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書類上 〈第6回〉

「もしもし、わたしです。別のだれかじゃない。わたしがこれを喋っているんです。聞こえてますか? 理解していますか? わたしにはわからない。わかることなんてないんですよ。ひとまず喋ってみて、とりあえず実行してみて、それで初めて理解するんです。というか理解したふうなふりをします。理解するってことはそれの深みにはまるということでもあるんです。それの領土を承認するということです。なにか理解されたがっているものがあるとして、それのことがわかるというのはそれに割り当てられた境界線を認めて、ほかのものから区別されているその分かれ方を承認するってことなんですよ。わかりますか? だれがその境界を定めているのか。或る場合にはだれでもない。それをめぐる呼応がくり返された結果として分類が成立する。呼信号が送り出されてそれを受け取っただれかが応信号を送り返して、というそのやりとりが無限回くり返されている。その合間に気づいたら境界線が成立しているんです。信号は攻撃であり防御でもあるが、それを反復するうちに大体このあたりだろうというラインが露わになってくる。おたがいの攻防によって各所で前線の進退があって、最終的に境界線が決定されるわけです。もちろん暫定的な、あくまでその時点における分かれ目が定まる。さらには信号のやりとりの途中でこぼれ落ちた破片やばらまかれた粒子がふと見れば別のラインを形成していて、それらもまた流動的ではあれ、ひとつやふたつの境界をかたちづくる。あらゆる流動的境界において、それを見てその深みにはまり込んでみないことには理解が発生しない。境界を認めなければ理解できない。わかることは分けることだ。だから分類は悪だという派閥もあるんですよ。だって分けるんだから。切り離すんだから。これは東、それは西、といったぐあいに。連続する河のその部分は北、ある部分は南、といったふうに分類する。分けて把握する。つかまえてしまうんですよ。逃げられない。逃走は許可されていないんです。だってそれは境界線の破壊につながるから。わからなくなるから。わからなければどうなりますか? 混沌だ。ほんとうのカオスを見たことがありますか? たとえ想像するだけでも恐ろしいですよ。闘争は許可されていないんです。だってそれは地獄ですよ。だからわたしは理解したふうなふりをする。ひとたび境界を承認してしまえばもうそれから逃れるすべはない。だからといって闘争はできない。それはきっと殺害に帰着する。だからわたしは理解したふうな振舞いをするんです。そのふりをして逃げるんですよ。わたしは自分がわからない。おのれの分がわからない。わかったふりをして逃走する。欠かせないのはスピード。速度こそが生きのびるための技術なんだ」

