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書類上 〈第3回〉

 詩はあまり読んでこなかった、と私が言えばすぐに彼女は「終わってるね」と言った。「なにか欠落してるよ、それは」

 欠落、と私は言った。「それを言うなら僕は古典的な音楽にも美術にも触れてこなかった。これも一種の損失かな」

 そうだよ、と少女は答えた。「だからわたしだって損してるわけだ」わたしの損失、わたしの連続、などと彼女はつぶやいた。継続するわたし、接続するわたし。それからまた例の赤い手帳を取り出してなにごとか書き留めていた。私は貯水槽のそばから離れて手摺のほうへ歩いていった。屋上から見る街は灰色の雲の下で停まっているように思えた。人影も車の数も少なく、まだ灯りもついておらず、ただ巨大な雲の群れだけがわりあい強い風に運ばれてどこでもない場所へ向けて移動していた。

「言葉を」彼女がなにか言った。後半が聞こえなかったので、私は大声で聞き返した。すると少女は書くのをやめてこちらへ歩いてきた。片手に持っている手帳のページが風にあおられて数枚めくれた。「言葉を置くと、その瞬間からあちらこちらへ向けて矢印が伸びる」そう彼女は言った。

「意味の矢印が?」

「まあそんなような感じ、と言ってもいい。細かく言えば矢印ではない。それだけではない。紙の上にインクを垂らしてそのしみがじわじわと拡がっていくように、なにか語の磁場のようなものも拡大していく」

 すごいね、と私は言った。「普段からそういうことを考えつづけているから、そういった言葉がするすると出てくるんだ」

「すごい。子供にしては、ということ?」彼女は私を横目で見た。そうは言ってない、と私は答えた。彼女はボールペンの頭を親指で押さえてかちかちと音を鳴らした。

「ひとつの言葉を紙の上に置けばその瞬間すでに見えない影響の場が拡がっている。拡がって存在している。磁場が複雑な見えない図となって展開しているし、意味の矢印はどこか知らない方角へ向かって飛んでいる」

「名前のない方角へ向かって」

 それいいね、と彼女は言って手帳にメモをとった。「名前のない方角」



 ひとりの男が歩いていた。それは私だった。街の中を歩いていた。空が曇っていた。夕刻の街には帰路を急ぐ人が多いようだった。私はどこにも帰る場所がないかのようにただ目的もなくふらつき歩いているだけだった。何かに出会うことを期待していたのかもしれない。無意識になにかしら普段の日々から逸脱するものを求めていたのだろうか? すでに出会いたくないものと遭遇したあとではあった。その余韻もまだ消えきっていない時だった。何に会うことも欲しないのであればホテルの一室に閉じこもっていればいい。酒でも飲みながら、借りている本の続きを読めばいい。そうしなかった。私は街を歩いていた。喫茶店で本を読むとかひとりでコーヒーを飲むとかいった行為と同様に、街を歩くことにもある種の気晴らしや情報処理の機能があるのかもしれない。無心といえなくもないような調子で労働にいそしみ、その後ふと気づけば人間関係・世間関係の情報のかすが堆積して重みを増している。煙草をふかすようにくり返し胸の奥のたまりを吐き出そうとしてもその堆積はかんたんに消せるものではない。だとしたらその重量によって潰れてしまわないうちにそれを処理しなければならないだろう。処理方法はひとによってはさらに仕事に打ち込むことであり、場合によっては書くことであり、あるいは街を歩くことになる。私は街を歩いていた。そして彼女に出会った。

 駅前にさしかかれば人通りは多かった。傘を持って歩く人もいた。数多くの人々のなかにあって、私がある特殊な雰囲気をまとっている、というようなことがあったのだろうか。私だけが際立って見えるなんらかの要因があったのかもしれない。少なくとも彼女に言わせればそういうことになる。「あんたはシンプルに陽か陰で言えば陰。なんだけど、本当はそういう分け方では言えない何かがある。いやむしろ、ない。何かがないんだよ」と少女は言った。「僕に、ない?」と私は訊いた。そう、と彼女はうなずいた。何がないのだろう?

