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書類上 〈第1回〉

 そしてドアが開いた。ひとりの男が現れた。彼は名乗らなかった。おのれの出自も職業も目的も言わなかった。なにかしら語るべき言葉をほかにもっていたのかもしれない。だが語りはじめることはなかった。それは不可能だった。私が彼を招き入れ、座るべきソファを指し示しているときにはもう彼の姿は捕捉されていたのだろう。彼が腰かけて両手の指を組み合わせ、ひと呼吸おいた時にはすでに彼の頭部は見られていたのだ。小さな破裂音とともに私の部屋の窓ガラスと彼の左耳の上あたりに穴が空いて彼の物語は終わり、ふたたび読み返される時を待つことになった。いま私がそれを読もうとしている。あのとき窓の向こうには灰色のビル群と青白い空しか見えなかった。男の遺体をまえにして、私が言うべき言葉は宙に消えたような気がした。もちろんそれはまだ生まれていなかった。そしてこれからさき続々と生成されるであろうといえる理由や根拠はひとつもない。



 警察官の制服はきわめて清潔に見えた。それにはほこりがひとつも見当たらないように思えた。おそらく制服の管理方法もまた厳しく管理されているのだろう。分厚いマニュアルが制服の管理や現場保存の方法について事細かに説明しているにちがいないと想像した。すくなくとも私への質問が終わればすぐに遺体とその周辺すなわち私の部屋をありのままの姿で保存する作業を始めるのだろうと思った。さしあたって作業開始の前に私との対話を始めるようだった。その警官はひとりで来た。彼らはたいていふたりで行動しているものと思っていたから意外に感じた。私がなじみの警察署へ直接連絡したことと関わりがあるのかもしれない。警官は室内へ入ってひとしきり遺体を確認した後ドアのまえに立ち、そこから動かなかった。第一発見者もまた容疑者であるというだけでなく、だれであれひとまず殺人現場の外へ出されるものと身がまえていたので驚いた。ドアのまえで遺体と私を視界におさめながら警官はしゃべった。黒い手帳とペンを持ってメモをとりながらも私の顔をちらちらと観察していた。彼の平静な態度は私に警察内部での厳しい教育を想像させた。

「では犯人に関して心当たりはないのですね?」と警官は言った。加害者と被害者のふたりともに思い当たるところはない、と私は答えた。相手は私の発言の後すぐにペンを動かすよりさきに一瞬こちらの表情を確認してから書きはじめた。彼はいったいどのような文体で何を書き記しているのか? それが私は気になった。短い文で要点のみを記しているのだろうか。外部の者には暗号のように見える記号や用語を駆使しているかもしれない。小さな手帳の白いページへ思うさま見たままを瞬時に書き入れるためにも訓練が必要なのだろう。そのように私は思いをめぐらせていた。

 室内で何かのすべる音がした。警官が「動かないで」と言い残して遺体に近づいていった。どうやら撃たれた拍子に被害者の左手がソファの肘かけの上に乗った、それがいま重力のせいで滑り落ちたらしかった。銀色の、文字盤の白い腕時計を着けた左手がまだ揺れているように見えた。おそらく錯覚だった。警官にうながされて私はビルの廊下へ出た。遺体とともに自分の部屋で時間を過ごすという経験はこれで終わりだった。その時ちょうど見はからっていたかのように、なにやら大荷物を抱えた警察関係者と思われる男たちが廊下の向こうから早足で歩いてきた。かれらは一様に私の顔をじろじろと見てから私の部屋に入っていった。ドアが閉められた。警察用語まじりの指示・報告の声が漏れ聞こえてきた。ドアの上部のすりガラス越しに男たちの影が動いて見えた。それはまるで渡り鳥の群れが宿と餌を求めて右往左往しているようであり、映画のなかで暗躍するスパイたちの影のようでもあった。私と彼の出会いはこのようにして終わった。