「神の技術とはいかなるものなんでしょうか? それをわたしが言うことはできない。どうしても無理だ。神性とは何か? そんなことを知るのは不可能だ。知ることができない、それこそが神性なのかもしれない。神が存在するとしたら、つまり仮の話、もしもの物語ですが神が存在するとしたらきっといたるところに存在していることでしょう。それはたぶん間違いない。あらゆるところに存在する。場所として数えることができないところにさえ存在しているはずだ。それが神的な存在なんだ。ところでそれはもはや技術なのではないか? とわたしは思うんです。そうじゃないですか? 技術はすでにわれわれの目が届かないし触れることもできない場所へもその手を伸ばしている。技術を操るのはわたしたちだし、それをかたちづくったのもわれわれの中の技術者・研究者・開発者たちではあるんだが、その技術というのはもはや自立して発展する森のようにわれわれの都市のあらゆるところへ浸透している。本当はだれかが日夜努力をかさねて浸透させているんですけど実際もうそれは自立して自生しているかのようにそれ自体として浸透し存在しているといっていいんじゃないか。ちがいますか? それほどそいつらの存在感はひどいものですよ。降り落ちてくる雨粒のように、ひとが吸い込んでは吐き続ける息のように、空気のように、そこいらに充満している。ただし見えていない。もちろん見えているんだが、視覚的にそれがそれであることが明確なんだが見えていない。雨が降ってきたからといって雨粒の数をひとつふたつとかぞえ始める人間はいない。幼い子をのぞいて。もはや当然なんだ。それらがそこにあることが。それらを利用するために端から端まで技術で充満させ尽くそうとするのがわれわれだ。しかしもはや意図的に神を呼びよせようとする必要もなくすでにそれは実在してあたりを、つまりこう言ってよければ世界をそれに可能なかぎりの速度でそれ自身の身体で埋め尽くそうとしつつあるんですよ。だからといって技術をめぐる悲観論をぶちまけようというんじゃない。ただそれがそのようにある、現在それはすでにつねにそのような存在としてこの世のそこいらを回転しつづけていると言いたいんですよ。神の気配といえそうなものをわたしは感じたことがない。でもおそらく今においては技術の気配がそのような朧げな存在の音や香りに当たるんじゃないでしょうかね。わかりますか? つまり今となっては技術が自然化しているんですよ。そこらじゅうにあるのが当然であってもはや人はいちいち見向きもしない。かわりに猟人をさす虎の視線のようにレンズがこちらを向いている。支配して制御しながら監視をつづけていると思いきや実はもう見られはじめているんじゃないのか。いや、たしかに高感度センサーにつながる配線を辿ってゆけば最終的に帽子をかぶった警備員とかに行きつく可能性もある。人が人を見ているだけ、そう言えるのは確かです。そうなんですが、だんだんと見えなくなりつつあるんじゃないかと思うんですよ。通信回線のあちら側にいるだれかの存在が希薄になりつつあるのじゃないか。想像力の問題とかを言いたいのではない。あいだにある技術という空気が分厚くなって濃密になってもはやだれと通信しているのか不明瞭になってくる。だれかと対話しているというより何かそのかたちづくられた自然としての技術的動物とコミュニケーションをとっているみたいになりつつある。そう思うんですよ。そう見えているんですよ、わたしには。おかしいですか? わたしはおかしいのだと思います。だってもう強迫観念なんですよ。いま喋ったことが。レンズがこちらを見て、センサーがこちらを観ている。それらはわたしのデータをとっている。わたしの情報を取得しつつあるんですよ、今こうしているあいだにも。自覚しています、わたしは異常であると。でもこれは事実なんです。わたしは見られているし、情報を抜き取られつづけている。すでに大量の超高感度センサーの粒子が全世界的に気象装置の助けを借りてばらまかれているんです。あらゆるところにそれは存在している。数としてかぞえられない場所にさえも充満している。それらは無数の通信回線をつうじて互いに情報交換をめまぐるしい速度で行なっている。交換の頻度と速度は計測できない。技術的には計測できるはずなんだが、もはや実質それは無限と言っていい。わたしたちは無限に見られている。だから技術を破壊すべき? そうじゃない。われわれがそのようにして監視され、読まれ、語られているということを知ってほしくて連絡しました。また電話します」

「わたしに電話しました? していない? だれがわたしの電話番号を盗み見たのだろう? だれかがわたしに電話をかけてきたんです。知らない番号でした。どこでわたしの個人情報を知ったのだろう? それは謎でしょうか? ある意味ではそうかもしれない。けれどそれは解くべきものではないのかもしれない。わたしが解くべき謎はほかにあるのではないか。そう感じるんです。結局だれがその番号をどこで入手したかというのは瑣末な問題だ。だってわたしの番号はきっとばらまかれているんだから。散布されているんです。わたしの情報が。わたしという情報が噴霧機械で世のあらゆる流通網のはるか高みからまき散らされているに違いないんですよ。そうでなければ一体だれがどうやってわたしに電話をかけてくるというのか。わたしの電話番号はすでにこの世のありとあらゆる地下通路の隅でささやかれ、電気信号となって通信衛星間と青空と海底回線上をかけめぐっているのだろうと思うんです。そして大量の情報群のひとつの粒子となったわたしの番号は他者のそれらと重ねられまとめられ分類されて取引されている。売買が成立しているんですよ。なんの変哲もないわたしという存在がある種のパラメーターに変換された直後、ビジネス機能が活発状態になってその真価を発揮する。きらきらと信号のやりとりが可視化されて各所で行われている駆け引きの内部にわたしの数字も組み込まれる。そしてわたしに電話がかかってくるんです。見えない状態で常日頃行われている取引・情報の受け渡しがわたしからも見えるようになる。たとえ取引要素のひとつであるわたしに見られたところでかれらは取り乱したりしない。かれらは堂々とした態度でこの地球全土とその周囲の宇宙空間を賭けの道具として活発に駆け引きを続けているんです。その材料がたとえばこのわたしというわけですよ。かれらは現在まで蓄積してきた情報をこねくりまわして秘儀をつくりあげた。それを使ってわれわれの棲むこの球体を巨大な魔法陣で覆い尽くしているんですよ。その儀式はたとえばこのわたしの家の窓際の電話につながる通信回線網を支配下において錬金術を実行するんです。からの数字と固有名詞、それ自体ではなにも中身のないデータを別の材料と結合することで情報へと変化させ、なにもないはずの空中から純金めいた価値を生む。それは昼夜を問わず永遠に行われつづけている。たとえ逃げおおせたと錯覚しても実はまるで逃走できていなくて翌日の朝にはまた電話がかかってくるんですよ。でなければわたしが受話器をとって『もしもし』というはめになりはしないんですから。わたしの電話にかけてくる人なんて本来いないはずなんですよ。今わたしはすでに本来あるべき生活から離れさせられている。もともとの孤独な籠城が正体不明の通話者によっておびやかされているんです。いまさら誰がどこでとかいった問いを立てる必要はない。それはすでに行われているんだから。それは自然環境のようにわれわれを取り巻いているし、われわれの中に浸透している。そのような状況下において本来解かれるべき謎とはすなわち、それらの盗み見られた情報群を用いていったい何が行われようとしているのか、そのことなんですよ。これは飛躍していますか? そんなことはないでしょう。だって情報の奪取は数かぎりなく際限なく行われているけれどもそうやって蓄積されたものが分析された結果なにがどこへどのように出力されるのかというのは当然問われるべきところだ。われわれの息をしているこの世に何かが出力されつつあるんですよ。それはいつの時代であってもどこの世界においても行われてきた。呼吸と同じですよ。吸えば吐く。集めればまとめて整理する。そこからまた例の抽象が始まるんですよ。この世の真理という看板をつけた言説が導き出される。ありとあらゆる時空間から集められたデータ群が整理・分類されてそこからひとつの仮説の形成が始まる。独裁が始まるんですよ。それは共和制でしょうか? 否。たとえ頭数をたくさんそろえて投票用紙を箱に入れてもらってまわるとしても結局最後にはひとつの仮説が採用される。そしてその物語を全世界的にひろめようと画策する。それがその情報群という生命組織がたどる運動なんですよ。それはもう遺伝子という情報の箱にそなわっている仕組みというか仕掛けなんです。抽象という独裁政治。言論の統一。多声の否定。それは快楽ですよ。ひとつの仮説の心地よさといえばそれは確かにこのうえないものだ。美しいものだ。だからそれがあなたの私立探偵としての仕事の美学にもつながっている。つまりあなたもまた独裁者なんだ。抽象することは楽しいでしょう? そうじゃないですか?」



