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書類上 〈第4回〉

「地下?」と私は言った。ドア付近の女が「そうです。ここは違います」と言ってまたコンピュータのキーをたたき始めた。私は混乱した。《彼》が勤めていた会社のオフィスはなぜ地下に設置されたのか? 通信回線を引くのに不便はなかったのだろうか。なにか特別な理由があるのかもしれない。あるいは何も不可思議な理由はなく、ただ空いている物件と起業の時期の関係でそこに決める以外なかったのかもしれない。しかし実際、そこが地下である理由はどうでもよかった。私はとにかく《彼》のオフィスへ行く必要があった。ドアに最も近い席、すなわち私から最も近い席の女に目当ての場所への行き方を尋ねた。それからしばらく私と女とのあいだで情報の受け渡しと確認の作業がくり返された。それは失敗と再試行の連続だった。「左へ行くと……のドアがありますので、そこを通過していただいて」「失礼、何のドアですか?」われわれの間の連絡はなかなか成功しなかった。「階段を降りてまっすぐ行って右の、二つ目のドアですね?」「いいえ、その階段を降りずに廊下を歩いて……」「さきほど階段を降りてください、と」「それとは別の階段のことです」会話の途中で私たちは部屋の外へ出た。室内を飛び交う視線に堪えられなくなったのだ。「そのあと道なりに進めばお探しのオフィスに到着です。おわかりいただけましたか」「ええ、わかりました」と私は言った。わかっていなかった。女と私は疲れた。一刻も早くこの情報授受を終わらせたいという気持ちが私たちを急かした。最終的に紙の上にかんたんな地図を描いてもらった。それを見ればなぜこれほど伝達に時間がかかったのか不思議に思うほどシンプルな道だと判明した。私は一気に強い虚脱感に襲われてもう帰宅しようかと考えた。しかし前もって連絡を入れてあったので無断で帰るわけにはいかないのだった。女に礼を言ってその場をあとにした。儀礼的な微笑が女の顔に貼りついていた。

 いわゆる名探偵が現実の世に存在するかどうかは議論の余地があるところかもしれない。いずれにせよ私がそれでないことは明らかだった。事務的に証拠を集めて整理し、平凡な結論に至る。私にできるのはそのような作業だけだった。点々と散らばっている証拠・情報のそれぞれから結論としての仮説へ至るまでに直感的な飛躍はありえなかった。情報と仮説を結ぶ線に非凡なひらめきは絡みついていなかった。そこにある線はただ鉄道のようにあちらの駅からこちらの駅へと地を這って結びついているだけだった。私はフィクションにおける探偵ではなかった。ビジネスとして調査を請け負い、金銭と引き換えのサービスとして探偵業を営んでいる中年の男だった。ある種の謎をめぐる冒険は私の演じる劇ではないはずだった。私は自分が優秀な探偵ではないということをよく知っているつもりだった。ただ、それにしても不審なくらい私は先のドア付近の女とのやりとりにおいて情報整理能力に欠けていた。単純に頭がうまく働かなかった。しばらく前から酒はやめていた。睡眠はごく普通の時間帯にごく一般的な長さでとることができていた。私は不思議だった。なぜあれほど《彼》のオフィスへの道を理解することが難しかったのか。撃たれた男がかつて勤務していた会社のオフィスは地下迷宮の奥深くにあるわけではなかった。ただの雑居ビルの地下にある一室だった。



