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書類上 〈第7回〉

 プログラミング言語とはコンピュータに行わせることを記述するために開発された人工言語である、とそのウェブサイトには書かれていた。わかりにくいので他のサイトでの説明も見た。プログラミング言語とはプログラムを書くための、言語のかたちをした約束事の集まりである。そしてプログラムとは計算機への指示・命令の構成物である、と書いてあった。計算機とはコンピュータのことだろう。指示・命令の構成物とはなにか? 私は混乱してきたのでコーヒーを飲んだ。しばらくぼんやりしているとディスプレイが暗転した。そのタイミングが意外に早かったので、このネットカフェは少しでも電気代を節約したいのかもしれない、などと考えた。キーを叩くとふたたび画面が白く明るくなって文字列が表示された。どこか離れた場所で女性の笑い声が上がった。私は椅子の背もたれに背中をあずけた。机の下にあるコンピュータの本体からファンの回転音が聞こえる。

 《彼》のオフィスに潜り込んでいたときに情報技術関連の知識の断片が私の耳や目に入ってきた。私にそれらを解読することはできなかった。その分野に関して私は素人だった。《彼》とその仲間たちが普段どのような世界で呼吸し、活動しているかを深く知ることはできなかった。主に金の流れから私は入っていった。不審な取引・送金等は見つからなかった。仮にそういうものがあるとしても、かれらはその技術を活かして隠蔽していることだろう。そのような分野で掘ることは警察のそういう班にまかせればいい。わざわざネットカフェにまで来たのは調査のためではなく別の目的のためだった。けれども進捗がかんばしくなかった。気晴らしに脳裡に浮かんだ言葉を検索した。それでプログラミングの解説サイトへ行き着いた。

 プログラムとはコンピュータへの指示・命令の集合体と捉えればよいだろうか。そこにはオーダーが羅列されている。特殊な文法に基づくかたちで指令が記述されているのだ。その数式と言語による構成物はコンピュータが「理解」できる形式へと翻訳・変換される。その翻訳物をコンピュータが読む。解釈して実行する。指令のとおりに処理をする。計算し、その結果を返してくる。すべての計算が終わったとき、プログラムの実行は停止される。そして計算機は待機状態になり、次なるオーダーが入力されるまで待つ。

 《彼》もまた日常的にプログラミング言語を使いこなしていただろう。さまざまな目的のために数多くのプログラムを構築したことだろう。それはセキュリティ維持のためだっただろうか。あるいは破壊のためだったのか? もしくはそのような二項対立を超えたところにある場所でプログラミング技術を行使したのだろうか? 今の私にはわからない。未来のだれかはそれを知るかもしれない。現在においてもどこかの社員は実際のところを知っているかもしれない。

 コンピュータが読む言語は0と1で構成されている。かならずどちらかが選択・決定されるのだ。《彼》が亡くなる前に何かしらのプログラムを構築していたとすれば、それもまた0と1だけの言語に翻訳されたことだろう。《彼》の入力した言語はかならず0と1のどちらかに変換された。絶対に、そのいずれかに翻訳された。あいだは存在しない。

 《彼》の選択は善と悪のどちらかでしかないのか? あるいはどちらでもない曖昧な振舞いをしたのか? それを決定づけるための、《彼》が入力した言語がどこかに記録されているとして、私がそれを探し当てたくないのはなぜか?

 私はまた検索と読解、情報収集の作業へ戻った。人々のどうでもいい雑談や独白、SNS・掲示板での議論、各種取引の内容などをひたすら読んでいった。途方もない分量の情報にあたらなければ目的のものは得られないだろうと考えていた。この種の業界に明るくないだけでなく、まるで技術のない私が目当てのものを手に入れるためには数ヶ月、いや数年かかるかもしれなかった。それでも私はあきらめるつもりはないのだった。もはや私には〈それ〉しか残されていないのだ。謎を物語から解きはなつためには。



 階段をのぼる足が重かった。左腕に資料をかかえたまま、右手でポケットを探って鍵を取り出した。それをドアノブに差し込んで開けた。ひさしぶりに事務所の中へ入ればなつかしさを感じるかと思ったが、そうでもなくただ日常が戻ってきたというだけのことだった。

