理系信仰はなぜ国語力という言葉を使いたがるのか-1-
言葉の定義というものは、海面に見える氷山の一角のようなものです。
本当に国語力のある人なら、相手に全体の大きさを見せることができるでしょう。
とてもくだらない記事になりそうですが、私たちは「くだらない人」たちの中で生きています。メディアでもSNSにも彼らはいて露出しています。度々出てくる「国語力がない」「国語力の問題だ」という言葉には、他者を否定し、さげすみ、格下と見下す目線があるにも関わらず、意図を問われると「それは貴方の感じ方の問題だ」などとフワッとした回答に逃げます。他人を刺す言葉は鋭い方が好都合で、行為を問われるとこれは危険なものではない、気にする貴方がおかしいのだなどとはぐらかす訳です。
この時点で言葉は
・行為責任を伴わず使用されている
・発した自身には向き合わない使い方をされている(無責任と同じですが)
・攻撃する国語力?は高く、受け止める際の国語力は根拠なく鈍感に扱う事を自分に許していて管理できていない。語感の感度が曖昧な感情に左右されていて一環した判断の下にコントロールされていない。
結果的に自己都合で物を言っているのと同じ、所詮感情から出た発言になる。
という使い方をされてしまっています。
この時点で発した彼らの国語力には問題があると感じますが、本人は上から目線なのです。自身の言葉に説得力があると思い込んでおり、手の付けられない人物だなという印象を受けます。
こういった人が理系・理系信仰の人に多いのは、文系感覚がない、もしくは理系のプロセスと比べると文系感覚を軽視しているからだと言えます。
むしろ文系感覚で「その言葉遣いは不適切なのでは」などと指摘しようものなら「些細な事」「どうでも良い事」「時間の無駄」などと切り捨てにきます。
普段の人柄から想像もつかない程文系感覚に距離を取ってくる訳ですが、文系思考の習慣がない方たちにはただ煩わしいものでしかないようです。それでいいのか、という問いかけはないのでしょう。自らの苦手意識に寛容で自分に甘いと感じます。
(そもそもコミュニケーション上出てくる相違を全て相手の落ち度にして片付けようとしている時点で自分に甘いのですが)
明らかに自分を正当化する根拠は定義される言葉のみ。文系感覚というのは表面的な定義をたどる事ではありませんから、それができない理系信仰の方々は、そこで判断基準を失い、曖昧で矛盾した差し引きを始めるのです。別の言い方をすると表面的な定義が明確でない部分では(相手に了解を取らず)自分都合の解釈が許されると思っています。
しかしここで問題になるのは、本人の中でそうであっても、他の人に「国語力」的なものがある場合は、文脈も構成もめちゃくちゃなメッセージを発され、終始一貫しない場当たり的な主張を並べられることになります。
なぜなら、この「許される」範囲は彼がその場その場で自分の了解だけで決めているからです。(さらに「許される」程度の匙加減まで彼の胸中)
この、乱暴で雑な言葉の取り扱いにげんなりさせられてしまうのです。
彼らにとっては言葉の責任は単語の定義で、文脈となってくると矛盾したメッセージが同居してもよいことになっています。
言葉の定義だけで全てを固めて行こうとすると、すぐにこんな限界が現れますので、短いやりとりですら次々と破綻が出て来ます。
アイシュタインが苦労したように個々の定義を統一的に扱うのはとても難しいのですが、個々の定義だけを並べて行く方が便利だから、統一なんてできる訳がないじゃないかという心理です。当然、こんな落としどころは相手の了解はとっておりません。
この理系信仰がよく使う、もう一つの言葉があります。「是々非々」です。
スタンスをころころ変えてもいいじゃないかという訳です。
もちろん柔軟性は大事ですが、スタンスを変えるならその根拠は示さなければなりません。根拠を省略して主張を変えたら主張自体の信頼性がなくなります。省略して矛盾が生じても問題ないじゃないか(むしろ理系的)と居直っているのです。
一方―――――
聞き手は構成上の矛盾が出ないよう文脈をつくり、破綻が出ると思われた場合には事前に根拠を示すよう、文章を作っています(これが本当の意味の国語力でしょう)。
乱雑な言葉のを用い方をしている人が、丁寧に言葉を扱う人に向かって国語力がないと言っている図ができます。国語力がないという言葉はどう見ても行き詰まった側が苦し紛れに放ったようにしか見えません。
それが能力差、落差としてはっきり出てしまいます。
実践している受け手に比べ、概念だけで主張している側の国語力の捉え方が曖昧すぎるからです。
自分だけの了解がなぜまずいかと言うと、他人に伝わらないからです。それなのに本人は「多くの人に重要性を訴えた(のに貴方は国語力がないのでそう解釈できないのだ)」などとふんぞり返っています。
言葉というものを知っていれば、これが多くの人に伝えるための使い方をされていないことは分かる筈なのですが。発した本人の了解は本人の心の中だけにあり、公知されてない(普遍化されていない)からです。
にも関わらず理解を得らない場合に、専門用語や文献、出典などを紐解いてくる訳ですが、さらに普遍化・公知から外れて行くのが分かっていないのです。こういった理系志向は今更感のある単純な主張(実は分かり切っている)や横文字に弱いのです。習慣的にも能力的にも国語力の限界が低いからです。
理系信仰の人に取り巻きがつくと、彼らはその曖昧性を尽くす相手への忠誠心や信頼感で埋めようとします。あの人が言うんだから正しいのではないか、学識があるから信用している(ウソは言っていないだろう)、経歴に箔があるから…
残念ながら中身も根拠もありません。
どこにも示されてないからです。
こういったやり取りで、さらに次に出てくる言葉がさらに悲惨なものでした。
「表現」という言葉です。
この言葉が表現の自由という言葉を伴って使われます。
相手がどう受け取ろうが自分には表現の自由があると主張して、自身の言葉と文脈の瑕疵を正当化しているのですが、開き直るだけでは責任を免れないと判断するとこんなロジックを使ってきます。
こちらについては続く記事に書きたいと思います。
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