見出し画像

書類上 〈第5回〉

 私は受話器を置いた。知らない男の声だった。事務所の電話番号は公開しているので見ず知らずの人間から電話がかかってくることはめずらしくない。そもそも今のはある種の間違い電話のようなものであって、本来あの男が語りかけるべき相手は私ではないはずだった。社会の隅に取り残された孤独な男が空中へ石を投げるようにしてでたらめな電話番号へかけてきただけかもしれない。あるいは病人を演じながら他者に襲いかかることで自分の中のある種の堆積物を昇華させようと試みたのかもしれない。いずれにせよ何も気にかける必要はない電話だった。ふいに青空から雨が降ってくればしかたなく雨宿りをしていくらかの時間を過ごしたら雨はすぐやんでもう次の予定のことを考える。そのような調子でかんたんに意識から消えてなくなるであろう類いの電話だった。にもかかわらずどうにも忘れることが難しいようなかたちでその通話は私の心中にひっかかって消えないのだった。もしもしと私が言うのに対して相手はこちらの名を確認した。違いますと答えたら間髪入れずに「そうですよね」と彼は言った。そのあと私は一瞬待っていたが男はなにも言わなかった。番号をおまちがえのようですね、と私が言えば相手は「そうなんです」と言って喋りはじめた。「いっそのこと永遠に届かなければいいと思いつつも実際そういうわけにもいかないのでこうして電話をかけつづけているんです。どこへかけてもたいていそれは間違いで、やはりだめだったということで受話器をたたきつけるみたいにして置いて終わるんです。一旦は終わるんですが、また次の瞬間には受話器を取らなきゃいけない。そうしないと終わらないからです。本当の終わりが来ないからです。いや実際のところ終わりなんてないのだということは百も承知なんですが、それでも数字の書かれたボタンを押さざるを得ない。そうしないと永遠に」というところで私は「失礼」と言った。「番号をまちがえていらっしゃいますよ」ともう一度言ってみたのだが相手にはあまり影響がないようだった。「だからすべて連続しているんです」と男は言った。「あらゆることがつながっています。無関係なことはひとつもない。ひとつふたつという数え方からして間違っているんです。だって全部が同じものなんだから。同じものが違う見え方をしているだけなんだから。こういう世界のなかで暮らしていくのは大変ですよ。結局みんな同じことを言っている、同じことを違う言い方で言っているだけなんだが衝突する。言い方が違うから。そうでしょう? 接触はすなわち衝突だ。避けることはできないんですよ。避けられないからこそむしろ先にこちらから開始するんです。さきに仕掛けるんですよ。選んでいる余裕なんかない。時間はない。すぐに始めないといけない。とにかく目の前にあるそれをつかむんだ。つかんだ時にそれが火傷の原因になるかもしれないけど、それはもう仕方ない。傷を負うことが生きるってことなんだ。生きるためには手を出さないとどうにもならない。手を伸ばしてみればとりあえずどうにか形になるかもしれない。ならないかもしれないが、だからといって何もしないわけにはいかないじゃないですか。電話しなきゃならないんですよ。われわれはそうやって生活しているんです。一回の通信でどれだけのものが伝えられるというのか。微々たるものだ。残りかすだ。でもそれをしなくちゃならないんだ。その通信を無限回くり返さないといけない。それがつまり世は地獄ってことの意味ですよ。しかもその無限回をくり返しているあいだにどれだけの通信途絶があるというのか。それは数えられないですよ。数に直したところで意味はないですよ。ひとつの呼びかけ、および途絶、これらは同じものなんだ。最初からそういうふうにできているんです。だからといって何もしないわけにいかないじゃないですか。もしもし、聞こえますか? だれがこれを聞いているというのか。それは聞いていると言えるのか? 届いていると言えるのか? そんなことは知ったことじゃないんですよ。なにも知らないんですよ、わたしは。知らないから何度も通信しなきゃならない。そしてまたエラーだ。だからまた電話をかける。そしてまたエラーだ。もう嫌になりますよ。終わりがないんだから。すべてが過程なんですよ。全部途中なんだ。あらゆるものが経過観察されている。すべて見られているんですよ。われわれはあられもない姿、過ぎてゆく変わりゆく仮の姿を見られているんだ。そうしないと、見られていないと存在できないんだから。見られているからこそ、ここでこうして電話をかけていられるんです。そうでしょう?」