 デスクの上へ荷物をほうり投げた。キッチンへ歩いていって冷蔵庫を開けた。コーヒーのペットボトルを取り出したがすぐにやめて中へもどした。戸棚を開けてウイスキーのボトルを出した。冷凍庫を確認すると氷がなかった。グラスに注いだ酒をそのまま飲んだ。胸ポケットから煙草を取って一本くわえる。ライターがなかった。すべてのポケットを探したが見つからない。机の上や引出しの中、本棚のまわり、ハンガーにかけてある衣服のポケット、洗濯機の中と周辺、トイレの中まで探したが見つからないのだった。仕方なくキッチンへ戻ってガスコンロの火をつけてそれにくちづけするかのような格好で煙草に火をうつした。

 ソファに腰をおろした。酒を飲む。煙草を吸う。煙を吐く。煙草の灰を灰皿に落とす。酒を飲む。そしてまた煙草を吸う。くりかえす。

 電話が鳴った。鳴るままにしておいた。酒がのどを焼く。口の横に酒が垂れたので手でぬぐうとひげが指に当たった。しばらく手入れしていない。電話が沈黙した。そしてまた鳴りはじめた。私は二本目の煙草を取り出した。火のついているほうを手に持ち、新しいほうを口にくわえて火をうつす。酒をグラスに注いで飲む。まだ電話が鳴っている。

 容疑者が逮捕されてからというもの、私のところにも報道関係者が押し寄せた。逮捕のニュースがテレビで連日流されたために知人や親類からの連絡が絶えなかった。私も自分なりに今がある種の勘所かと思い、動きをあわただしくした。関係各所に連絡をとって事実の確認を試みた。手の内にある情報源はすべて用いた。すでに流れは決まっているということがわかった。私にできることは何もないということを知った。私は酒を飲み、煙草を吸った。

 電話の音が鳴りやんだ。

 結果としてはなるべくしてなったと言えなくもない。嘘か本当か知らないが、例の記事が公けになってから警察も重い腰を上げたと聞く。あの〈真実〉の告発がきっかけとなって確かにひとつのハッカー集団の摘発につながったということらしい。私はなにをしたか? なにもしなかった。ただ思い悩みつつ煙草をふかしていただけだ。つまり私の思うように事態が進むはずはなく、そこにだれかの思惑があったのであればその意図の通りに状況が変化するのをさまたげるものはなかったということだ。

 ドアのチャイムが鳴らされた。また記者かもしれない。私はもう疲れた。ここに私はいない、ということにしよう。私はこの部屋にいないし、この街にもいない。この世のどこにもいない。ただの煙か風のような、だれも容易に捕捉できないおぼろげな存在だ。そのようにして何もせず何とも関わらず生活することができたらどんなにいいだろう。

 だれかがドアの向こうで私の名を呼んだ。男性の声だった。それだけでは誰がドアの外にいるのか私にはわからないままだった。けれども訪問者は自分の名を叫んだ。さらに自分の所属する警察署の通称までも怒鳴り声で伝えてきた。私は酒を置いて、ただし煙草は手に持ったままで立ち上がった。

 ドアを開けると、その男は眉間にしわをつくっていた。それが私の容貌を見たからなのか、事件解決のされかたが気に食わないせいなのかはわからなかった。「失礼しますよ」と言って刑事は中に入ってきた。「どうしたっていうんです。いるんだったら電話くらい出てくださいよ」

 少し疲れていて、と私は言って煙草を吸った。ソファに戻って酒を飲んだ。

「やれやれだ」と刑事は言った。私の対面のソファに腰かけた。鞄をソファの上に乱暴に置いた。そのまま彼はしばらく黙っていた。私を観察していたのかもしれない。あるいは私の説得方法を考えていたか。いずれにせよ彼はやがて口をひらいた。「どうするんです」

 なにを、と私は言った。

「この状況を、です。彼らの思い通りにさせておいていいんですか」

「思い通りもなにも、事件は解決した。容疑者は逮捕されたし、やがて裁判で有罪となるでしょう。どうやら有力な証拠があるらしいし。そうなんでしょう? 私の出る幕はない。もう、ない」