 私はゆっくりと警察車輌から降りた。すぐ灰色の大きな建物が目に入る。警察署の前面は陰になっていた。その後ろの空にはくすんだ白の雲が満ちていた。吐く息が煙草の煙のように可視化されたあとで消えていった。

 ふと目のまえを白い羽毛のようなものが漂っていることに気づいた。それを私は手ではらった。白い小片は私の手をかわして空中を漂いつづけた。横を歩く警官に目をやると彼の周囲にも白いかけらが舞っていた。「寒いですね」と警官が言った。それらが雪であることに私は気がついた。警官の言葉に共感を求める響きはなく、不要でしかない重い荷物を地面に置く時のような言い方だった。警察署正面入口に向かって私たちは歩いた。建物の壁を背景とすれば降り落ちてくる雪がよく見えた。

 狭い部屋に案内された。応接室というにはシンプルな内装だった。ソファがふたつ、テーブルがひとつ、窓はひとつ、装飾の類いはなし。抽象画も一輪の花もなかった。とはいえ取調べ室としては日常的・平穏的すぎるかと思った。私が取調べ室に案内される可能性はゼロではないはずだった。とりあえずの仮説として、まだ黒とはいえない灰色の人間に話を聞くスペースであろうと私は考えた。基本的にあらゆる人物を疑いながら観察するのが警察官という人間だと思う。案内してきた制服の警官が「お待ちください」と言って部屋の外へ出ていった。

 私はソファに腰かけて両手の指を組み合わせてみた。時間が必要だ、と自分に向かって私は言った。解きほぐすことが私にできるか? できなければ破滅するのではないか? 仮に私が事態を説明するだけの情報を集めて並べて仮説を組みあげることができるとして、それだけの能力が私にあるとして、はたしてその作業に必要な時間が私に与えられるだろうか? 私に残された時間は刻一刻と制限されつつあるのではないだろうか? 私は部屋を見まわしてみた。時計は見当たらなかったので自分の腕時計を見た。時刻を確認できたが、ただそれだけだった。ふいにドアが開き、ひとりの男が入ってきた。「お名前は?」と彼は言った。彼が質問者というわけだった。

 彼は明らかな事実をもういちど明らかにした。そのあとで「いいですか?」と言って胸ポケットに手を入れた。取り出したのは煙草の箱だった。当時はまだ分煙化が今ほど進んでいなかった。どうやら時間をかせぎたいらしい、と私は考えた。どうぞ、と言った。われわれのあいだにあるテーブルの上で、彼は銀色の灰皿を手もとに引き寄せた。「では失礼して」と言って刑事はライターを取り出し、くわえた煙草に火をつけた。煙が私たちのあいだの空間を漂いはじめた。

「どうなんです?」と男は言った。私はなにも言わないでいた。「どうなんですか?」と刑事がふたたび言った。

 どういうことでしょう、と私は応えた。

「実際のところ」刑事は煙を吐いた、そして言った。「知り合いですか? お友達?」

 被害者と加害者、ともに知る人物ではない。そう私はくり返した。ふうん、と灰褐色の背広の男はうなって目を伏せた。刑事の声は活動的な壮年のそれであり、こちらの腹に響くように思えるほどつやと張りがあった。彼の顔のまえで煙が渦や雲のように踊り、浮かんでは消えていった。わりあい高い頻度で男が煙草をふかした。われわれのあいだから煙の雲はずっと消えなかった。屋外から自動車のエンジン音が聞こえ、遠ざかっていった。

「正体不明の人物、といってもそのへんはいずれ明らかにしますがね、ひとりの男がやって来た。あなたのもとにね。なぜあなたなんです?」男は私に向かって問いかけた。「なにか頼み事があったんでしょうかね。あったんでしょうね。彼はどうやってあなたの事を知ったんでしょう。広告か何かを見て『この人だ』と思ったのかな。広告出してます? ああ、そうですか。そしてあなたに解いて欲しいと思ったんでしょうな、被害者は。なにごとか解き明かすなり解決するなりして欲しかったんでしょう。でも撃たれた。だめだった。彼は失敗したようです。それとも加害者が成功したというべきかな? 被害者にやらかした点はなかったのかな? どう思います?」