 ふたたび受話器を耳に当てた。コードのかすかな重みが右手にからまる。

「もしもし」と私は言った。

 返答はなかった。一定のトーンを保つノイズが聞こえていた。それは風のようだった。



 客足はけっして多いわけではないようだった。それでもいくつかの長机のまえには短い行列があった。売る側にも買う側にもわりあい女性が多いように見えた。性別にかかわらず眼鏡をかけている若者をよく見た。室内は人出のわりに静かで、みな声を抑えて商談をしているらしかった。同人という不思議な単語のちらつく界隈に来るのは初めてだったので少し目移りした。どの売り場にもある程度の厚みをもつ冊子が置かれていた。買い漁って見るのも面白いかもしれないと私は思った。開場してからだいぶ時間の経っているときだった。すでに売り場をたたみはじめている者もいた。外ではまだ日が差していたけれども窓のブラインドは閉じられていた。蛍光灯だけが室内を照らしていたので中を歩きまわっていれば今が昼なのか夜なのか不確かであるような感覚になった。目当てのブースを探し出すまでにそう時間はかからなかった。彼女から聞いていたとおり、買い手も立ち読みする人間もいない売り場を見てまわればやがて目的の場所にたどりついた。長机の向こう側で「来た」と少女は言った。「買いに来た」と私は言った。簡易カウンターの上には白い表紙の冊子が二十部くらい積まれていた。「これが君の最初の作品集というわけか」読んでいいかと私は尋ねてから一冊手に取った。ぱらぱらとめくってはみたものの、周囲からひそひそと聞こえてくるささやきのおかげで言葉が目に入らなかった。私は最初のほうのページを探しながら「あれは入れてあるの?」と訊いた。「どれ?」「夜の雲のやつ」「あるよ」と彼女は答えた。私はあちこちめくりながら「目次がないんだね」と言った。「目次はないし、題名も奥付もないよ」彼女はわずかに得意げな調子を含ませて言った。「ただ言葉を並べてあるだけ」「いいね」と私は言った。その冊子の表紙はただの白紙であって何も表記されていなかった。「『夜の雲』が気に入ったの?」と彼女が訊くので私はうなずいた。「どうして?」「どうしてだろうね。意味を考える必要がないからかな」ほとんど何も考えないうちにそう言った。「てことは近いんだ。言葉が。自分の感性と近いところでその言葉が成ってるから何も思い悩む必要がなくて語群がすっと入ってくるのかもね」そう彼女は言った。ごぐん? と訊いたら「語の群れ」と彼女は言い直した。私の感性・心・なにかそのようなものと近いところを漂う語群。確かにそうかもしれない、と私は言った。