 刑事はため息をついた。「それは表向きの話であって、実情は」

 私は片手をあげて相手の話をさえぎった。「聞きたくない」

 彼は口を開けて私の顔を見ていた。「なんだって言うんですか」

「なにもない。なにも言わない。私はもう疲れた。大きな勢力がひとつの物語をつくろうとして、それを現実のものにしようと試みて、それはどうやら成功しているようだし、私にできることはもう何もない。いったいこれ以上なにをしろと言うんだ。他者の思い描く物語の中で、他者の書いたシナリオで、他者のつくった舞台の上で踊りつづけることに私はもう疲れた。私は降りる。引きさがる。探偵はもう引退だ。そもそも無理な話だったんだ。いったいわれわれにどうやって正体不明の狙撃手の正体を明かせというのか。私にまともな物語を書くことなんてできなかったんだ」

「では言いますけどね。あなたはそんなに努力してきたというんですか。スナイパーの身元を、黒幕の正体を明るみに出すために尽力してきたとおっしゃるんですか。何もしてこなかったじゃないですか。わたしがさんざん協力を求めてきたけれど、それをことごとく拒否して。〈真実〉がなんだっていうんです? ひとつひとつ事実を積み重ねてゆけばいずれ見えてくるものだってあるでしょうよ。どうして言われるがまま、語られるがままで我慢していられるんですか。例の社員たちがどう考えても黒でしょう。あんなイカサマ報道を世間は鵜呑みにしているんですよ。なにが秘密結社だ。クラッカーだ。世間はそういう物語を信じてしまっているんですよ。納得してるんです。だってちょうどいいですからね。ちょうどいいサイズの、ちょうどいい濃度のストーリーですよ。朝食にジャムの乗ったクラッカーでも食べながら、暗躍するクラッカー集団について、その息のかかった殺人者の逮捕についてその物語をひとしきり味わって、時間がくればテレビを消して出かけていく。もしかしたら出勤後にだれかとその話をするかもしれない。でもそれで終わりだ。もう忘れはじめる。物語は消費される。そしてだれもそれを思い出さない。それが捏造された物語だったとしても、それを糾弾しようとするものは誰もいない。あなたやわたしが声をあげないかぎりはね」

 私は酒をグラスに注いだ。三本目の煙草に火をうつした。刑事がライターを差し出したが、手を振って不要だと示した。「わかりやすくていいじゃないですか。国際的なハッカーたちの陰謀。現代の秘密結社。秘密を暴こうとした勇気ある告発者は、自らもその闇に取り込まれてしまい、口封じのために殺された。これで完結ですよ。物語は終わりです」

「あなたはそれでいいんですか、とわたしは訊いてるんです。その物語を認めて、受け入れるんですか。たとえそれが真実とは異なるものだとしても?」

 私はなにも答えなかった。

 刑事は自分の鞄を漁って大きな封筒を取り出した。それをテーブルの上に置き、私のほうへ差し出した。「ラストチャンスですよ、探偵さん」と彼は言った。

 私に電話をかけてくる者は増えた。しかしその中から興味本位の人間をのぞけば、刑事とあの社員だけが私に用事があって電話してくるのだった。刑事の目的は、上記のように、私に探偵役をやらせることであるらしかった。それに対して私はまともな探偵としては一切応じなかった。なぜか? その答えは私という人間の根幹にかかわっている。謎というもの、不可能なこと、不可知のもの。そのようなものに対する私の執着心が関係している。

 社員が電話をかけてくる目的はなんだっただろう? 社員に呼び出されてその後雨の中を走って帰宅したあの日以来、私は社員からの連絡を無視していた。「探偵さん、あなたにも役目が」と彼は言った。彼も私のことを刑事と同じように呼ぶ。つまりそういうことかもしれない。あの社員もやはり私に探偵役をやらせたいのだろうか。私にある種の解決を・解明をさせたいのだろうか? だがその場合のシナリオは刑事の思い描くものとは異なるはずだった。私は、なぜか分からないが、絶対に彼の脚本どおりに動くことはしたくなかった。人になぜか分からないが譲れないものがある場合、そこにはその人物の根源に関わるものがある。言語で表現しづらい奥深いところにおける拒否があるのだ。

