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Haʻina ʻia mai ana ka puana

青い衣装が、空の青と溶けてはためいていた。
「たまちゃーん!」
観客席の子供たちからそう呼ばれた彼女は、小さく頷くとにっこり笑ってその声に応える。
曲がかかると同時に、風がブワッと彼女の周りを駆けぬけた気がした。


その日、私は、自分が入るべきフラダンス教室を探していた。
前日から3日間に渡って行われているイベントには、広島市近隣のフラダンス教室がたくさん出ると聞いて、片っ端からステージを見ては、よさそうな教室から名刺をいただいていた。
前日は雨。
悪天候の中でも、にこやかに踊っている教室ばかりだったから、この中からより自宅に近いところを選べば良いだろう。そう思っていた。

翌日、打って変わって晴天のフラ日和だった。
散歩がてら、もう一日ステージを楽しむのも良いかもしれない。
広島に転勤してきたばかりで他に予定もなかった私は、当時2歳の娘を連れて、イベント会場を目指した。

そこに現れたのだ、たまちゃんは。

その教室で最初に見たのは、元気一杯のケイキ(子供)クラスのステージだった。
声が大きくて、のびやかで、それぞれの個性がしっかりしているのに揃っている。鳴り物と呼ばれるプイリを自在に操りながら、コロコロとした笑顔でステージ上を嬉しそうに踊る子供たちを見て「うちの娘もいつかこんなふうに踊ってほしいなぁ」そう思って、配られたパンフレットを見た。
「あと一曲ある」確認をして、もう一度ステージに目をやる。
もう既に、自分が興奮しているのが分かった。
だから、青い衣装のワヒネ(女性)クラスがステージに上がった時には、目を離しちゃいけない、そう気づいていたんだと思う。

そこには、山があった。
そこには、海があった。
風が吹いてステージをすり抜けると、次に私に向かってきて、私を柔らかく包んだ。
手に持っていたスマホで動画を撮りたいと、思考のどこかが言っていたのだけれど、ほんの一瞬でも目を離したら、目の前の景色が消えてしまうような気がした。
他のどのステージをみた時にも見えなかった景色がそこにあったのだから。

生まれて初めての経験だったかもしれない。
誰かが踊る姿をみて、意味もわからずに泣きそうになったのは。
ハンドモーションで表現される景色が実際にこの目に映ったように感じたのは。
だから私は、漫画やアニメで表現されるみたいに、手に持っているあれこれをボトボトと地面に落としてしまうような感覚になっていた。

「たまちゃん・・・」確認するように呟いてみる。

そこからの私に行動は早かった。
ステージで踊っていた子供たちに声をかけ、教室の場所を確認し、親子クラスの存在も教えてもらった。
「親子クラスの先生を連れてきてあげる!」
子供たちが連れてきてくれた先生はたまちゃんではなかったけれど、明るくて気持ちいい声をした人は「親子クラスで待ってます!」すぐにそう言って窓口を教えてくれた。

それから、私はたまちゃんの追っかけになった。
イベントやステージのほとんどを見に行ったし、ステージが終わると必ず2ショットの写真を撮ってもらった。
5年間、たまちゃんは遠い遠い雲の上の存在で、たまに一緒に撮れる写真で満足していた。
だけど、本当はもっともっと近づきたい。
それはもう、まるで恋と言ってよかった。

それまで私はずっとカルチャー生として「とにかく楽しむ」踊りだけしていた。
スタジオ生になれば、たまちゃんから直接指導を受けることが出来るのだけど、その勇気がなかなか持てなかった。
だって、恋をしている状態だったから。

「私のフラが下手すぎて嫌われたら?」
「目の前で指導されたら、緊張しすぎて震えが止まらないかも」
「怒られすぎて、たまちゃんのことが嫌になる日が来たらどうする?」
憧れのままにしておけば、傷つかずにずっと楽しいままでいられるのだ。
だけど、自分が転勤してしまう日が来るのも知っている。
後悔しない?こんなにも憧れている人がいて、望めばもっと近づけるのに。