 私は黙っていた。彼は喋っていた。

「なにか被害者が殺される理由があったとします。加害者が殺しにおよばなくてはいけない理由がね。でも、なぜあなたの部屋で? しち面倒くさい狙撃を? あなたの仕業に見せかけたいなら他にやりようはあったはずだ。あなたと無関係の殺しなら、路地裏でひと刺しやっておけばいいものを。銃撃は証拠を残すのにねえ。どこから撃ったのか、何を使ったのか、だいたい明白になりますよ。いずれね。そのうちすべて明らかになりますよ。そう遠くないうちに。だから早いほうがいいですよ」と言って刑事は煙草を灰皿に押しつけて火を消した。

 何がです、と私は言った。

 刑事は言った。「語るべき時機です」そして両手を握ったり開いたりすり合わせたりしたあと、二本目の煙草に火をつけた。

 そのとき私の語ることはそれまでと変化のないものだった。それを受けて「でもねえ」と相手は言った。刑事の両目がこちらを見ていた。「無関係、と言われてもねえ」彼の眼球の白い部分がやけに目についた。

 私は煙草のにおいを嫌ってはいなかったが、彼の吐いた煙を吸うのは嫌だった。われわれのあいだには白いもやが立ちこめていた。刑事から吐き出された白煙は空気の流れに乗ってどこかへ行ってしまうわけではなく、テーブルの上の空間に入りびたっていた。私はできるだけ目の前の空気を吸い込まないように浅く呼吸した。そのためひどく息苦しくなってきた。自分の部屋で私はいつも定期的な換気を欠かさない。どれほど寒い夜であろうと一晩に一、二度はかならず窓を開けて新鮮な空気を入れる。それが今はできなかった。窓を開けてくれるよう頼むべきだったかもしれない。しかしなぜか私はそうしなかった。伏せていた目を上げると、刑事も大きな目をぎらつかせてこちらを見ていた。私は息を吐いた。そして吸った。

「どうしろって言うんです」私は喋りはじめた。「いわくありげな人物が訪れる、それが私立探偵の事務所でしょう。依頼者の人間関係の網の目がこじれていようが焦げついていようが、私に決められることじゃない。選べることじゃないんだ、どういう人間が私のもとを訪れるかはね」このときの私は単に苛立ちを抑制できていないだけではなかった。「私立探偵なんです、私は。事件を解決に導く。ある日出くわした事件の内情をつまびらかにするのが仕事だ。つまりすでに存在しているんですよ、事件あるいは事件の萌芽がね。私のあずかり知らぬところで発生して成長しているんです。それらが、すでに」私は喋らされていた。「だれが殺されたのか? なぜ撃たれたのか? だれが狙撃したのか? スポンサーはだれなのか? 私の知ったことじゃないんですよ、現時点では。だって今はまだ」と言って私は口をつぐんだ。

「まだ、なんです?」と刑事が言った。

 いえ、とだけ言って私は黙った。顔が熱くなり、こめかみに汗がにじむ感触を覚えた。

 このようななりゆきで私は敗北した。



 おたがいに相手のからだや髪をなでるのが常となっていた。そうして女と私はある種の確認と逃避の時間を過ごしているのだった。偶然や感情の振れ幅によっては足の甲や指先までも手指のはらで幾度もなでた。なでるたびに親密の度合いは増した。密になればおよぶ理解も深くなる。相手の情の揺れ動きや思惟の気配さえも感じ取れるようになる。そのようにしてふたりとも相手が恋愛状態からすでに脱しつつあることを察した。私たちはひとりで生きていくのが億劫だった。基本的にひとりが楽であると感じていながらも総合的に振りかえれば複数のほうが楽に時間を過ごせているとの結論に至った。そう仮想した。相手がいればつねに楽というのではないけれどもいたら安堵の時がある、というのは事実だった。すでに必要な相手ではなくなっていた。だが離れずにおたがいを通して自分をなぐさめているのだった。「どうしたの」と女が言う。「どうもしないよ」と私は答える。