 詩集を裸で持ち帰ろうとしていたら別の売り場から声をかけられた。ちょうどよいサイズの紙袋を販売していた。それに彼女の本を入れて外に出た。街はすでにオレンジ色の光で照らされていた。いつもは通らない道を歩いて帰った。空気が澄んでいるように感じた。ゆるい風はほどよい冷たさだった。世のあらゆること・ものが私自身を含めて世間を肯定しているような錯覚に陥るこういうひとときを思い返してあとから気づくのはこの類いの時間に自分が悩みの種をわざわざ探して列挙するような行為はしていないということだった。通常の日々においてはやらなければならない作業や返さなければいけない連絡のことをつねに想起している。ほとんどつねに延々と考えつづけているのだ。古代の哲学者のように付属物の削ぎ落とされたひとつの命題について真剣に考え込むわけではない。ただだらだらと自分の両肩や首にかかる重荷の解きかたを生活における日常業務のひとつとして考えているだけだった。ふと気づいたらそのようなだらけた思考がなくてもなんら不都合のない状態で時間は流れている。生活のうまいひとはこのように時間を過ごしているのかもしれないと思った。そういう気づきはたとえば詩集を読みふけって次の瞬間ふと顔をあげた時などに訪れる。風を通す不思議な言葉の並びに身をひたしたあと、ふと振りかえって偶然ひとも車も完全にいない黄昏時の交差点を目にしたときなどに。



「それでも」女は私の名を呼んだ。「あなたは意味がないという意味を、物語のない物語を求めているんだ」



 夜の雲に乗ることができた 真昼の青い空に浮かぶ白雲ならばともかく深夜の輝く雲の群れにはたやすく乗られるものではない このような試みを行う者は昔からいてたとえばここにひとつの手記が残っている このような類いの古書を置く書肆はひそやかに或る路地の一角でまだ息をしているから遊びの時に行けばよい 手記は以下のように冒険への熱狂を示してはじまる

「千の時を超えていまその境地に辿りつく 月よ これ以上わたしの血を熱してくれるな 今宵その光線がまばゆくてかなわない いま必要なのは飛行機乗りの矜持ではなく 鉱石の性格をそなえた魔術師だ この旅程の記録は時を超えて伝わるだろう あらゆる世界の祝福を寄越せ なにしろ夜の雲に乗るのだから!」

 真夜中の静かな駅に降り立つ その瞬間の目まいが旅のはじまりだった 開幕の音楽はすでにひそかに演奏開始されていた 交差する線の束の上を列車がすべり闇の向こうへ消えた 酩酊の理由はこの際かかわりのないことでただ偶然のからくりが導いただけだと思う 円形ターミナルでタクシーとバスが踊り回っていた 街灯の列はうやうやしく礼をしながら明滅して暗号を送っている 自死の試みにおける失策について思うのをやめてふと見上げたら天の一角に輝く雲の船団があってああ永い旅路へいまゆくのだと気づき黄金の縁の雲塊へ合図を送ろうとした時 頭の芯が地下からひっぱられるような感じがしたと思えば天球がぐるりと回転した 白い鋭い刃のような月も高速移動するなかで輝く雲の塊が千の破片に分離してあちらこちらの名づけられていない方角へばらばらに飛散しはじめてわたしはそれらの破片のひとつひとつの行方を追跡しようと意識を夜空に集中したがもう立っていられなかった 脚の力がぬけてからだは後方へたおれゆく きらめく雲のかけら達はいっせいに高速でうごめいてその軌跡しかとらえ得なくて雲自体の行方はとても追いきれない なんとかしてその無数の雲の破片の乱れ飛ぶさまを確認したくて目を凝らしたけれども見えたと思えばそれはすでに飛び去った後の残りかすでしかなくその破片の残影だけでも必死に見据えようとしたが全然だめで結局これが無理というものかと息を吐くほかないのだった そのとき拡大された時間のなかでたおれゆく自分のからだの芯から手指の先へ不可能という名の毒がじわじわとしみゆき始めたものの意外とそれは快楽だった そして全霊で知った いま旅がはじまったのだ 夜の雲に乗る旅が