 上記のように、都会のアンダーグラウンドにおける伝説の流布はいまや仮想空間へとその舞台を移している。電脳世界がそのまま地下世界としてのいかがわしさ、猥雑さを獲得した。情報のサラダ・ボウルとしての混沌がそこにある。今回の一件に関してもまた電子の網目のあちらこちらを陰謀論めいた言説が駆けめぐっている。この事件は将来的にひとつの都市伝説の起源となりえるかもしれない。

 編集部では調査をかさねて集めた情報を整理し、ある仮説を立てた。これこそ今回の事件の全容だと確信できるものである。しかしそれを披露するまえにひとりの男の物語を聞かねばならない。彼は例の凶弾によってたおれた被害者である。語り手は被害者の友人で、事件の渦中にいたわけではないが、近くで事態の推移を見ていた。恐ろしい悲劇が進行していることも知らずに被害者のすぐそばで日々を過ごしていた。あの痛ましい事件のあとは後悔の念に襲われたという。

「まさかあんなことになるなんて思ってもいませんでした。振り返ってみれば、もっと自分にできることはあったんじゃないか、思い切って彼のプライバシーなんて気にせずに踏み込んでいれば違う結果になっていたんじゃないかと考えてしまいます。なんの取り柄もないぼくでも、動きかた次第ではひとりの人間を救えたかもしれない。そう思うとやりきれません」

 彼は被害者の勤めていた会社の同僚で、休日には食事をともにすることもある仲だった。入社以来、時には年上の被害者に教えを乞いながらも基本的には一種のライバル的存在として互いを見ながら切磋琢磨してきた。とはいえ、被害者のセンスにはやはり一日の長というだけでは片付けられないものを感じていたそうだ。

「明らかに才能がありましたね。なんというか、頭の中での情報の取り扱いかたが僕らみたいな凡人とは別次元なんじゃないかと思うことがありました。たとえば辞書のように情報をためこんでいて必要なときにページをめくって取り出してくるとか、そういった感じではないんです。彼と話していると、なにか立体的な記憶装置が彼の中に構築されてあって、しかもそれの各部がたえまなく変貌しているような感覚になりました。装置自身が絶えず編集されつづけているんです。なんらかの機会に刺激を与えられた装置が自身の構成を組み換える。記憶の各所が有機的につながっていて、その接続のされかたが変化していく。ひとつの情報がひとつではない。情報のひとつが複数の層を成して空間的に重なっている。さらには時間を超えて過去のアーカイヴへはもちろん、ひょっとしたら未来の記憶にまでくりかえし接続し、それ自身の変貌を行なっているのではないか。そう思えるほど彼の口から出てくる言葉、彼がコンピュータに入力する言語にはある種の跳躍があった。なぜそんなワードが出てくるのかと不思議に思える発想の仕方をしていた。この呼び方はあまり好きではないんですが、やはり天才と呼ぶほかない存在でした」

 独特のセンスをもつ友人はその能力を存分に発揮して情報技術の分野で活躍した。さまざまな企業の新たなサービスを提供するためのシステム開発を行なった。またいくつかの大学と協力しあって情報解釈の新しい技術を研究した。その結果は昨今の人工知能研究の躍進にもつながっている。順風満帆だった。

「彼といっしょに仕事できるのは光栄なことでした。一流の人間の仕事ぶりを間近で見られるだけではない。その才覚の光るさまを肌で感じられた。このまま彼についてゆけばいつか偉大な仕事をなしとげられる。その一端に自分も加わって助力ができる。そう思っていました」