 ひらいていた『伝説集』を閉じた。すぐ思いなおしてまた開く。メモ帳から破り取った紙片をはさみ込んでから閉じた。椅子から立ち上がる。煙草の箱から一本取り出した。窓際へ歩きながらライターで火をつけた。窓のそばの小さなテーブルに灰皿を置いてある。ひとしきり煙草をふかした。吸い終えるころにひとつ書き忘れがあることに気づいた。書きかけの〈伝説〉の終わり際へ付けくわえたい描写を思いついていたのだ。煙草を灰皿に押しつけて火を消した。キッチンへ歩いていって冷蔵庫を開けた。コーヒーの紙パックを取り出して一口飲んだ。そしてその瞬間自分が或ることを忘れた、ということに気づいた。コーヒーを冷蔵庫にしまった。キッチンの隅に立ったまま考えた。遠くから消防車のサイレンの音が響いて来、やがて聞こえなくなった。意味もなくシャツの上から胸のあたりを手でかいた。靴のかかとで床をたたいて鳴らした。思い出せなかった。窓のそばへ戻った。カーテンを少し開けて外を見た。向かいのビルの薄汚れた壁と白くかすんだ空が見えた。新しい窓ガラス越しに外の様子を見ればすぐに例の殺人についての記憶がよみがえる。が、思い出したいことはそれでないとわかっていた。ふたたび煙草を口にくわえて火をつけた。いわゆる「重い」煙草を吸っている。立てつづけに何本も吸えば快楽より不快感のほうがまさる。すぐに火を消した。煙越しに見えるビルの屋上に鳥がとまった。いったい自分は何を思い出そうとしているのか? それがわからなかった。なにを忘れているのか? 鳥が飛び去った。電話が鳴った。顧客のひとりからだった。「お願いされていた資料、というかまあその、あれのことなんですが」と彼は言った。「もう少し待っていただきたいんです。堂々と用意するわけにはいかないもので、ちょっとその、隠れながらひっそりと事を進めています。なのでもうしばらくお時間をいただきたいと思って」ということだったが、何の話をしているのか皆目わからなかった。「かまいませんよ。ゆっくりでOKです。焦ることはありません」と答えておいた。電話を切ってから机のそばへ行った。引出しを開けて顧客リストを持ち出した。それを片手に持ってめくりながら室内を歩きまわった。「あれ」とは何だろう? リストにある番号と名前を確認して机に戻る。置いてあるノートを手に取った。案件に関するメモ書きを読み進めた。とまどいが微妙ではあるが確実に恐怖へ変わりつつあった。顧客の番号と氏名を確認できた。確かにある銀行の人事と金をめぐって調査している。しかし「あれ」とは何のことだろうか? わからなかった。先方はこちらの返答によって安堵したようだったのでひとまず問題ないだろうと考えた。なにかもうひとつ別にやるべきことがあったような気がしたが、気のせいだろうと思う。ノートを閉じた。



 書類をめぐる手続きに関して私には複雑な感情がある。公的書類に私という人間の有り様を表現することは苦手だった。居所・氏名・年齢・職業などを明確にせねばならないのが嫌だった。そうしなければ私が私であることを証明したことにならないのが苦痛だった。そんなことはどうでもいいと役所の窓口で言いたかった。私はたちの悪い市民だった。必要な書類を提出期限が過ぎてから書きはじめる。社会のなかで生活するにあたっての約束事を破棄したかった。単純に言い切ってしまえば私は公的な証明を憎悪していた。だが一方、数多の紙の記録を整理してひとつの仮説への到着をめざす、探偵としての書類整理は私にとってきわめて魅力的な作業だった。小さなメモ帳や紙のカードに情報の断片を書きつける。電話や訪問をくり返して数字や固有名詞を獲得する。メモの数が増えてゆく。増大したカードの集積をまとめて束にする。角をそろえて両手で持つ。指でカードをずらせば情報のかけらが見え隠れする。その紙束のかすかな重み、かいま見える情報の断片、それらが私に恍惚の気配を予感させた。ゆっくりと私はカードを黒い机の上に並べてゆく。はじめは乱雑に、何の意味もなくただ置いていく。しだいに秩序が見えてくる。カードの位置を入れ換える。白い紙のカードAとBが同じグループとして見えない境界線で囲われる。BとCに関連はないが表面的な類似が見られるので近くに置いてみる。そのようにして小さな領土ができてゆく。世界の歴史が展開してゆくように机上でいくつかの領土が生まれては消え、衝突・合体・分離をくり返す。強大な領土ができあがった時、私はひとまわり大きなサイズのメモ帳に文章を書きはじめる。その領土の境界を決定づける事実を、その小国家の法律を書き連ねる。やがて数枚の、あるいは十数枚の法の成立が決定的となってまた領土をめぐる闘いが始まる。論理の盾と城壁・直観の矛と砲撃が火花を飛ばす。そしてながきにわたる戦争の終結後、私は最後の物語を書きはじめるだろう。いくつもの領土の盛衰のあとで私はひとりの歴史学者になる。ひとつの歴史、私という人間が見たかぎりでの仮説としての歴史を執筆する。現在から見た過去の物語、未来へと至る仮説を私は書くだろう。それを書き終えたとき私は幸福の定義について論証の役に立ちえる情報を手に入れるだろう。ひとつの謎が解かれるだろう。