「それを言うために詩は存在する」と彼女は言った。「それが必然性とかそういうやつで、そしてその先に詩的真実とかそんなようなものがあるかもしれないし、ないかもしれない。実際あるかないかはどうでもいい。あると思えばある。ないと思えばない」

 彼女と出会ったばかりの頃にはまさか自分よりひと回り以上年下の少女と文学談義まがいの会話をすることになるとは予想していなかった。すみません、と女性の声が聞こえたときの私はほとんど何も考えていなかった。彼女は考えていた。私からすればこの出会いは偶然だった。が、実際にはそうでなかったことになる。私は歩くのをやめてふり返った。私より頭ひとつ分背の低い女性が目のまえに立っていた。短い髪の、服の選び方・組み合わせ方が学生風の、少女と言ってもいい見た目のひとだった。なんでしょうか、と私は言った。「財布を落としちゃって」と彼女は言った。帰りの電車賃もなくて。それを聞いた私は反射的に、ああ、それは大変ですね、と言いながら自分のポケットに手を入れて財布を取り出そうとした。もちろん彼女の行為はいわゆる寸借詐欺であった。けれども私はその可能性にまったく思い当たらず、心細いだろうからお金を貸してあげようという善人よりも考えなしと呼ぶべき振る舞いをするところだった。私は何も考えていなかった。正確にいえば別のことを考えていた。殺人の瞬間、ひとの意識に到来するもの・しないものについてぼんやりと思いをめぐらせていた。電車代もしくは電話代を渡すために小銭を探っていた私に向かって「ありがとうございます」と彼女は言い、にっこりと笑った。そしてそのとき彼女の後ろのほうから早足で歩いてくる警備員風の制服を着た男がふたり見えた。私がそちらを見ていると少女も背後を見た。彼女はなにかつぶやいて突然走りだした。警備員風の男たちは実際ただの警官であり、待ちなさいと言いながら一人が彼女を追って走っていった。私のところにもう一人が残って私に話しかけた。私は財布を閉じてポケットにしまった。少女は走り去った。彼女が着ている大きめのサイズの、薄い色の上着がぱたぱたとひるがえっていた。



「昼の星。雲の裏の星」そのようなことを言って彼女はメモをとる。手帳の中身を見せてくれたことはなかった。

「夜の雲」と私は言ってみる。いいね、と少女が言う。「それらしい言葉を並べて、組み換えて、そして詩ができるの?」私は訊いた。

 基本的にはそうかもしれない、と彼女は答えた。「ただし、『それらしい』という程度では全然だめで、『それでなくてはいけない』言葉を探すんだよ。ずっと探しつづけるんだ」

「当たりを引くまで?」

「当たりはいつか出てくる。だって出てくるまでやめないからね。まあそもそも気軽に引けるくじみたいなものじゃないけど。あてもない、終わりのない旅みたいなものだよ」

 風がやんだ。街の音が屋上へ昇ってきた。空の端が紫色だった。

「夜の雲が来る
 月光を負って
 移動する
 夜の雲の群れ
 ある時
 塊が解かれて
 光の破片と千々の雲が
 あらぬ方へ
 名前のない方角へ
 飛散する
 その時
 夜の雲に乗れ」

 そんなふうに彼女は言った。



 塔の最上階で書き物をすることが日課だった。ある日呼び出されて地下へ降りた。そこには司祭をはじめとして領主、彼の主人等が勢揃いして卓を囲んでいた。「時はせまっている」と彼に向かって司祭が言った。彼にひとつの箱が手渡された。重みがあった。「これをかの土地まで運べ。道中、決して落としてはならぬ。盗まれてはならぬ。開けてはならぬ」彼は箱を受け取り、頭を下げた。箱を何重にもくるみ、からだに縛りつけた。

 ながい旅だった。荒天の中、砂漠を歩いた。途中で馬が死んだ。盗賊に襲われた。荷をすべて強奪されるところだった。盗賊のひとりを殺して逃げた。船に乗り、海を渡った。嵐に巻き込まれた。船員たちは海中へ投げ出された。舵が壊れて流されるままになった。獣の声のけたたましい島に漂着した。魚と草葉と鳥を食べた。太陽の沈む方向へ船を出した。結局波と風の意思で運ばれた。昼は太陽を、夜は星の並びを見て方角を探した。じきに雲が湧き、星々を隠した。空は雲の群に満たされた。彼は絶望した。あるいは決して望みを失わず、かの地をめざした。河をさかのぼって山にはいった。船を降りた。雲の下、歩き続けた。