 しかし物語の全貌は成功譚として分類できるものではなかった。それは悲劇だった。

「ぼくらのオフィスは雑居ビルの地下にあります。直通のエレベーターは設置されていなくて、毎朝階段を降りて長くて曲がりくねった廊下を歩いて出勤しないといけない。残業したときは薄暗い廊下を早足で歩いて帰った。ああいう古いビルにつきものの噂、戦時中の幽霊がどうのこうのといった話に耳をかたむける人なんかは数人でかたまって帰路についたものです。ぼくらはよく深夜まで会社に残って作業した。仕事が仕事じゃなかった。面白くてしょうがなかったんです。ひとつの問題があってそれを解決しようと夜遅くまで腕組みしながら頭をひねる。彼を含めた面々でああでもないこうでもないと議論する。ある時ついにブレイクスルーが起きて壁が破られる。そのときの喜びは言葉にはできません。この瞬間のために生きていたんだと実感する。からだで感じるんです。このために今まで努力して生きてきたんだ、と胸の奥で熱く感じるんですよ。それは青春でした。こういう時間がずっと続けばいいと思っていた。つまりこういう時間は永遠に続くわけではなく、いつか崩壊すると感じていた。だれも口に出しては言わなかったけれど、みんなそのことはわかっていたと思います。でも、ぼくらの栄光の時代を築いた張本人である彼からその傾向が現れはじめるとは思っていませんでした。

 ぼくらにとって残業とは研究のことでした。だからもちろん彼もしばしばその日のノルマを達成したあとで自分の好きな分野の文献を漁ったり実験的システム開発を進めたりしていました。そういう時に彼は自分の興味にしたがって、いやもしかしたら主義・信念にしたがったのかもしれませんが、闇の中へ潜り込みはじめたのです。おそらく少しずつだったのでしょう。毎夜業務を終えたあとでコーヒーを飲みながらコンピュータの白い明るいディスプレイを見つめて考えこんでいた。葛藤していたのかもしれません。ぼくらの会社は通信セキュリティの分野において開発を担当したり、アドバイザーとして企業のプロジェクトに参加したりしていました。ハッキング技術の悪用に関しても都度調べます。だから倫理については敏感ではあるんです。もちろん彼の中にもそのような善なる秩序が構築されていたはずです。そうでなければやっていけない。誘惑が強い業界なんです。彼なりにおのれを律していただろうと思います。しかしながら悪神が彼の中の神殿を襲いはじめた。徐々に歯車の回転がおかしくなっていった。かみ合ってはいけない歯車同士がかみ合った。あるいは彼自身、善の勢力に与しているつもりだったのかもしれません。いずれにしても一般的倫理に照らせば、それは悪だった。やってはいけないことだった。

 最初は小さなことでした。目に見えない影響が微細な徴候となって見えるようになってきたんです。当時はなにも思わずに見逃していたことも後になってふり返ればそういうことだったんだなと気づきました。たとえば生活習慣の変化です。いつもおなじみになっていた習慣の拒否や見送りが行われるようになってきた。食事の誘いを断る、飲み会をキャンセルする、私的な打ち合わせの時間短縮。徐々にぼくらという共同体から彼はドロップアウトしていきました。笑顔が減り、あいさつの声が小さくなった。手製の弁当を残すようになり、弁当がコンビニの調理パンになって、最終的には昼食そのものをとらないようになった。自分のケアをしないようになっていったのです。不精ひげをそらないままで出勤する。整えられていないぼさぼさの髪で会議に出る。会議中には腹がぐうと鳴り、日に日に頬がこけていった。目は充血し、ぎらついていた。業務に支障が出ていると判断した会社は彼に休職するよう言い渡しました。しかしその次の日も彼は出勤してきた。上司たちがなにを言っても聞く耳をもたなかった。しわくちゃのシャツを着た彼は自分のデスクから離れようとしなかった。コンピュータに向かってつねに作業していた。コーヒーを飲みながら休憩時間も残業時間帯もずっとなにかのプログラムを構築しようとしていた。それについてぼくも彼に尋ねましたが、なにも教えてくれませんでした。仕事はちゃんとやっていると口では言っていましたし、実際課せられたノルマはきちんとこなしていたので、奇妙な彼を強制的に帰らせる人はいませんでした。時間が経つにつれて周りのぼくらも彼のそういう状態に慣れてしまって、あげく天才とはそのようなものだと自分たちに言い聞かせるようになっていました。それがよくなかった。ストップをかけるべきだったんです。だれかが。いや、ぼくがそうすべきだった。いまさら言っても意味のないことですが、そう思わないではいられません。