「なにかあったんじゃないの?」と彼女は訊いた。訊いた拍子に髪が枕に垂れ、女の顔を隠した。

 なにもなかったよ、と私は答えるつもりだった。答えられる質問だった。なぜか返答するのが面倒になったので私は黙っていた。女はもうそれ以上尋ねることはしないでまた愛撫をはじめた。

 女のところへ逃げ込んでいる場合ではなかった。こうしているあいだにも公務員たちがしかるべき情報の摂取にはげんでいるはずだった。書類の往来がくり返され、履歴の数列が掘り返されて私の来歴は明らかにされていることだろう。私という人物をめぐる平凡な物語が書き上げられつつあるだろう。私は反論しなければならなかった。その論証とは彼について書くことだろうと私は考えた。頭に穴の空いた男。私の事務所のソファに血を垂らした男。彼を中心に置いて、彼をめぐる物語を書くことだろう。彼から伸びる線はやがてどこかのビルの屋上にいる狙撃手へ届くだろう。すぐにでも私は行動に移らなければならなかった。

 私はベッドの上でからだを起こした。「行かないといけない」と言って中空を見つめた。

 彼女は手をとめた。少し間を空けてから「どうして」と言った。その一言にはいくつかの意味が含まれていた。私にはそれらの意味を言語化することが可能だと感じた。しかしそのような言葉を脳裡で組み合わせてかたちにするのはやめておき、ただ「やらないといけないことがあるんだ」と言うにとどめた。

「やらないといけない」彼女はゆっくりと私の言葉をくり返した。そして言った。「それはなに?」

 彼女の質問について私は一瞬混乱した。女が聞きたかったのは「やらないといけないこととは何なのか」である、というのが穏当な解釈だった。が、私には「やらないといけないということ、その拘束機能とはどのようなものなのか」という質問であるように思えた。自分のなかで語のくり返しや入れ換わりが発生し、まるで道端にできた舗装のひび割れに足さきをとられて転びそうになった時のような感覚に襲われたので顔をしかめた。自分を落ちつかせるために私たちの言葉を頭のなかでくり返した。

 やらないといけない。それはなに?

 行かないといけない。どうして?

 もちろん社会的要請のため、自他のため、責任を果たすべきときは果たさねばならない。義務は義務として行わなければならない。だがそんなことはどうでもよかった。あるいは社会的破滅を避けるためだろうか。気にはかかるが重大なことではなかった。われわれの呼吸するこの虚ろな共同体のなかで象徴的に死んだからどうだというのだろう。だれもそのことを思い出しはしない。

 答えは簡単なことだった。ただ私が溺れてしまわないように。泥に足をつかまれて深い淵のなかへ呑まれてしまわないように。ただそれだけだった。

 私は起き上がって服を着た。女は寝返りを打ってこちらに背を向けた。私はベッドから降りて身支度を整えた。立ったまま煙草に火をつけて喫った。明かりをつける時間帯になっていたが、ふたりともつけようとしなかった。私は煙か雲になりたいと思った。そしてドアを開けて外へ出た。