 背後からだれかが私の名を呼んだ。男の声だった。ふり返りたくなかった。湿気を含むぬるい風が顔に吹きつける。空には灰色の分厚い雲が流れていた。私たち以外にそのテラスに出てくる客はいないようだった。私は椅子の上で脚を組みなおした。冷めたコーヒーを一口飲んだ。話したくないのであればそもそも来るべきではなかったし、電話がかかってきた時にまともな対応をせずに切ればよかった。しかしそうすることができなかった。なぜだろう、などと考えていたら男はもう私の正面の席に腰かけていた。「どうしました。体調が悪いんですか」と社員は言った。私はなにも答えなかった。煙草に火をつけた。すると「ああ、はい、遠慮しないで吸っていいですよ。やっぱり喫煙席のある店にしておいてよかった」と彼が言った。どうしてかはわからないが私はいま火をともしたばかりの煙草を相手の顔めがけて投げつけたくなった。かろうじて「あの記事はなんですか」と言うだけにとどめた。

「あれですか。読まれたんですね。面白かったでしょう?」と男は言った。

 私は反射的に言い返したいという気持ちを抑えられなかった。「面白かった? 身内の死に関する自分のインタビュー記事が面白かったかと訊くんですか」そこまで言って一旦やめた。なぜかこの相手に対しては喋りすぎないほうがいいと思えた。警戒を解くべきではないと考えていたのだが、その理由は自分でもわからなかった。

「身内。まあそうですね」と男は言った。「たしかに彼はうちの社員でしたからね。仲間だった。それは間違いないことです。けれど、なんていうのかな。あなたはフィクションについて考えたことがありますか? 物語というものについてです。それは本当のことではないんですよ。現実から切りはなされたものなんです。どうせ事実とは異なるおはなしなんだから、ある程度冒険していいかもしれない。そう思いませんか。あの媒体は報道というよりエンターテインメントに寄ってますしね。エンタメ報道というか。けっきょく商売でやってるんですよ」

 あなたの倫理観はどうなっているんですか。そう私は言ってみた。まともな答えを期待しての問いかけではなかった。

「言われてみれば一般的ではないかもしれませんね、倫理に対するぼくの考え方は。この世界の醜いところを日常的に見ていますから。医者や警官と少し似たようなところがあるかもしれない。犯罪に対する一般的感覚を失ったわけではないんです。前科はほしくないし、痛ましいニュースを見て憤りを覚えることだってある。だからそういう感覚がないわけではなくて、それ以外のどこかが麻痺しているんですね。機能していないんです、ぼくの中の何かが。それは自覚しています。医者にかかればきっと何らかの病名が持ち出されるでしょう。でも仕方ないことなんです。悪に触れすぎた。業界の黒い部分をたくさん見てきたし、それはすなわち人間の暗い部分をいやというほど見てきたということです。人間の醜悪さについてはいまさら改善できると思っていない。性善説は燃えないごみの日に捨てました。善悪という分類ほど意味のないものはありませんよ。ある一定のラインを越えたときにはね、それの意味はなくなるんですよ。そしてぼくらはその境界線を越えた。或る閾値に達してしまったんです。白と黒のボーダーライン上を踊りながら歩いているうちにね。黒に染まってしまったというわけじゃありません。黒をも取り入れて、白黒の分類を超えた位置に達したんです。それらを俯瞰して見ることのできる場所に到達したわけです。そこから見える景色は面白いですよ。そこではもはや人は情報のひとつにすぎない。データなんです。無慈悲だと思いますか? そうじゃない。医者が患者の腹を切開するのと同じですよ。やっていることを記号的に見れば殺人者と似ているけれど、そこに乗っかる意味や物語が違うでしょう。ぼくらだって人命がどれほど重い情報かは知っていますよ。ただそれが情報のひとつであることに変わりはない。それが情報であるからには他のデータと同様に扱うことが可能だし、そうすべきだ。ぼくらは情報をうまく処理する道具を持っていますからね。有用なツールを腐らせておくわけにはいかないでしょう。それを使って高度な、つまり善悪を超えた高みにおける情報処理をくり返せばもっと面白い景色が見られるかもしれない。むしろそんな景色を作り出せるかもしれないんです。立ちどまって傍観していろというほうが酷ですよ。そしてそういう景色の一端を物語形式でフィクションをまじえて説明したのがあの記事なんです」