「その役目を果たすのは私じゃない。私は主人公じゃないんだ」そう私は言った。

 それを聞いて、刑事はため息をついた。そして封筒を自分のほうへ引き寄せて中身を取り出した。中からは数枚の書類が出てきた。刑事はそれをテーブルの上にほうり出した。「ある企業の概要です。移転先ですよ。かれらの。隠れみの、と言えるほど隠れてはいませんが。あの一件があってから足回りが重くなったのかもしれませんね。かれらは今そこにいます。例の社員もね。あなたが潜入していたあの地下のオフィス、あれはもうありません。あそこはもぬけのから、がらんどうになってます。次に潜り込むべきはここですよ」と言って刑事は書類を指さした。

 まだ私に語ることができる情報はあるのだろうか?



「何もないよ」と社員は言った。

 社員が入口のスイッチを押したので蛍光灯がともった。私はまぶしくて目を伏せた。

「秘匿されている資料を暗闇にまぎれて見つけ出そうとでもいうの? そんなものはないし、あったとしてもこんなところに隠しておくわけはないよ。被害者のいた会社の資料室に、被害者の殺害に関わる情報が隠されるはずはない。そう思うだろ? そもそもどうやって入り込んだんだ」

 そこは刑事の言うとおり、がらんどうだった。机や棚、観葉植物に至るまで、およそ室内にあって持ち運べる物はすべて運び出されているようだった。私や《彼》が座った椅子、棚に整然と並べられてあった膨大な資料・記録の類い、会議に使われていたホワイトボード。すべてのコンピュータとそれらをつないでいたケーブル類。全部なくなっていた。床に敷かれている灰色のカーペットは人が歩いたであろう場所と物が置かれていたであろう場所で色合いが違っていた。

 私は刑事の名を借りてここへ来た。彼の言うような重要情報がここにあるだろうと考えたからではない。「なにかを探しに来たわけじゃない。いや、探しに来たんだが、目当てのものは物理的な何かじゃない」

「へえ。ではなんだい、それは?」

「それを考えるために来たんだ」

 社員は鼻で笑って中へ入ってきた。「もうあきらめたらどうだい。決着はついたよ。物語はもう終わり。幕は下りたんだ」

「この物語は喜劇か、それとも悲劇か?」

 さあ、知らないよ。と相手は言った。「脚本家に訊いてくれ。それはぼくじゃない」

「あんたが役者だっていうなら、いままでのは全部、台本に書いてあるセリフだったのか? 脚本家とはだれだ? その人物はどこでなにをしてる?」

「それがどこの誰かなんて言うわけないだろ。あと、ぼくの言うことはぼくの意思で言ってることだよ」

「その意思はだれかの操る糸なんだろう? どういう意図でああいう物語を仕立てたんだ」

「解明の場面をやりたいのか。それは今じゃないだろう。そもそもぼくの口から出てくるのは例のストーリーだよ。記事を読んだだろ?」

「あんたから真実の告白が聞けるとは思ってないよ。ただの独り言だ」

 そうか、と彼は言った。「謎は解かれた。わかりやすい物語が世間に向けて送信され、世の人々はそれを受信した。スムーズにね。人々はそれを吸い込みやすいスポンジなんだ。かんたんに吸収してくれる。ただしそれがわかりやすい場合にかぎるけどね」

「そうやって偽の物語で真実を隠すわけか」

 ふたたび社員は鼻で笑った。「なんだい、それは。真実? それはどこで売ってる情報なんだ」彼は腰に当てていた手をはなし、腕を組んだ。「そういえば、君は真実がどうとか言って、調査に乗り出すことを最後まで渋っていたらしいじゃないか。探偵のくせに謎を解き明かすことをしないで、むしろ謎を謎のままでとどめおき、さらには隠そうとまでしていた。それはぼくらのやることと同じじゃないか? ぼくらは或る物語で煙にまく。君は謎を不可視の・不可知のものとして、遠い星のような存在として崇めたてまつる。方法が違うだけで、奥底に隠れている謎を不可侵のものとするっていう目的は同じじゃないか」