 ある夜、彼がぼくを呼びとめて話があると言いました。この時が分岐点だったと思います。このとき初めてぼくの目に明らかになったわけです。彼が行なっていることの本質が、隠されていた不穏さが、ぼくの目に見えるようになりました。だからといってそれを見たぼくが即、行動を起こしたわけではありませんでした。結局のところ、ひとまず傍観していた。まさかあのような事件に帰着するとは思っていなかった。運転席に座ってハンドルを握っている彼がある程度の速度を出して走行していると知っていながらも、そこからさらにアクセルを踏み込んで危険な状態になるまで加速するとは想像していなかった。ひとりの友人として時には友を止めなければならない場合もある、ということは理解していたつもりです。業界の知人のなかにはきわどい領域に手を出すひともいましたから。しかしそうすべき時が今この瞬間であるとは考えなかった。どこかで楽観視していた。悲観しなかったことこそが悲劇を未然に防ぐことのできなかった理由のひとつかもしれない。そう考えるときもあります。ぼくたちは失敗したんです。

 彼は椅子を回してデスクにひじをつきました。そしてPCのディスプレイの向きを変え、ぼくに見せました。その瞬間、ぼくは理解しました。彼はある種の閾を越えてしまったのだと。その白い画面に表示されていたのは一種のログでした。アクセス記録です。ぼくたちは日進月歩の業界にいますから、日々勉強は怠りません。最新の情勢、最深の情報をつねに求めます。だからひと目みて分かったのです。それが、あちら側のものであると。

 この世には人間以外の存在もいる。けれど、ここではひとまず人の世に話を限定しようと思います。それでさえはかり知れない広さと深さをもつからです。限定しないと語りきれません。そのような限定を行なったうえで、ぼくたちはこの世の暗部について語らなければならない。それは生産と宣伝に関わることです。発注と物流をめぐるものです。販売と廃棄、回収と補填、商品と情報、資本と消費に関することです。ぼくらの棲むこの時空間は無数の網目に覆われています。そのネットワークを数かぎりない品物とデータがかけめぐっているのです。たとえばこの世界のあるところでひとりの人物の欲求が高まる。同種のそれが集まって需要が明らかになる。生と死を管理するものが生産者となり、品物とそれに関するデータを世間に放つ。物を欲する声と金を求める声が世をめぐります。そしてあちらこちらから声を集めて分析した人間たちが発注する。生産者は注文に応じて商品を提供する。他社よりも高品質の品物をつくり出すために企業努力を欠かさない。商品を託された運送会社はできるかぎり迅速に配送する。鮮度・品質を落とさないよう厳重に梱包して送り届ける。品物を受け取った消費者はそれを味わい尽くす。存分に消費を楽しんだあとはまた新たな欲求の声をあげる。そのような循環の糸が無数に存在し、無限に増殖する網目をこの世界にはりめぐらせています。彼がぼくに見せたデータもまたそのようなサービスと消費の記録の一部でした。ある意味ではどこにでもある情報だった。あらゆるところで行われている作業の一端だった。ただし、そこで扱われている品物が普通ではなかったのです。