 店員がわれわれのテーブルへ近づいてきた。私が身振りで追い払った。それについて彼は何も言わなかった。私はコーヒーを飲み、煙草を吸った。数回の呼吸のあと、ふたたび同じことをした。空の雲は低く流れ、その色は濃くなっていた。私たちのいる場所には屋根がなかった。雨が降ればそれを防ぐ手立てがないのだった。いまにも雨は降りそうだった。まだ降っていなかった。いま降っていないから問題はない、というわけでもなく、未来のことをたとえ不器用にでも考えながら生きてゆかねばならないのが私たちという存在だ。風に吹かれて飛ばされる塵のような存在。光を受けてきらめいたと思えばまたたく間に空中へ拡散して消滅してしまう煙のような存在だ。

「まさかあの奇妙な電話をかけたのはあなたじゃないですよね?」と私は言ってみた。相手は何のことかわかっていない様子だったし、そもそも声が違う。私は話を戻した。「あなたたちが高度なものの見方をしていることはわかりました。わからないし、わかりたくもないが、わかりましたと言っておきます。でも、だからといって好きなように物語を捏造していいということにはならないでしょう。死者は語れない。あなたは語ることができる。生者には残された語り手としての責任がある。責任をもって事実をありのままに」と言って私は口をつぐんだ。相手はにやにやと笑っていた。

「わかりましたか。いま気づきましたよね。『事実をありのままに』なんてことがどれだけ難しいか。何をどうやったところでぼくが語ればそれはぼくの物語るフィクションでしかない。丹念に取材をかさねた記者が書こうともそれはその記者個人から見たフィクションでしかないんですよ。文章を書いたり映像を編集したりしたことのある人ならだいたいわかるはずだ。ひとつひとつ事実を積み上げていってもいつか必ず整合性とか、締切や紙幅とか、物語りたいという欲望なんかが顔を出してくる。そして結局その〈作品〉の内部において完結できる体のいい物語を構築せざるを得ないんです。まだまだ語り足りないけれど今回はこういう方向性で行きましょう、という感じでね」

「ではあなたは一体どういう都合でああいうストーリーを構築したんですか。秘密結社の構成員とチャットでもしたんですか?」

「秘密結社の陰謀論についてはあの記事を書いた人のオリジナルですよ。オリジナルというかコピーというか。ネットからコピーしてきたのを編集したんじゃないですかね。そのほうが面白いと判断したんでしょう。ぼくが語ったのはあくまでも彼とぼくとのあいだのやりとりと彼に関する思い出くらいですよ」

 思い出、と私は言った。煙草の灰を灰皿に落とした。深く煙を吸ってから吐いた。そのあいだ相手がどのような表情をしているかは見なかった。

「そう、思い出ですよ。貴重な。平穏な時代の。物騒な情報を日常的に目にすることがあったとはいえ、自分たちだけはそんな状況から遠く離れていると根拠なく決めつけていた時代の記憶です。その偽物の平穏な殻を破ったのが彼の暴走でした」

「暴走という表現はあなたが言っているだけですよね。それに本当に彼のみが〈暴走〉したのかどうかは私や警察にはわからない」

「そうですね。ぼくが嘘をついている可能性だってあるわけだ。本当はぼくこそが悪しきハッキングを行なって暗い物流網にアクセスしたのかもしれない。そのあとで彼がすべてを行なったのだと見せかけるために記録を改ざんしたのかもしれない。そこはぼくの発言を信じてもらうしかありませんよ。こちらとしてはぼくの証言が正しいことを示すための適切な証拠を提出する用意はあります。彼がただネットの暗部にアクセスしただけでなく、さらにその先へ踏み込んでしまったことを示す証拠をね。彼がやり損ねた証拠。善悪の彼岸において彼が踊り手として失敗した証拠を」

 相手の言葉がいちいち私の心を刺激し、こちらの言葉づかいを変えた。「ではさっさとそれを警察へ提出すればいい」と私は言った。「なにをためらうことがある。それともなにか別の理由があって出し渋っているのか」

「まあそこはこちらにもいろいろと都合がありましてね。少なくともうちのデータベースやアクセス記録をまるまる開示するわけにはいかないんですよ」

「そんなことが可能なのか? しかるべき命令がくだればおとなしく全てをあらわにするしかないのでは? あんたたちには隠すことができるのか。いったいどういう権限があってそんなことができるというんだ」

「もちろん正式な求めにはすべて応じていますよ。提出すべきものはほとんど提出しています。ただ或る場合には一部を紛失したり、正体不明のハッカー集団によって改ざんされたりしているということです」