 山の頂上へ達した。雲が目下を流れていた。彼は息を吐いた。その時何者かが彼に声をかけた。「その箱の中身を譲ってくれ」と。彼は断った。相手は年老いた男で、木の枝を杖としていた。服はすり切れて手は骨張っていた。これがいかなる価値のものか、語ることもできぬほどの代物だ、決して譲ることはかなわぬ。彼はそう言った。「わたしはそれを知っている」と男は言った。「中身を分けてくれれば、それについて教えてやろう」と。彼は動揺した。走って逃げた。息を切らせて山を駆け下りた。どちらへ向かっているともわからなかった。雲の中を走った。後ろを振り返ったが、追跡者はいなかった。雲海の中で彼は立ち止まった。くくりつけていた紐を解いて箱を両手に持った。包みを解いた。箱の蓋には言葉に尽くせぬ紋様が刻みつけられていた。彼の周りは白いもやに囲まれていた。だれも彼を見ていなかった。彼は箱を開けた。そして灰になってくずれ落ちた。彼だったものと箱の中身は風に運ばれた。



「まさか〈真実〉とはね。おまえがそんなものを知っているとは知らなかったよ」彼は笑いながら言った。僕もです、と私は言った。先輩は店員に向かって手を挙げ、コーヒーのおかわりを頼んだ。椅子に座り直して背もたれに体重をあずけた。「まあしかし、あいつらは好き放題書くよ。俺たちもそうだが」

「実際のところ、僕が語っていないことばかりが僕の言ったこととして書かれている。なかなかすごいですよ。ほとんど僕の知らない言葉が僕の言葉とされている」

「ならどうする。訴えるか」彼はテーブルの上の週刊誌をもう一度手に取り、ぱらぱらとめくった。私は首を横に振った。そうだろうな、と彼は言った。「ほとんどが間違っている情報なのか?」

 そこが難しいところで、と私は言う。「そうとも言い切れないんですよ。完全なフィクションかと思いきや、事実に即した部分もある。おおよそこういうことだろうな、と関係者たちが考えているラインを微妙に越えるか越えないかのところで仮説を組んでいる。もちろん仮説だと明言はしないけれど、事実でないとも明言しない。巧妙なやりかたです」

「それがあいつらの生きるすべだからな。かつては岩に擬態する恐竜もいたし、木のふりをする鳥もいたらしいぞ。事実を擬態するフィクションがあってもなんら不思議はない」

 なんです、それ、と私は言って眉をひそめた。

「言ってなかったか。俺は学生時代、考古学を専攻していたんだよ」彼は届けられたコーヒーのカップを口に持っていった。

「そうだったんですか。知りませんでした」

「嘘だよ、ばか。おまえはひとの話を素直に受け取りすぎるんだ。相手が俺だからってのは関係ないぞ。どうやらおまえは意外とだれに対してもそういう節があるらしい。言葉を額面通りに受け取るな。裏があるんだ。だいたいな。見えていない中身はわりかしどす黒いものかもしれないんだ」

 私はテーブルに目を落とした。次に窓に目を向けて店の外を眺めた。

「おまえは探偵としては不完全だな」と先輩は言った。「どちらかといえば、死んでる」

 そうですね、と私は言った。

 この頃の私は事務所兼自宅へ戻って何もしないでいる時間が多くなった。依頼を断る回数も増えた。端的にいえば自分に蓋をして過ごしていた。いつまでも血の拭き取られたソファを残していないでそれを売り払うなり別の建物へ引っ越すなりすればよかった。だがそのような発想はそういった時期を過ぎた今だから出てくる。当時は出なかった。私は何もしないでいるのが苦痛になった。けれども何かをすることはできなかった。ただわずかな案件に関する事務作業や継続中の調査のための下調べなどを時々思い出したようにこなすだけだった。

 ある時ふと思い立って書店へ行った。著者名と題名を告げて一冊の本を注文した。それが以前図書館で借りて読んだ『伝説集』だった。二週間弱が経ってから本を受け取った。小さな活字と銅版画の配されている白い表紙が私好みだった。そこには数多くの説話あるいは伝説と呼ばれる物語が収められていた。私はひとつ読んでは煙草をふかし、もうひとつ読んではコーヒーを飲んだ。なにか自分の奥に風の通るような感触があった。なぜそうなるのかはわからなかった。