 窓から日が差していた。ときおり雲が横切るらしく、陽光がとだえて椅子や机の影が薄くなった。そう間をおかないうちにまた明るくなる。そのたびに窓際の読者たちは腕の位置や本の向きを変えてページの白さを減らしていた。窓のそばからほかの席へ移るひとはいないようだった。窓際以外の席の雰囲気が暗かったからかもしれない。窓から離れた空間は人も空気も入れかわらない、古い本のにおいのたまり場だった。しかし(あるいは、ゆえに)私は隅にある日の当たらない席に座って本をひらいた。それはいくつかの国における、神の業や魔術が現実的に捉えられていた時代の伝説を集めた本だった。待ち合わせの時刻よりまえに書棚をめぐってふと手に取った。なぜその本を選んだのかと問われれば興味を惹かれたからとしか答えようがない。そしてなぜ興味を惹かれたのかと問われれば答えようがない。しいて言えば訳文の文体が気に入ったからという理由を私は挙げるだろう。記載の伝説は短いものが多かった。ひとつ読むごとに私は周りをぼんやりと眺めた。平日午後の図書館に利用者は少ないので過ごしやすかった。窓の外には青い空と白い雲が見えた。ななめに降り差してくる光線が微小なほこりの群れを浮かびあがらせていた。このままこうしていれば世は平穏無事に流れてゆくだろうと思えた。あらゆる職種の者たちが勤勉につとめて社会の歯車は円滑にまわり、空の雲は陽光の按配をほどよく管理し、時計の運動は片時も狂うことがない。どのような仕事もおのれの領分を守って適切に行われ、各種の領域は重なりあうことがなく衝突することもなく平和裡に交流が続けられてゆく。ある境界内から伸ばされた線分が他の領域内へ侵入してその中枢にある核を破壊するような事態は発生しない。そういった幻想を抱きながら私はまどろんでいた。きっとすべての公務は人々を保護し、暗殺者は殺されるべき人物のみを殺し、探偵はあらゆる謎を解き明かすだろう。ただ単に私が保護される者のカテゴリーにおそらく入っておらず、謎を解くこともできていないだけだった。今こうしているあいだにも暗殺者が窓の向こうの遠い屋上からこちらを覗いているかもしれない、ただそれだけのことだった。

 閲覧室にひとつしかないドアが音もなく開いた。まだ古びていないか、あるいはメンテナンスが丁寧になされているのだろう。まったくの無音だった。ひとりの女が立てる衣擦れの音が聞こえた。女は大きな薄いバッグを肩にかけている。ゆっくりと室内へ入り、軽くあたりを見渡しながら歩いた。床の絨毯が女の足音を吸った。蛍光灯がじりじりと鳴く音を私は聞いた。だれかがページをめくった。女は立ち止まることなく書棚のあいだを歩いていった。また誰かが次のページをひらいた。私は本を閉じた。だれかがペンで何かを書いている。女が或る書棚のあいだへ入りこみ、そこで立ち止まった。私が女の顔へ視線をやれば女もまたこちらを見ていた。私たちの視線の交錯には愛より遠く離れたなにかしらの感情がまとわりついていた。彼女が視線をはずしたのを機に私は席を立ち、部屋の外へ出ていった。

 廊下をいちばん端まで歩いてガラス張りのドアを押して開けた。ドアの外は人が三、四人立てるベランダのようになっていて、銀色の円筒状の吸殻入れが置かれている。私は煙草の箱を取り出して一本を口にくわえた。ライターを探しているうちにドアが開いた。煙草をくわえたまま「早いな」と私は言った。となりに女が立った。「遅いよりましでしょう」と彼女は言った。

「こうしているのもよくないんだから」と彼女は言い、バッグから煙草を出した。私はライターに火をつけて彼女のほうへ差し出した。彼女の煙草に火がついたのを確認してから私は自分のほうにも火を近づけた。私たちは煙草をふかした。煙は生まれたそばから風に乗って消えていった。

 彼女は空いているほうの手をバッグに入れ、A4サイズの封筒を中から取り出した。私がそちらへ手を出すと彼女は封筒をさっと遠ざけた。「悪いと思ってるの?」と彼女は言った。「いまさら感謝してとは言わないけど。多少の負い目は感じてるの?」