 ぼくは彼に問いました。これはいったい何なのだ、と。もちろんすでに分かっていました。それらのデータが何を表しているか。聞かなくても、言われなくても理解していました。でも聞かずにはいられなかった。胸の奥から突き上げるようにして問いが浮上してきた。それを押しとどめることはできませんでした。これは何なのか。君はいったい何をしているのか。彼の肩をつかんで軽くゆすりながら言いました。しかし彼はぼくの手をはらいのけて説明しはじめました。PCの画面に表示されている単語と数字がなにを表現しているかの解説を始めたのです。その時の彼の表情を見てぼくは悟りました。すでに彼はぼくたちの手の届かないところへ行ってしまったのだと。彼の目、彼の語りかた、彼が語るところのものは通常押されることのないはずのスイッチが押されていることを示していた。ぼくはもう彼の言葉を聞かないで部屋の外へ出ていきました。頭の中に熱がこもって混乱をおさえられなかった。彼が接続することに成功したネットワーク上では、ぼくが部屋の外で壁にもたれかかっていた時も、今こうして彼に関して語っているあいだも、〈それ〉が生産され、流通し、消費されていることでしょう。きわめて効率的に〈それ〉は処理されて札を付けられ、価値を高める情報とともに暗黒の物流網へ流されていることでしょう。そしてだれかがそれを受け取るのです」

 そもそもインターネット上においてはカオスのあらゆる側面が日夜回転しながらその醜さを見せつづけているように思える。が、ほんとうの混沌は普段われわれが目にしている暗黒とは根本的に異なるものだった。被害者がアクセスしたのはネットの真の暗がりだったのだ。そこは善悪を超えてただひたすらに強烈な作用ばかりが求められ、実現される場所だった。監獄における夜語りのなかで大量殺人がたいした刺激にならないように、そこではおぞましい研究開発が日常となり、われわれが目をつむり耳をふさぎたくなるような品物が続々と出荷されている。この記事は真実の告発である。ある種の心的外傷をかかえている読者は以下の文章を読むことを踏みとどまるほうが賢明かもしれない。そこでは現代の通信技術網によって地球的規模にまで拡大している或る陰謀が、地獄の労働が、残虐な学術が語られるだろう。そしてこれまで歴史の暗幕の裏側に隠れていた或る秘密結社の存在が



 私はそれ以上ページをめくらなかった。からだを椅子の背もたれにあずけた。カップを手にとってコーヒーを飲んだ。それは冷めていた。ポケットから煙草の箱を取り出した。一本とってライターで火をつけた。すぐに店員が歩いてきてここは禁煙であると告げた。私は謝罪して煙草の火を指でもみ消した。ひどい頭痛がした。雑誌を閉じてわきへのけた。

 偽証が明らかになって解雇されてからというもの、私はあの会社の人間との交渉を絶っていた。その理由のひとつはこれ以上調べてもなにかが明らかになることはないだろうと考えたことだった。監視網が強化されたことで私の調査もばれた。あの企業の内部に隠さなければならない事実があったとしてもそれは私の目と手から厳重に隠されているはずだった。しかしここへ来て社内の人間が自ら語りはじめるとは想像していなかった。分厚い月刊誌の政治スキャンダルや論壇ゴシップにはさまれて《彼》の物語が語られることになるとは考えもしなかった。

「どうやら先手を打たれましたかね」と刑事は言った。かもしれません、と私は答えた。私は半分以上記事を読み終えたのでテーブルの上の月刊誌を刑事に渡した。それを機にわれわれは席を立った。喫茶店を出てふたりとも無言で歩いた。どちらから言うでもなく、われわれは街路わきに設置された喫煙所で立ちどまった。

「秘密結社云々はフィクションでしょうがね」と刑事は煙草をくわえたまま言った。「でもある程度まではノンフィクションらしいですよ。少なくとも被害者に関する部分はね」

「どうなんでしょう。あなたがたの情報源もあの社内にいるんですよね。警察もまたフィクションを聞かされているだけという可能性はないんですか?」私は訊いてみた。

 刑事は煙草をふかした。「なくはない。ありえないとは言い切れません。しかしね、わたしらも素人じゃないんですよ。裏は取ります。ある側面からいえば、あの記事は真実の一端を描いていると言うこともできると思います」