 ただひとつその本を読んでいて違和感を覚えるところがあった。どの物語にも固有名詞が頻出することだった。巻末の訳者解説によれば、伝説とはそのようなものであるらしい。現実の土地・人物をめぐる物語。その山が・その河が現在の姿となった由来、その人物が成した功績・遭遇した奇蹟等々が語られる。具体名が出てくることこそ伝説の特徴である、と書かれてあった。私は固有名詞が出てくるたびにその部分を意識の中で隠した。そうするほうが読むことの快楽が大きいのだった。そのようにしながら読みつづけているうちに思いついた。私はコンピュータに向かって『伝説集』の本文を打ち込みはじめた。ただし、固有名詞をすべて代名詞や別の呼称に置き換えながら書き写した。それは楽しい作業だった。キーを叩く作業が、自分にとって好ましい紋様を石版に少しずつ刻みつけてゆく作業のようで、いつまでも続けていられると思った。できあがった〈伝説〉は本来のものとは別物だった。書き写しながら私はいつのまにか本来存在しない展開を書き加えたり、ある部分を削ったり、重要な描写を変えたりしていた。書いているうちに自然とそのようにした。当たり前のことだと感じた。このように書くのが当然だと思いながら書いた。ある種の必然性が感じられないときは書くのをやめた。本文とかけ離れた物語であっても、必然性があると思えたときはほとんど自動的に言葉が出てくるのだった。それは物語の語り直しだった。それが私を生かした。語り直された〈伝説〉は私にとって生きるためのフィクションだった。



「だからそれを構築すればいいんですよ。あなたの思うとおりにね」そう刑事は言った。声が響いて地下道を抜けていった。彼は道の先を見て、反対側も見た。少し声をおさえて「あなたにはそれができる。そうでしょう」と言った。われわれは向かい合っていなかった。私は壁を背にして立ち、彼は私の横顔に向かって語りかけていた。われわれの声がだれにも聞こえていないという保証はなかった。夜の地下道を宿にしたがる浮浪者は刑事が追いはらった。会社員風の男が通りすぎた。それ以後だれも来なかった。直線の地下道は青白いライトに照らされていた。道の一方の先には階段が小さく見えた。もう一方の先は暗がりのなかに消えていた。われわれはふたりだった。外は雨だった。

「なぜですか」と私は言った。「なぜ私にそれをやらせようとするんです? あなたが仮説を立てて、それを証明するために動けばいい。それだけの話ですよ。ただやるべき仕事をすればいい。警察は機能していないんですか?」

 彼は半分顔をしかめて半分笑ってみせた。「いろいろあるんですよ。こちらはひとりじゃない。組織なんでね。しかも強力なトップダウン型だ。ピラミッドですよ。頭が右と言えば右へ、左と言えば左へ行かなきゃならん。わたしらなんて手足の指ですからね。自由に動けないんですよ。上のほうにある口こそ自由自在に言い放つんです、ああしろ・こうしろってね」彼はコートのポケットから煙草を取り出した。一本口にくわえて火をつけた。煙を吐いた。煙草を挟んでいる指を上に向けた。「空から降ってくるんですよ、オーダーが。そしたらわれわれは」と言って両手をあげた。「どうすることもできない。不可能だ」

 私の見ている壁には細い亀裂が走っていた。上から下へ枝分かれする雷光のような形状だった。この地下道においてわれわれを覆い隠している蓋が崩落するさまを私は想像した。私たちは何もできないで圧死するだろう。亀裂が表層のわずかなほころびに過ぎないのか、あるいは奥まで到達しつつあるのかを確認する手立てはなかった。男が煙草をくわえて黒い鞄に手を差し入れた。数枚の紙の束をとりだした。煙草の煙が彼の顔をなでて昇った。「これを」と彼は言った。私は手を出さなかった。