「悪いと思ってる」と私は言った。

「嘘を言わないで」彼女は煙草を吸い、煙を吐いた。そして私の胸へ封筒をたたきつけた。私はそれを手に取ってわきに挟んだ。胸ポケットへ手を入れて、そこに入っている茶封筒を取り出した。彼女はそれをひったくるようにして受け取り、すぐバッグに差し入れた。「確認しなくていいのか」と私は訊いた。

「あなたを信用してる、とでも言ってほしいの?」彼女は私をにらんでからまた煙草をふかした。

 俺だって信用してないよ、と私は応えた。

 それじゃ、と彼女は言って吸殻入れの中に煙草を落とした。

「もう行くのか」と言った私は煙草の先端に灰がたまっていることに気がつき、あわてて吸殻入れの上で煙草をたたいた。

「なんの話をするの」外はまぶしくもないのに彼女は目を閉じた。「なにを聞かせてくれるの? 殺人事件の話? 情報漏洩防止のためのセキュリティ改善について?」

 私はため息をついた。「悪いと思ってるよ。本当に」煙草を吸おうとし、やめた。「ありがとう」

 金額の問題じゃないんだから、と彼女はつぶやいた。

 感謝してる、と私が言ったときにはもう彼女はドアを開けて廊下に移動していた。別れの言葉を言われなかったことでかえって私は安心してしまった。風が強く吹いて灰が散った。煙草の火はもう消えていた。そこにいる理由がなくなった。

 閲覧室に戻っても利用者の顔ぶれは変わっていないようだった。もしかすると私が気づいていなかっただけかもしれない。少なくともさりげなく喫煙所まで追いかけてくるような人間はいなかったし、私や彼女を追跡している人間はきっとこの部屋にいないだろうと考えた。私は封筒の中身を取り出して机の上にひろげた。数枚の書類が入っていた。私は記された文字列を注意深く追っていった。ところどころの文や固有名詞、数字等が黒く塗りつぶされていた。読める箇所は短時間で読み終えることができた。私にわかることはないということがわかった。

 私は机に置いてあった本をひらいて読みはじめた。閉館までには多くの時間が残されていた。未読のページは九割以上残っていた。私はそれを読みつづけた。あるいは読んでいる振りをしていた。もう窓から陽光は差してこなかった。知らない名前の遠い土地にしみついた、数奇な宿命をたどる者たちの伝説のために私は時間を費やした。



 男は扉を閉めた。その瞬間すでに悪魔は部屋の中へ這入り込んでいた(注:悪魔とされるものはバージョンによって魔獣、妖精、あるいは天の御使いとなっている)。男は何ひとつ気に留めることなく元の生活を続けた。魔的なものの侵入を避けるため厳重に戸締りを確認していたので、安心して暮らした。男は手仕事を得意としていたから街へ売る品を懸命に作った。革を叩いて編んでひとつ出来ればふうと息をついた。またひとつ作ればふうと息を吐いた。それらの息をひとつひとつ悪魔は集めてまわった。集めるごとに悪魔の体躯は大きくなった。男と悪魔はそれぞれのなすべき仕事を続けた。七日で男の背丈を悪魔のそれが超えた。その間も男は家にこもって寝ずに働いた。七週で悪魔のからだは男の家を満たした。その頃まだ男は寝ずの仕事を続けていた。やがてとうとう力尽きて床についた。そのまま起き上がることなく七年が過ぎた。

 ある夜、何者かが戸を叩いた。男は応じなかった。するとまた誰かが家の扉を叩く。男はうめき声をあげた。まだ戸を叩く音はやまなかった。その音をとめてくれ、と男は叫んだ。とめて良いのか、と誰かが言った。男は驚いたが、ああ良いぞと答えた。ではそうしよう、と悪魔は言って男の心臓をとめて魂を抜き取った。悪魔は家の扉を開けて外へ出て行った。男のからだは灰になって崩れ落ちた。



