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書類上 〈最終回〉

 それから数年が経った。そのあいだに私は自分なりに努力をした。できることを探し、それを見つけたら実行した。そのできることというのは往々にして世間という表舞台においてできることではなかった。裏の世界で行う作業だった。それらをひとつひとつ並べ立てたところでたいして意味はない。どうしてもその内容を知りたい者がいればB級映画を見ればいい。硝煙のにおいのする映画を見ればだいたいのことが描写されている。

 例の容疑者は無事有罪となって物語は完結した。どういう理由で殺人を犯したかが明晰な言葉づかいで明らかにされた。どのような手段でどういうふうに被害者を殺したかが確かな筆致で語られた。そのストーリーは手際よく編集され、朝のテレビ番組によって全国と呼ばれる狭い範囲に向けて放送された。その説明により細かい描写をつけくわえたものがネットに流された。人々はそれらを消費した。また次の事件が起きたので世間の興味はそちらへ移った。私のところへも報道関係者がいくらか来た。かれらが私に語らせたがっていた言葉は要約すれば「犯人が無事逮捕されてうれしい」というものだった。私はだいたいそのようなことを、要求されるがままに語った。テレビ番組のスタッフがうちに来るときはたいてい空が青く晴れていた。私は敗北した。

 私は負けたのだ。ひとつの物語が勝利をおさめ、それ以外の物語群は駆逐された。このような結果になることを私は予想していなかった。心のどこかで起死回生の手立てを見つけた私が復讐の物語を語ることになるだろうと思っていた。わかりやすい物語、ある意味では安全な物語の横行を止めることができると考えていた。それはできなかった。私には無理だった。私にその能力はなかった。あるのはただひとつの明確な物語へどうしようもなく惹きつけられる私という人間の資質だった。夜の雲に乗ることはできなかった。それは不可能だった。はじめから不可能であることが約束されていた。

 私は探偵業をやめた。近所の企業の事務方になって金をかせいでいる。家に帰ればひたすら部屋にこもって文章を書いているのだが、それはただある種の昇華のためであって何につながるものでもない。実りある生産というものは私に縁がない。

 ある日、刑事が訪ねてきた。居留守を使ったがばれていた。仕方なく部屋へ招き入れた。そのとき行われた会話の中に書くべきものはなかった。私たちのひたいには物語の決着という烙印がしかと押されてあって、それが私たちの会話をさまたげた。やがて刑事は去った。彼が最後に何と言ったのか、それさえ私は忘れてしまった。

 私には探偵としての能力がなかったし、語り手としての能力もなかった。あったのはあの社員たちのほうだった。かれらはメディアを利用して大きな、わかりやすくとりつきやすい物語を構築して世に提示し、それが世間に承認された。そのかげでどのような作業を行なっていようとも、表に出た物語が人々にとってはすべての情報だから、裏の仕事が糾弾されることはない。

 私たちは敗北した。この苦味がなにかの利益につながることはなく、それはあらゆることの役に立たない。

 語り残したことはあるだろうか?

 無限にある。星の数ほどある。けれどそれらを私が語ることはないだろう。私はひとつの挿話を置くことでこの世に別れを告げるだろう。



 それは何の変哲もないビルだった。いくつかの小企業とサービス業の店舗が入っているようだった。玄関に郵便箱があってそれは私の興味をひいたが、後回しにすることにして、私は先を急いだ。

 もはや目的はなかった。意味はなかった。説得力のある物語の流れはそこになかった。私は自分でもなぜそれをするのかわからないまま前進した。階段を一段ずつゆっくりと進んだ。ポケットの中にあるものを握りしめたままで歩いた。階段を上がりきって一旦立ち止まった。呼吸を整えた。

 頭のなかで私の今までの記憶とこれからの想像が目まぐるしく渦をまいた。私がここに立っている意味とは何か? いや意味はない。ただ偶然のなせるわざだ。偶然のなせる罠だ。いや意思はある。自分で自分をここに連れてきたのだ。ではなぜ自分はそのようなことをしたのか? なぜ私は謎を謎のままにしておきたがったのか? 「なぜ」というのは物語の原動力だ。その問いに一言で答えられるようであれば物語は必要ない。

 だれかの足音が聞こえた。私は息をひそめて耳をすませた。足音は遠ざかっていくようだった。私は歩き出した。

 もう語ることはない。

 私は廊下を歩いていった。そのドアが近づいてくる。運命の? いやそのようなものはない。そこに意味はない。ただ選択の結果としてあのドアが目の前にあるだけだ。私はドアの前に立ち、それをノックした。

 だれも応えない。なにも聞こえない。

 もう一度私はノックした。いま私が謎になる。

 ドアの向こう側で何かが動いた。靴音が聞こえる。だれかが歩いてくる。こちらへ近づいてくる。私はドアをノックする。いま向こう側にだれかいる。鍵のはずされる音がした。

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