 彼は煙草を指にはさんだ。「ここまでしか調べられなかったわけじゃない。もっと深くまで行ってます。わたしらはね。ただ持ち出せるのはこれが限界だった。ちょっとこれ以上は無理だった。わたしの首が飛ぶだけじゃすまなくなりそうだったんでね。ここがぎりぎりのラインだった。法に触れるかどうかの境界線だけじゃない。あなたにもなんとなくわかるでしょう、世の中には法律以外にもある種のぎりぎりのラインってのが存在する。それを踏み越えたときはもう地獄ですよ。わたしらの中にはそんな勇気のある者はいないし、そもそもこの件にばかり関わり合っていられない。たいして興味がないんです。みんなもう過去のこととして取り扱ってます。進行中の案件として扱ってはくれません。ここが瀬戸際です、探偵さん」彼は私のほうに書類の束を差し出した。「この話が迷宮入りするかどうかの瀬戸際です」

 私は憂鬱だった。雨の音が勢いを増した。われわれは分厚い灰色の雲の下で陰鬱な街の空気の下にある地下道に立っていた。降り落ちてくる雨の音が私を問い詰めるように・追い立てるように感じられた。空は見えなかった。地下の空間にざわざわと雨音が響きつづけていた。それは耳に障った。となりに私の返答を待っている人間がいた。

「すべてのことは不可能ですよ、刑事さん」私は言った。「そう言ってしまいたい気持ちもあるんです。あらゆることを秩序のもとに引きずり出して照明を当てて分析・整理する。それができれば苦労はしない。でも大半は中途半端で終わるでしょう。ほとんどの物事は途中やめになる。いつだって僕らは過程のなかにある。僕ら自身が過程なんだ。結論はつねに暫定的です。真犯人を見つけだして糾弾して監獄へ送って、それが何になる? また次の真犯人が出てくるだけだ。犯人とそいつの所属する共同体の内側にいかなる真実があろうと、そんなものは下水に流せばいいんですよ。《彼》はなぜ殺されたのか? それは真犯人の真実だけじゃ明らかにできないんです。地獄だか煉獄だかへ行って被害者に直接聞いてみないことにはわからないんですよ、《彼》の物語は。どうしようもないことなんだ」

「めざしているもの・見ようとしているものが違っているようですね、わたしらは」刑事は紙と煙草を持っている手をいったん下げた。次に書類を持ったまま顔に手を近づけて煙草をくわえた。紙束を私の胸に押し当てた。「よろしくお願いします」と言った。胸に当たる紙の感触が不快だったので私は受け取った。

「それでも」と彼は言った。「たとえそれだけでも、救われる場合があるんですよ」

 だれがです? と私は訊いた。「だれが救われるんですか」

「この街の表層で、上っ面で、あくせくしながら泳ぎつづけている人々です。わたしのようにね。溺死者になることを恐れて日々必死の思いで水をかき分けている者たちですよ」

 まだ雨はやまなかった。私の手のなかで白い紙束がくしゃりと折れ曲がっていた。



 そのとき獣のような声がした。森の奥から出てきた猿か何かが迷い込んできたと思った。私はふり返った。なにか白いものが散っていた。それらは青い空の下で白い鳥の群れが飛びまわるようにはためいていた。だれかが紙の束をばらまいているようだった。何枚も、何枚もまき散らして、それらは風に乗って飛び、ゆらめいて、やがてアスファルト舗装の黒い路面に落ちた。駅前には昼食をすませたであろう人の往来が多かった。人々は紙を踏んで歩いた。避ける人もいた。太陽の光が紙の白さを際立たせた。噴水のように紙束が噴き上げられている箇所に制服の男と小柄な少女が立っていた。かれらは互いの手を取り合ったり放したりした。制服の男すなわち警官はなにか怒鳴っていた。少女が叫んでいた。私は歩きつづけた。そのまま行けばかれらの横を通過せねばならなかった。少女が紙をまき散らそうとし、警官がそれを制止しようとしているらしかった。私は歩きつづけた。ふたりの近くまで来た。警官と取っ組み合っている少女の顔に見覚えがあった。そのひとが以前私に寸借詐欺をはたらいた人物であることに気づいて立ち止まった。昼下がりの駅前の歩道で異質な言動をするのは彼女たちふたりだけだった。空はよく晴れて濃い青だった。白い雲の輪郭がくっきりとしていた。野生の小型の獣のような高い声が聞こえた。ふと奇妙な心地がした。なにか夢の中にいるような感覚に襲われた。殺人は行われていないし私はそれを目撃してもいない。自分は健康そのものではないにしても日々の労働に支障はなく、人間関係においては潤滑油がほどよく機能してエラーが発生することはない。私は夜に神話や民俗学等の好ましい題材の分厚い書物を読み、適度に酒と煙草を楽しむ。昼に複数の人と出会っていくつかの種類の交渉をもち、計画を立てて実行する。また次の夜が来る。月の光は刺すような冷たさを備えておらず、ぬるい心地の湿度をもって私を癒す。そのような幻想が私を包み込んだ。そして私は足もとの紙を一枚拾った。紙には小さな活字でなにか印刷されてあった。私はそれを読んだ。ふたりに向かって声をかけた。私と少女のコミュニケーションはこのようにして始まった。

