」
と、テストの点を聞いたときは、結構マジでショックだった。80点はいけると思っていたのだ…。

それが兄・くにひろとの思い出だ。

現在のくにひろ

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兄は、それから専門学校へ入るが、1年たたずして辞めた。
父に「ずっと家におる気か」と迫られて、大分にあるお寺へ修行に行かされたり、広島のどっかに行かされたりしていた。

そのどれもが続かず、父はとうとう兄を障害者施設に入所させることに決めた。プライドの高かった父が、兄を障害者だと認めたことに私は驚いた。

しかし、入所して1週間経った頃から、毎晩電話がかかってくるようになった。「ここは地獄や」「全然、眠れん」「体が痒くて死にそう」と訴え、その都度、母がどうにかしようととアドバイスをするが、ことごとく寮監に「ダメだ」といわれるのだそうだ。

「もう、家に電話したらいけんていわれた」と兄が電話してきたとき、見かねた母が迎えに行った。帰ってきた兄は、全身真っ赤だった。
ダニだらけの布団で痒みを訴えるも、布団を干したり、虫除けを使ったり、軟膏を塗ったりもさせてもらえなかったらしい。
かきむしって血だらけになっていた。

父は、顔を真っ赤にして帰ってきた。
「虫にかまれたぐらいで大騒ぎして迎えにくるなんて、甘すぎるよ。あんた息子のこと捨てたんやけ、入所代金は返さんよ」と、いわれたという。

よくよく調べもせずに入所した施設は重度の障害者ばかりで、普段と違うことはしてはいけないというルールがあった。何も使わない、何もおかないが施設のルール。

「蚊取り線香が欲しい」「キンカン塗りたい」「おなか痛い」と、夜な夜な訴えた兄のことを寮監は「甘えてる」といって取り合ってくれなかった。

兄が施設長に帰りたいと訴えると「お前は親に捨てられたんやけ。一生ここで暮らしていくんよ。うちになんか帰れんよ」といわれたらしい。

その言葉にショックを受けて、兄は家に帰ってから一歩も部屋から出なくなった。いわゆる「ひきこもり」というやつだ。それが、10年以上続いた。

その後、兄が高機能広汎性発達障害という病名をもらい障害者認定を受けたのは、彼が34歳の時。父が退職したのを機に、私が一時的に実家に戻って、兄に精神科を受診するよう両親を説得した結果だ。

それから、たくさんの障害者施設を回った。そこで、兄にあった施設を見つけて通い始める。
精神科の先生によると、兄はトラウマをいくつも抱えていて、とくにいじめの記憶と父に捨てられたという認識が強く思念に残っているらしい。

だから『男性』と『重度障害者』には、強い不信感を持っている。
男性は「暴力を奮って自分を傷つける人」、重度の障害者は「言葉が通じない。横暴で暴力的」という認識があるらしい(兄に絡む人がたまたまそうだった)。

だから、男の人とは会話をすることができず、沈黙を貫く。ちなみ、理論的に話されるのも社会理念も苦手で、私もちょっと避けられているが。
今は施設を転々としながら、公園の清掃など外に出て行う奉仕活動だけ参加するなど、自分の中で折り合いをつけながら生活している。

2019年の夏、私は帰省予定だった。しかし未払い被害で、帰省をやむなく延期。さらに、コロナ渦でいつ帰省できるかわからない状況にまでなった。

そんなわけで、私は「くにひろの妹」。
軽い気持ちで人にひどいことをする人が、どうしても許せない性格になった。
だから、私は今、中村を追っている。

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ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。実は、私もまだきちんと兄と向き合えておらず障害については勉強不足で、今後の大きな課題といえます。話に賛否あるのは承知の上で、私の体験記として執筆しました。

コロナの状況を見つつ、兄の老後の生き方について、一度実家で話をしないといけません。何か情報がありましたら、コメントなど入れていただけると幸いです。

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おわりに

私は今雑誌未払い問題で、制作会社の取締役を追いかけています。取締役は、昨年未払いのまま忽然と姿を消しました。そして、翌2月新事業に着手しているのを見つけました。新会社に雲隠れするような巧妙な手段をとっており、現在、話し合いに応じて欲しいと交渉中です。 

未払いの被害にあったのは、私だけではありません。社員や編集者、ライター、カメラマン、スタイリスト、デザイナー、モデル、ヘアメイク、マンガ家など制作に携わったたくさんの人が被害にあわれています。そして、その多くの人たちが、回収を諦めています。小額だからとか、行方がわからないとか、電話がつながらないなどの理由です。

今の法律では、フリーランスに対する報酬不払いに強い規制がありません。そのため、このような被害が横行しています。この記事に賛同してくれる方がいれば、ツイッターやnoteで記事を拡散して欲しいです。よろしくお願いします。

この記事が参加している募集

グレーゾーンの知的障害者の家族のコミュニティや生活のあり方などをもっと広めたいと思っています。人にいえずに悩んでいる「言葉にしたい人」「不安」を吐き出せるような場所を作りたいです