 夜、ホテルの中は部分的に照明が落とされていた。というより部分的にしか照明を点けていなかった。正面玄関とフロント周辺、エレベーター周りを過ぎればあとは薄暗い廊下を歩いて行かねばならなかった。すでに自分の事務所兼自宅へ帰ることは許可されていたが、この仄暗いホテルを気に入ったという見せかけの理由によって滞在を続けていた。自分の部屋へ帰るとまずカーテンを閉めてから明かりをつけた。ドアのオートロックが正常に作動しているかを確認した。酒はもう飲んできたので、茶を淹れた。ティーポットのそばに封筒と借りてきた本が置いてあった。私はベッドに腰かけて煙草に火をつけた。

 情報獲得への試みは失敗と言っていい結果に終わった。昔の知人に迷惑をかけて不快感を与えただけだった。すでに撃たれた男の氏名・年齢・住所・職業等は明らかにされていたし、私への情報共有と事情聴取は複数回行われた。私に与えられる・私から与えられる決定的な情報は見つかっていなかった。刑事たちと私は進むべき道の見つからなさに関してのみ互いに同情の念を覚えることが可能だった。道標の有無にかかわらず、われわれに停止することはできそうになかった。警察の人間たちは組織の運動を止めることができず、したがってエンジンの回転数に関与できないただの車輪のように日々はたらいて見えない連関の糸を探しつづけるしかない。私はといえば投獄される可能性を無視するならすべてを見なかったことにして日常生活の運転をつづけてもよかった。場合によっては投獄されてもいいと考えていた。留置場の一室というのがどのような空間なのか興味がなくもなかった。ただ逮捕とはすなわち私の想定と異なる物語を自分に当てはめられることであり、それだけは避けたいと思った。見たこともない情報と聞いたこともない仮説で組み立てられた箱のなかに監禁されるのはいやだった。さらにいえば撃たれた男の姿を思いかえすたび、私の奥底からろくでもない感情のかすが湧き上がってきてそれは確かに身体と精神の二分法に異をとなえるほかない仕方で私の全身に気怠さをまき散らした。これが進行すれば、胸の奥にじわじわと重みが発生して知らず識らずのうちに上体は前かがみになる。街中の広告やテレビの映像に嫌悪感を覚えるようになり、見聞きするあらゆる物事が私を責める徴しに思えてくる。音楽の味がしなくなり、文章の香りをたどれなくなる。おそらく末期にはどうすれば自分を狙撃してもらえるかの検討に入るだろう。私は自分があの頭に穴の空いた男と同化するようなことは避けたかった。避けたいと考えることがまだできていた。

 だれかがドアをノックした。

 私は肩をこわばらせた。それを自分に対してごまかすように煙草をふかした。青白い煙が立ち昇るのを目で追いながら、なにか建設的なことを考えようとしたができなかった。ホテルはすでに夜間の体制へ移行していた。私は鍵のかかった薄いドアのこちら側にひとりで座っていた。窓の外は自動車の往来する交差点の上空だった。来訪者が日常的な交流をはかりに来たとは思えなかった。あるいは夜の商売をしている人間か、と私は考えてみた。もしくは同じ階に宿泊している客がなんらかのクレームを持ってきたのかもしれない。それとも無名の泥棒が何かを盗みに来たか。それらはいわば期待をこめた予想だった。金品であれ謝罪の言葉であれ、何かを受け取れば退却するというのであればまだ許容できるかもしれなかった。拒否せざるを得ないのは私に何かを与えに来る存在だった。銃弾であれ脅迫の言葉であれ、何かを与えるまで帰らないというのであれば私は逃げるしかないのかもしれない。脅迫の場合、言葉だけでは終わらないことが往々にしてある。物理的な処理をともなうほうが高い抑止効果を期待できるからだ。私はスタントの訓練を受けていないので映画の中の諜報員や元特殊部隊員のように大立ち回りを演じることはできそうになかった。ノックに反応すべきではないと考えた。しかし私は立ち上がって歩いていき、ドアの鍵を開けてしまった。