 われわれ、つまり私と警官と少女の三人が手分けして紙を拾って歩いた。たいていの紙にはだれかの靴の跡がついていた。私は汚れを軽く手ではらってから束の角をそろえて持った。警官が少女に説教していた。少女はなにも言わなかった。片づけが終わる頃には少女だけでなく私までが警官に向かって頭を下げることになった。「お願いしますよ」と警官は私に言った。「わかりました」と私は言っておいた。

「なにが分かったの」と少女は言った。「そんな簡単に割り切れることなの」

「わからないけど、わかったんだ。あとで話すよ」私は少女に向かって言った。

 このときは過去の名刺を見せてごまかすことができなかった。私は正規の身分証を警官に見せた。少女が近寄ってきて警官の手もとを覗きこみ、私の免許証をじろじろと眺めた。警官がたしなめるようなことを言った。私は「いいですよ」と言った。私と少女とのあいだに血縁関係はなく、身元引受人などというような関係もなかった。ゆえに私たちへの質問はなかなか終わらなかった。私が成人男性であることも手伝って、容易に引き渡すわけにはいかなかっただろう。私は例の件を担当している刑事の名を出した。そして私たちは解放された。紙の束をふたりで分けて持ち、少女と私は歩きだした。

「どこ行くの」と少女が訊いた。「うん。どこへ行こうか」と私は言った。それからすぐに私は聞きたかったことを尋ねた。「これはなに?」紙束を示して言った。「表現」と彼女は言った。「美大生か何かなの?」そう私が言うと少女はいやそうな顔をした。「まあ生き物としては似たようなもんだよ」少し間を空けてから、「どうせ若気の至りとかそんなふうに思ってんでしょ。この時期特有のやつだ、って」「わからない。思ってるかもしれない。その点はあまり気にしてないから。それよりこれはどうやって書いたの?」と私は訊いた。彼女は黙っていた。「これは詩だろ?」と私は紙の上の文字列を見ながら言った。彼女はしばらくなにも言わなかった。やがて言った。「どうやって書いたか、なんてこっちが聞きたいよ。それを知りたくて書いてるんだ。なにをどうやって書いたらいいか。その答えがそのまま詩になるよ」

 私たちは歩きつづけていた。どこへ向かっているのか、ふたりとも知らなかった。どちらへ向かって歩いてゆけばいいのか、私たちにはわからなかった。



 書類の整理は終わりそうになかった。まだファイルが無数に残っていた。社員たちは先に帰った。警備員ともうひとりを残して、フロアのほとんどの照明を落として、「お疲れさまです」と言い残して帰っていった。きっと生前の彼にも言ったのだろう。業務にひと段落がついてあの頭に穴を空けられた男が立ち上がって鞄を持ち、部屋から出て行こうとするときにお互いがお疲れさまですと言い合ったのだろう。被害者が生前使っていたデスクに向かって被害者の遺した業務関連の書類を漁っている私に向かってお疲れさまですと言った社員たちはどのような心持ちだったのか。彼の身代わりが見つかったことを、別れの挨拶を送る相手ができたことを喜んでいるだろうか。ある日なすすべなく撃ち殺されてしまった彼に向かって何を言うこともできなかったのを後悔して、いま突如現れた私という代替物に対して最期の言葉を投げたのだろうか。そのような妄想をひろげることが容易なくらいに室内は静かで暗かった。すでに夜だった。警備員は一度顔を見に来ただけでそれ以降は来なかった。私の頭上にしか灯っている蛍光灯はなかった。書類漁りには最適の夜だった。