「かもしれないな」と私は言った。「私は謎を謎のままでとどめておきたがる。少なくとも今回の件に関してはそうだ。この事件はほかの案件とは違う。私にとっては違うんだ。なぜだろう。不倫をめぐる夫婦間の争いや猫の行方や企業の内部告発といったような案件とは根本的に異なるんだ。私にとっては。きっとあの時なにかが刻まれたんだ、私の奥の深いところに。謎が刻まれたんだ。あの時、《彼》が私の事務所のドアをノックして、私が面倒だなと思いながらドアに近づき、どちらさまですかと尋ね、返答がなかったから無視しようかと考えたけれどなぜか私にはそれができなくて、思い直してドアの鍵をはずし、そしてドアを開けた。彼が私の部屋に、つまり私の人生に入ってきて、そして一瞬で退場していったあの時。私の部屋の外部から得体のしれない強靭な直線がうちの窓ガラスをつらぬいて侵入してきて《彼》の頭蓋骨を通り抜けてその脳髄を破壊していったあの時、私にもその直線は達していたんだ。曲がったのか反射したのか、ともかく不可思議な仕方でその線は私の奥の深いところへも到達し、私という人間に何かを刻み込んでいったんだ。言葉にできない、まともな普通の言語表現では追いつかないものを私の奥底に残していった。それが私を、あの謎に対して不可侵でいさせたがる。その傷が、《彼》の正体、つまり《彼》がほんとうは何者であって何をしようとしていたのかという問題を解かずに放置させたがる。謎をわかりやすい物語に変換することを拒否させる。謎を謎としてそのままの状態にとどめておきたがる。私に刻まれたのはどのような紋様なのか? どのような言語が私の奥底で、暗がりで鈍い光をはなっているのか? それが私にはわからない。そして分かろうとする意思もない」

「探偵失格だね」と相手は言った。

「そうだ。私はもう探偵ではない。役割をもたない。特定のシナリオどおりに動く役者ではなくなった」

「もう解くべき謎はない。ばらばらに見えていた物語の断片たちはつなぎ合わされ、ひとつの物語となった。ひとつながりのシナリオになった。ここから先どうしようとも、すでに決着して受容された物語が新たな展開を見せることはない。だって受容されたんだから。読まれたんだから。読まれるということは決定されるということだ」

「読むということは」と私は言った。「書くということでもある。読みかたは無限に存在する。数かぎりない読みかたで、数かぎりない物語を生むことが可能だ」

「でもそうやって生み出された物語のうちほとんどが、ひとつのわかりやすい物語に駆逐されうる。君がこれまでの人生でやってきたことがそうじゃないか、元探偵さん。謎を解き明かして、つまり謎をたたき潰して、唯一の解釈を人々に向かって説いてきたんだろう?」

「少なくとも」と私は言った。「もう私がその場面を展開することはない」言いながら私は部屋の出入り口へ向かって歩いた。すれちがいざま、社員が「さようなら」と言った。

「まだその台詞は言わないでおくよ」と私は言った。



 帰路、雨は上がっていた。夜だった。星が出ていた。コンビニで酒を買い、歩きながら飲んだ。青みがかった夜空を見上げれば世のどうでもいいノイズが流されて消えてゆくような気がする。もちろんそれは気のせいであって実際よどんだ泥水のようなものがふと目を転じるだけですぐ視界に入る。気のせいであるとわかっていながらも見上げざるを得ないのだった。私は煙草に火をつけた。深く吸った。上を向いて煙を吐いた。薄い雲の切れ端が音もなく流れてゆく。暗い空に浮かぶ、ちらつく青い星。謎。私に語ることができる情報はあるのだろうか? 情報とはなんだろう? 謎が解かれてすべてが明らかになった時、それはもう情報ではないのだろうか? その謎だったものは、解かれた時、輝きを失うほかないのだろうか? だとすれば、輝きを継続させるためには、謎を謎として保存しておく以外にない。私にその手段があるか? 謎を物語から解きはなつことができるだろうか?

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