 ひとしきりドアのまえで煙草を吸った。灰が落ちそうになったのでベッドの横の机へ灰皿を取りに戻った。ふたたびドアまで歩いた。その間なにも音は聞こえてこなかった。だれの声もしなかった。廊下にもカーペットは敷かれているし、私が気づかないうちに来訪者は去っていたのかもしれない。あるいは私の立てる物音にじっと耳をすませながらドアの向こうに立っていたのかもしれない。私は灰皿を片手で持ち、他方の手で煙草を吸いながら待った。何かが起きるのを待った。

 やがて煙草が燃え尽きた。吸殻を灰皿に落として、さらに私は待った。自分の呼吸する音が聞こえた。私は灰皿を床に置いた。手をドアノブにかけた。そっと力をこめてノブを回した。ドアは固定状態から解放され、ゆるやかに内側へ向けてひらいた。私はドアノブを握ったまま後ろへ一歩下がった。薄暗い廊下が見えた。だれの足も顔も見当たらなかった。廊下の白い壁にかつて誰かのつけた汚れが見えた。私は部屋の外へ出た。右へ行くと鍵のかかったドアに突き当たる。左のいちばん奥には非常口の緑色灯がともっていた。だれも廊下にいなかった。私は周りの床を見渡してから室内へ戻った。ドアとその周囲も調べた。メッセージらしきものは見当たらないことで私はようやく安心してドアを閉じた。鍵のかかっていることを二度確認した。机まで歩いていき、その上の本を手に取った。私は本を開きかけた。やめて机に戻した。代わりに封筒を手に取って中身を取り出した。あらためて数枚の書類をめくってみた。私はため息をついた。

 翌日、ホテルの部屋からいくつかの電話番号へ連絡した。そのうち有効な番号は三つあった。三つのうち対話の成立したのは二つだった。私は手帳にそれらの番号とともにふたつの住所を記した。午後、部屋を出た。



 ひとりの男が部屋に入ってくる。彼はなにかしらの目的をもってきた。ただし、それを語ることはできない。私が彼を招き入れた。私の事務所であり自宅である狭いビルの一室へ、その男は入ってきた。私と同年代の、初対面の、どのような人生を送ってきたかある程度の想像ができる・ある程度の想像しかできない男。彼は謎を持ってきた。あるいは彼が謎になった。彼は自分が射殺される可能性についてどれくらい思い描いていただろう? 私は彼に出会うまで考えたことがなかった。射殺されて永久に何も語ることができない状態に自分が置かれると想像したことがあるだろうか。きっとないだろうと私は想像する。だがこの憶測は何かにもとづいたものではない。私自身の能力・経験に応じて広げられる範囲の内側で思い描いたことでしかないのだ。私は彼の語ろうとしたことを永久に知りえない。推測するしかない。ていねいに事実を積み上げれば見えてくるものがあるかもしれないが、そのとき私の見るものとはやはり私の書く物語にすぎないだろう。いくつかの事実が点の集合となって現れた時、点同士を重ねたり結びつけたり複雑な立体の各所に配置したりするのは彼でなく私である。だれが・いつ・どこで・何を・どのように行なったか? その問いが、その答えがいったい何を語るのだろう、彼に語ることができないならば? 確かな情報と論理による構造物は私と彼に安息をもたらさないだろうと考える(これさえも私の身勝手な決めつけだ)。私がドアを開けてわれわれの視線がぶつかりあった瞬間、わずかに口をひらいて挨拶するかと思いきや無言のままで室内へ入ってきたあの男、彼、午後の雑居ビル群のあいだを歩いているにふさわしい何の変哲もない出で立ちでとくに印象深くもない顔つきで私の部屋へ入ってきて無言のまま撃ち殺されたひとりの男。彼の物語は目に見える情報群が描きだす図形ではない、と彼の最期の顔を見た私は考える。あの撃たれた男の物語はどこかの、何かの余白にしか存在しない。それはまだ書かれていない。彼は謎になった。私がそれを解く。

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