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休職と地獄の自宅療養

とても働ける状態ではなかったので休職し自宅療養となる。
手続きを済ませて初めて会社員とは守られている環境にあったのだと知る。

服薬はリフレックス(抗うつ薬)、サインバルタ(抗うつ薬)、デパス(抗不安薬)、フルニトラゼパム(睡眠薬)。
リフレックスは効くのが早いとのことで服薬し始めたが一向に効果が現れない。
それどころかどんどんと悪くなっていった。
ほとんど起き上がれなくなり室内移動は尻もちをついたままの移動。
立ち上がれないのだ。
身の回りのことも満足にできなくなってしまったので電車で2駅の所に住む母がほぼ毎日看病に来てくれていたが、服薬しているのにどんどん悪くなる異常な状態に私は主治医への恨みつらみを毎日吐き捨てていた。
主治医は私を騙しているのではないかと疑った。
行きたくもない通院をするたびにリフレックスは増えていった。
抗うつ薬は徐々に増やしていくものだからだ。
この薬の特性でもあるのだが眠気がひどい。
更に動けなくなる。
朝起きて日光を浴びて一日のリズムを・・・どころの話じゃない。
また不安、焦燥感、希死念慮(死にたい思い)もどんどん増悪していった。


不安については近い未来と遠い未来、どちらの不安も襲ってくる。
≪こんなにどんどん悪くなってどうするのか、リフレックスは二週間で効いてくるはずじゃなかったのか、いつまで休職していればいいのか、いや仕事どころかもう二度と以前の自分には戻れない、今の仕事を辞めたら行くところはない、今の会社に入ったのが間違いだったのか、こんなことになってしまい妻にも迷惑をかけている、いつ離婚されてもおかしくない、いや元気に働いてる妻が羨ましい≫

焦燥感についてはとにかく落ち着かない。
爪や結婚指輪をガリガリと爪で削っていないと居ても立っても居られないのだ。ここで私は指輪を外すことを決意した。(もっとも、詳しい状態を知らない妻には後にそのことを咎められた。そのことでまた病気に対しての理解がないのだなと寂しくも思った)

希死念慮については上記の不安、焦燥感に加えて自責の念が重なり、より強い希死念慮となる。自責の念は健常者には考えられないだろうが
≪食事をして(食べれない期間もあったが)トイレに行くだけの生活をしている自分は汚物製造機なのだと強く信じた。信じて疑わなかった。自分は何も生み出していない。糞尿を垂れ流すだけの存在なのだと真剣に思った。そんな存在は生きていたって周りの迷惑になる。だから死んだ方が良い。何より自分が死にたい。と自殺する場所を明確にした。自殺の名所が近所にある。電車の踏切だ。あそこはよく人が死ぬ。あそこなら死ねるだろう。あそこしかない。人間どうせ死ぬ。ならばそれが早くたって、明日だって構わない。なぜ死んではいけないのか理由が分からない。いやそんな理由なんかないだろう。死んではダメだと言う人間がいるのならその理由を教えて欲しい。ただ綺麗ごとを言うのではなく真剣に教えて欲しい。それにこたえられる人間などいるはずがない。だって人間いずれ死ぬのだから。≫

このような激しい希死念慮に襲われていた。襲われ続けていた。それがうつ病(重度だけだろうか)の怖いところだ。精神が休まるときがない。お願いだから明日が来ないでくれと思った。寝てる間にいつの間にか心臓が止まってくれればいいと毎晩布団の中で願った。

幸い、このような症状はデパス(ベンゾ系抗不安薬・色々と世間を賑わせた薬でもある)を一日三回飲むことで消えていった。
当時はデパスを飲んだが今は主治医はデパスは処方しない。
昔は良しとされていた薬が後になって良くなかった等ということが判明し処方されなくなる或いは別の薬に置換するのはよくあることだ。
よくよく考えてみればそれがとても怖いことなのだが。
周囲からの声にもとても敏感だった。
ほんの一例だがある地上波放送のニュースで女性アナウンサーが「精神障がい者向けのフットサルなどにも取り組んでおりますっ!」と言っている。
私はうつ病になる前に遊びでフットサルをプレーしていた経験があり、女性アナウンサーのその言葉に耳が反応した。
「精神障がい者?それって障がい者だろ?でもこの人たちフットサル出来てる。今の私はフットサルなどできない。この人たちよりはるかに状態が悪い!この人たちが障がい者なら私も障がい者だ!私は障がい者なのか?いつから障がい者になった?!」
等と女性アナウンサーの一言だけで激しく動揺した。

私は上記のような地獄の症状に苦しみながら、その辛さを母に吐露していた。
母は黙ってよく聞いてくれていた。
しかし母は夕方か夜には帰ってしまう。
病気は時と場所を選ばない。
夜に症状が襲ってきたときには妻に言いにくいながらも堪えきれずに吐露したが、すぐに「「死にたい」とかは聞きたくない」との返答有り。
ここで私は母と妻の圧倒的な差を知る。
母は年金生活で時間に余裕があり妻は仕事が忙しいので余裕はない。
仕事から帰宅し夫が死にたいと言っていればそれは堪えるだろう。
だが二回目でもう聞きたくないと言われてしまった。
おそらく母には200回は言ってるはずだ。
ここに親子と夫婦の違い或いは器(少なくとも私に対しての)の大きさの違いを感じた。
ここから私は妻にはほとんど何も言わず母に対して苦しいことを吐露していった。
こんなに苦しむなら生まれてきたくなかった。
何故私を産んだのかとも詰問してしまった。
そこまで苦しかったのだ。

苦しむこと四か月以降から徐々に回復の兆しが見えてきた。
毎日来てもらっていた母に悪いとの思いもあり3日に2日、3日に1日、と段々減らしていき、少しずつ外へも出れるようになった。
歩ける体力はなくとも原付なら何とか乗れる。
本当に人それぞれの症状が出る病気なので原付などとても乗れないという人もいるだろうが私は昔から原付や車を運転する仕事もしていたせいか問題はなかった。
ずっと布団の中や自宅にいたので風を切って走るのがとても心地よく感じた。
まずは寝ていられるマッサージなどに行くようになった。
すぐに済ませられる軽食をするようになった。
そのうち散歩も出来るようになり、外出がそれほど苦ではなくなってきた。
回復するにつれ、通院していたクリニックに併設されているデイケアという施設が気になってきた。
それは精神疾患患者の就労復職支援施設だった。

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