「あんたらは自分たちの思うように物語を捏造してかたることができる。そういうことか」

「それはねえ、探偵さん。あなただって同じです。われわれは皆そうですよ。ぼくらは皆ひとしく語り手であり得る。自分の思うように、自分に都合のいい物語を語ることができるし、実際そうしながら生きている。ただそれを公的なフィールドにまで押し広げて語りうるかどうかは人によるでしょうね。ぼくらはたまたま今回マスメディアの手を借りて語りはじめたわけですが、似たようなことはこの世のすべての人が常日頃行なっています。生活するということは物語を語るということです。生きることはそれすなわち物語るということですよ。自分の都合のいいように過去をみて、未来を思い描く。想像したとおりの展開へもっていくために現在という物語を推し進めてゆく。生きていれば他者の物語と衝突したり、時にはそれらを駆逐したり、場合によってはそれらと和合したりする。われわれは物語の語り手として存在してきたし、これからもそうでしょう」

「今回の件に関しても同じだということか。いつもと同じように、自分たちにとって都合がいいように物語をつくって表現した」

「もちろん捏造なんてしていませんよ。われわれの語ることは真実です」

 私は灰皿に煙草を押しつけた。コーヒー代をテーブルに置き、立ち上がって歩き出した。「真実」という言葉を聞いた瞬間、そうせざるを得ないような心地になった。

 あの男のいうことを信じるならば、かれらは日常的に「善悪の彼岸」で活動していた。秘密結社めいたものやある種の陰謀論がフィクションであるとしても、むしろかれらが都市の暗部における取引・駆け引きをしていたということだろうか。そしてそのような駆け引きの行われている舞台上で《彼》がやり損ねた。失敗した。それゆえに殺害された。そういうふうに理解すればいいのだろうか。私はこの説に乗ってもかまわないと考えはじめていた。この時すでに私は諦めはじめていた。

 うしろのほうで社員がなにか言った。「探偵さん」と聞こえた。「あなたにも役目が」私は聞こえないふりをした。顔に当たる風は生ぬるく、肌がべたついて不快だった。街を歩くひとはまばらだった。前方の信号が赤になったので立ちどまる。なにか顔に冷たいものが当たった。手でぬぐうと濡れていた。やがて雨は本格的に降りはじめた。信号が変わる。私は走り出した。まともな運動を日頃していないので息が切れた。それでも止まらずに走りつづけた。なにか背後から追いかけてくるものがあるかのような焦燥感にかられて、走るのをやめることができなかった。



「逃げてばかりだね」と女が言った。

 私は自分の椅子に腰かけて資料の紙束をめくっていた。反論はできそうになかったので作業を続けた。彼女が私の私生活のことだけを言っているのか、それとも探偵としてなにひとつ成果をあげていないことまでも含めて言っているのか判然としなかった。とはいえおそらく彼女は例の一件についてはあらまししか知らないだろう。

「ほら。そうやって黙ってる」と彼女は言った。

 私は手をとめた。「どうしてほしいんだ。君の身の上話を聞いてあげればいいのか。黙ってそばに寄り添ってやればいいのか」

「どうして上からものを言うの。あなたはあたしにとってなんなの?」

 ため息をついてから私は謝った。今なにを言ってもいい結果にならないと思った。だからまた黙るしかないのだった。

 われわれの関係はもう終わっていた。これ以上どうしたところで関係の修復は無理だろう。こうなればもうあとは適切な処理をしてかたづけるべきものをかたづけて、おとなしく彼女の生活から消え去るのがよさそうだった。彼女には申しわけないが、今の私にはやるべきことがほかにある。問題はそのやるべきことに私が本気で集中して取り組めるとはかぎらないことだった。

「もう終わりにしようか」と私が言うと、彼女は歩きまわるのをやめた。ソファの近くに立ったが、座らずにまたうろうろと室内を歩きはじめた。「煙草ちょうだい」と言う。

「やめたんじゃなかったのか」と私は訊いた。机の上の箱から煙草を振り出して彼女のほうへ向けて差し出した。女は近づいてきて一本とって口にくわえた。私はライターの火をつけて腕を伸ばした。彼女はかがみ込んで煙草の先端を火に当てた。「もう別にいいや」

 健康な生活をあきらめたのか、と私が言えば彼女は「うるさいな。関係ないでしょ」と返してきた。確かにそうだ、と私はつぶやいた。

 すでに夕方に差しかかる頃だった。まだ室内の灯りをつけていないために外からの光がブラインド越しに差し込んでいるのが見えた。彼女のくゆらす煙は光線を受けてゆらめいた。「結局なんだったんだろうね。あたしたちって」そう彼女は言った。