一度、幼稚園の役員のことであまりにも忙しくなった時に、フラをやめようかと思った時がある。
覚えられない振り付けを頭の片隅に置いたまま日常を送るのがしんどくなったのだ。
「見る専門でいいじゃないか」そんなことを思いながらたまちゃんの踊るステージを見に行ったら、なんと、初めて見た時と同じ青色の衣装で彼女は現れた。
「ここの教室を辞めていいはずが無い!」

そうして意を決してスタジオ生になったのは2年前。
奇しくも、この流行病が出る直前の頃だ。
たまちゃんがステージに立つ機会が激減する代わりに、私は直接指導を受けられるようになった。


たった2年。
そう思うだろうか。

たかがフラなのかもしれない。
踊る意味を明確には答えられないし、表現したいことの1割だって表現できているか分からない。
ただニコニコと、キレイな衣装を身に纏っていれば、それらしく見えるのかもしれない。

だけど。
私が2年で、彼女から受け取ったものは、きっとそのどれでもないのだ。
音楽を聴くこと、伝えたいことがあること、
体の全ては繋がっていること、大地と空とを、自分の体で繋ぐこと。

そうだな、こうして文章にすると安易であるかのようだけど、もっと体の根っこの感覚的な部分が反応する感じ。
2年間、あらゆる言葉を使って、たまちゃんはそれを伝えてくれた。

体の根っこの部分を表現するために、彼女はハンガーを取り出したり、ゴミ袋を背負いあげたり、「志村けんのお股から出ている白鳥の首を引き上げるイメージよ!」と、突然コントのような動きをしたりもした。
そうかと思えば、骨格や筋肉が詳しく描かれた絵本を用意して、指先の最後の一本の骨まで音楽に乗せる繊細さを伝えたりもしてくれた。
そのどれもが「なるほど!」とピンとくるもので、私たち生徒は爆笑しながらその動きを真似たり、時にはピリピリとした空気の中、半ベソになりながら同じ動きを繰り返したりもした。

たまちゃんはどの瞬間の音も真剣で、どのモーションも、手の先、足の爪の先まで行き渡った神経の全てから、花を咲かせるエネルギーのようなものが出ていて、私はそれを毎週のレッスンで見ることが出来た。

そうして、自分でいうのも恥ずかしいが、たまちゃんは、私を素敵なフラダンサーにしてくれた。
みんなと一緒に空の下で踊る。
通行人が見ていても、踊る自分を恥ずかしいと思わなかった。

「ただ楽しむ」だけの踊りしか知らなかった私は「心の底から楽しむための努力をみんなと共有する」ことによって、迫り上がってくるような喜びを知った。
恥ずかしいなんて感情が入る余地がない。


「みんなと一緒に踊っている」
あの喜びを手に入れた私の2年間が「たった2年」そんなふうに言っていいはずが無い。

人は、心から憧れる人に出会える確率がどれほどあるのだろう。
そして、さらにその憧れの人から、直接教えてもらえる機会に恵まれるのはどれほどの確率なんだろう。
その幸運に気付ける人がどれほどいるというのだろう。
私のこの幸運は、きっと私自身が必死になって手繰り寄せたものだ。
通り過ぎてしまったらそれで終わりだったあのステージから、私の物語は始まった。
きっと、人生にはそういうシーンがたくさんある。
たった一歩、近づくだけで動き出す日常がある。
それは宝物の青春に違いなかった。
人はいくつになっても青春が出来るのだ。

今、私はまた、ゼロの地にいる。
誰とも知り合っておらず、どの社会にも属しておらず、家を整えては過ぎていく毎日に狼狽えてしまっていると言っていい。
このままで大丈夫なわけがない。そうわかっているが、一時的に気力も出ていないのがわかる。
それでも多分、近いうちに私は何かを手繰り寄せるんだと思う。

うん。
まるでたまちゃんに出会った時みたいに。



Haʻina ʻia mai ana ka puana
(この歌を伝えます)




たまちゃんへ

感謝を込めて。





ある日、空の下たまちゃんと。







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