「怪しいですね」と私は言った。うちの捜査の信憑性がですか? という刑事に対して私は「いいえ」と答えた。「あの記事のことです。そしてあの記事に書かれていることです」

 まあね、と言って刑事は煙草を吸って煙を吐いた。「でも事実は時としてあんなふうに奇怪な風体をとるものですよ。記事のほうは面白おかしく脚色されているでしょうがね」

 私も煙を吐いた。われわれの吐く煙は吐かれた瞬間、風に吹かれて見えなくなった。「なにかを信じるのは苦手なんです」と私は言った。

「事実の後ろ盾がないからですよ、あなたの視点からはね。あなたにはまだ開示されていない情報があるんです。しかたないことですが、全部をお教えするわけにはいきません」

「私はまだ容疑者でもあることだし」

 まあそれはそうです、と刑事は言った。

「事実の後ろ盾があるのなら私の手を借りなくても捜査は進展するのではないですか? つかんでいる情報があるのであれば、それを武器にして切り込めばいい。私の出る幕はないと思うんですが」

「それもそうです。言われてもしかたない。でもね、公的機関は万能じゃないんですよ。なにしろ公的ですからね。明確な根拠がなければ動けない。秘密結社の存在をかぎつけたから強制捜査、というわけにはいかないんです」

「あの記事で語っている社員はどうですか。いろいろ知っているようですが」

「それなんですがね。口を割らないんですよ。奇妙なことにね。あれほど語ることがあるのなら証拠を持ってうちを訪ねてきてくれればいいものを、どうにも協力的ではない。自分に火の粉がかかることを恐れているのか。それともあのインタビューで語ったことは嘘だったのか」

「その社員は私も知っている人物ですよね?」

 だと思います、と言って刑事はうなずいた。「その線で進めてみてはどうですか。とりあえず。このままでは怪しげな陰謀論の物語のひとつとして消費されて終わるかもしれない。殺人事件は迷宮入りで終わるかもしれない」

 それでもかまいませんよ、と私は言った。

「本当ですか?」と刑事は言った。

「記事のなかでは」と言って私は論点を変えた。「被害者がかぎつけたある種の企みというか取引について、被害者自身が問い詰められるような格好になっていましたね」

 刑事はうなずいた。「警察やマスコミに報せれば一躍大ニュース、大手柄ということにもなりえる発見だったかもしれない。なのに取引の『現場』を目撃した被害者がまるで犯罪を行なったかのような言われようだった。なぜでしょうね」

「実際なにか越えるべきでない線を踏み越えていたのかもしれない」被害者が? と刑事が訊く。「そうです。罪の告発のために深淵をのぞきこんだはずが、その闇にとらわれて呑み込まれてしまって、犯すべきでない何かをしでかした可能性もある」

 そうでしょうか、と刑事は言った。「どうもあなたはあの記事の調子にとらわれすぎていやしませんかね。信じるのは苦手なんでしょう? あの作文を信用しすぎていませんか。たしかに被害者がなんらかの深淵にたどり着いたことには間違いないでしょう。うちの調べでもそういう痕跡が出てます。でもその直後にどうしようと考えていたか・実際どのようにしたのかは不明なんですよ。あの記事ではまるで共犯の証拠をおさえたみたいな書かれ方をしていましたけどね」実際のところはわからないんですよ、調べてみなければね。そう言って刑事は私の顔を見た。

 刑事と別れてから自室に戻った。日は暮れていた。明かりをつけないで椅子に腰かけた。暗い部屋のなかでデスクの向こうのソファが白く浮かびあがって見えた。デスクの引出しを開けて黒い表紙の手帳を取り出した。後ろのほうのページを開けた。左のページに数行のメモが書かれている。右側は白紙だった。白いページを見つめた。その後どれだけの時間が経ったのかはわからない。それはたぶん一瞬のことだった。あるいは夜中までそうやって何も書かれていないページを見つめていた。どちらにせよその夜の沈黙のあいだに机の上の電話が鳴った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?