 コーヒーの香りがした。足音とともにひとりの男が部屋へ戻ってきた。「どうですか。進捗のほうは」と彼は言った。彼が監視役だった。男はネクタイをわずかにゆるめて自分の席についた。ひじをデスクにのせてコーヒーを一口飲んだ。そちらの照明は点灯していなかったので彼は暗がりのなかに座っていた。私はなかなか進まないという意味の返事をした。「こういった業種は初めてですか?」と彼は訊いた。そうですと私は答えた。「以前は記者をやってらしたそうですね?」と彼が言う。私は書類を仕分けながらうなずいた。「どうしておやめになったんですか?」という質問のあとで私は手をとめた。すると「すみません、好奇心です。記者の方に会うのは生まれて初めてなもので。お答えいただかなくてけっこうですよ」と彼は言い、片手を振った。元記者です、と私は言うつもりだったがやめた。

「そんなに初日から根をつめなくていいですよ。ゆっくりやりましょう」と社員は言った。

「ええ。でも早く慣れないと」そう私は言った。偽証がばれる前に退散したかった。私は探偵だから死んだ男関連の書類を見せてくれ、と依頼したところでだれも応じないだろう。正式な調査だと言えば皆ある程度までは閲覧させてくれる。が、もちろん企業内部の情報をかんたんに見せるはずもない。こうするしかなかった。いままでの経験からいえばほかに選択肢はないと考えた。外部から見ることのできる範囲に私の欲する情報があるとは思えなかった。とはいえ、この会社が内側に抱えている情報を探れば遠距離狙撃へとつながるものを発見できる保証もないのだった。この企業の過去から将来へ至るビジネス関連の数字と単語がわかるだけかもしれなかった。これは賭けだった。探偵としての勘がそうせよと言ったわけでもない。不安定な足場の上で目隠しをしながら跳躍した。ただそれだけの選択だった。私は次の瞬間どことも知れぬ空間へ向けて落下するかもしれなかった。だからといって何もしなければ私は石になる。ただ沈んでゆく一方になる。そのように予感したからこの地下のオフィスへやってきた。

「やっぱり一服しませんか。淹れてきますよ」と男が言って立ち上がった。私はもう一度断った。彼はなにか曖昧なことを言いながら部屋の外へ出ていった。ふたたび沈黙が室内に満ちた。私は紙を漁る手をとめた。ふと周囲に目をやった。室内にはコの字の形にデスクが配置されていた。机と椅子のないところに観葉植物とホワイトボードが壁に寄せて立ててある。その上の天井や反対側のデスクを見てもプロジェクターやスクリーンらしき設備は見当たらなかった。会議にはこのホワイトボードを使うのかもしれない。あるいは会議室が別にあるのだろう。ボードには今の私にとってまだ意味のわからない予定や結果が書かれてあった。それはスライド式の二枚重ねのものだった。もう一枚には何も書かれていなかった。部屋の中央には空間が空いていた。そこだけ何も置かれていない。自由に歩きまわることのできるスペースがあった。きっとプレゼンテーションをする人間がそこに立つのだろうと思った。《彼》すなわち撃たれた男はそこに立って周りの社員たちに向かって新しい企画の説明をしただろうか。黒と赤と青の水性ペンを駆使してホワイトボードに計画の利点やデメリット、得られるであろう利益の概算を示したのだろう。社員たちは腕組みをしたり机にひじをついてコーヒーを飲んだりしながらその演説を聞いたかもしれない。時には《彼》の作成した資料の紙束をめくりながらだれかが反論や質問を飛ばしただろう。それに対して《彼》は答えただろう、計画の論理的隙のなさとあらゆる問題の解決方法を。ペンを持っている手と空いているほうの手をしきりに振りながら雄弁に語っただろう。そして《彼》は演説を終えて自分のデスクへ戻り、分厚い資料を机上に置いて椅子に腰かけただろう、計画の成功を確信してほほえみながら。数日後に撃ち殺されることを全く予想しない状態で、資料をめくり、コンピュータのスリープ状態を解除しただろう。勝利の味をかみしめながらコーヒーを口にしただろう。《彼》はコーヒーに砂糖とミルクを入れたのか・入れなかったのか?

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