「何でもない」と私は言った。「ひとつの言葉でまとめられるようなものじゃないだろう。人間同士の関係は」

 女は煙とともにため息を吐いた。「あなたって本当に結論というか、なにかをまとめるのが嫌いだよね」

 私は驚いた。探偵として数々のデータを獲得したあとはそれらをまとめて結論へ集約させていくのが自分の仕事だと思っていた。

「そういうのじゃなくて。なんていうのかな。いわゆるステレオタイプの考え方を当てはめることとか。物事や人間に対して『こういうことだよね』ってまとめられるのを極端に嫌うよね」

 そうかな、と私は言った。そうだよ、と彼女は言った。

「あなたはいつだってひとつだけの結論というものが嫌いで、つねに逃げ道を用意してる。別の選択肢を準備してる。いまだから言うけど、ちょっと病的なくらい、そういうところがあったよ。とくに自分自身がからむ話の場合は」

 私は机の上で両手を組んだ。言い返す言葉はなかった。

「たぶんあなたは他人から決めつけられることがめちゃくちゃ嫌いなんだ。定められたくないんだ。あなたはこういう存在だ、って決めつけられることをすごく嫌がってる。どうしてなの? 他人がなんて言ってもそれは所詮ひとのたわごとなんだから、気にする必要のない言葉なのに。あなたはどうにかしてそういう決めつける目線から逃れようとしてもがいてる。なにかが決定されようとするとすぐ何もない場所へ逃げ込もうとする。空白のなかへ。余白へ向かって逃げ出そうとして常に身がまえてる。なにがそんなに嫌なの? なにがあなたにそうさせるの?」

「なんだろうな。考えてみたことがない。たしかに僕は」と言ったものの、その後に続く言葉が出てこなかった。

「結局なに? アイデンティティがなんとかっていう文学的なやつなの? 自分のアイデンティティを他者が勝手に規定することを嫌がってるの?」と彼女は言った。私は黙っていた。「それあたしに関係ある?」

 ないよ、と私は言った。

 私はつねに余白を用意しておきたかった。なにか特定の、ひとつの意味を当てはめられることをどうにかして避けたかった。なぜ私はそのような性質をもつのか、という問題に関してだれかが「このような理由でおまえはひとつの物語から逃げたがるのだ」と断言した場合、その決めつけからもまた私は逃走したがるだろう。「ひとつの意味。ひとつの物語。そういうものは単純で美しいと思う。純粋と言ってもいいかもしれない。だけどどうしても拒否反応が出てしまうんだ。僕はそういう人間だから仕方ない、と言ってみてもそれはなぜ僕がそういう人間なのかの説明じゃない。精神分析にでも頼ればいいのかな。僕の中身を、僕の中のゴーストみたいなものを分析してみれば何かがわかるんだろうか? わかるはずない、と分析者に対して僕は言うだろうと思う。なぜ僕はこういう人間なんだろう? わからない。物語を当てはめられることに対してはほんとうに反吐が出る。いままで生きてきて人を殺したいと思ったことはないけど、もし自分がそういう心地になる瞬間があるとしたらそれは僕に、僕の最も拒否する物語を当てはめようとする人間が現れた時だろう。いったいどうしてこんなふうに思うようになったのか。いつから僕はこうだったのか。わからない。本当にわからないんだ」

「わかりたくないんでしょ」と彼女は言った。「それか、わからない振りをしてるんだ。わからない、という物語をほしがってるんだ。探偵なんて、物語の中で踊るのが仕事みたいなものなのに。ほんとうは誰よりもあなた自身が物語に執着してるんじゃないの? 〈わからない〉という物語の主人公として煙幕のなかに隠れたがってる。韜晦ってやつじゃないの。自分を神秘化したいんじゃない?」

「韜晦。確かにそれはあるかもしれない。何の意味もない、特定の意味をもたない自由な場所へ行きたいとどうしても思ってしまう。僕たちの生活の舞台はだれかによって書かれたものの上だ。いつだって僕たちは何かの書類の上で踊らされてる。個人情報の記入が必須の欄の中で上下左右の罫線に頭をぶつけ、時には首すじを切られながらもがいている。欄外へ僕は行きたい。特定の意味、ひとつの物語のない、欄外の余白へ」

「それでも」女は私の名を呼んだ。「あなたは意味がないという意味を、物語のない物語を求めているんだ」

 私には言葉がなかった。

 室内はもう暗くなっていた。灯りをつける必要があった。私たちには照明が必要だった。どこへ行くこともない、どこへつながっているわけでもない生活の行き止まりの中に私たちはいた。

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