 ながい時間を経て現在にまでたどりついた物語の石を私はハンマーで打つ。くだかれた破片をかき集めて並べなおす。新しい不可思議が私をつくり変える。「彼は旅をした」と私は書く。その作業が私にある種の跳躍をさせる。書くことには時間と空間を超える機能がある。

「伝説? 要するに物語を書きなおすわけか。箱庭療法みたいなものか?」と先輩は訊いた。かもしれません、と私は言った。

 ある種のデータが自分のなかに蓄積している。それはただのデータの集積であって、そこに善悪はない。情報収集は毎日毎夜自動的に行われる。或る情報が量・質またはそれ以外の尺度においてなんらかの偏りを見せた時、もしくは地に対する図としてのそれが過剰な昂まり・落ち込みを露わにした時、ただの情報が薬または毒になりえる。その地図は私のなかにある。私がそれを描いている。地図の或る箇所において過剰な質量が観測された場合、そこに多大な質量を付与したのはほかのだれでもなく私だろう。私が測量し、世界地図を描画している。地図上で何かを観測することはすなわちそれを認識・決定することだ。私自身がその情報の属性を定める。それが有用である・有害である等々の決定をくだす。私が毒物を摂取した、という状況はつまり私がそのデータを毒として認識したということになる。

「いまひとつわからんな。つまり自分のなかに、それこそ一種の箱庭があるってことか?」

「そうですね。ただそれはカオスとしての世界です。善悪の区別はなく、そもそも整理されていない世界です」

 その荒廃した箱庭は無限に拡がっているように思える。過去および未来へ、現在の深部へ、どこまでも展開しているような気がする。けれども実際のところは私の能力が追いかけられる限りでしか認識できない。たとえ無限に飛行していった先に境界があるとしても私にはそれを見ることができない。ただ自分という照明が照らしだせる範囲を認識するだけだ。その狭い荒れた庭のなかで毒を観測・創出してしまった場合、それを排除することが必要になる。しかし往々にして毒はそれ自体として独立して存在しているのではない。ほかの情報群と混じり合ってマーブル模様を描いている。毒とその周辺をめぐって切り分けと整理を行わなければならない。

「その整理されていない世界から部分的にあれこれの要素を抽出して、分割・整理を試みる。そしてその結果が箱庭になるってわけか」

「実際の箱庭療法について僕はなにも知りません。だからこれは箱庭療法の説明ではないのですが、いま僕が言いたいのはそういうことです。箱庭としての〈伝説〉を僕は書いているわけです」

 既存の伝説が触媒となる。物語の種になる。私には創作の経験がなく、ゼロから物語を生み出す技術は得ていない。既存の物語を編集することで創作と似たような機能をはたらかせている。短い文章をひとつの箱として設定し、そのなかで小さな地図を描く。物語という測量装置が箱庭を描画してゆく。その機械は時間と空間をめぐって作業する。地中の奥深くにトンネルを造るようにして物語機械が硬質な混沌物質を掘り進め、呼吸のできる空間をひろげてゆく。私はそこで息をする。

「その空間と時間がおまえを癒す?」

 私はうなずいた。

 店員が私たちのテーブルへ近づいてきた。コーヒーのおかわりはいかがですか、と彼女は言った。



 それはプラスチック製で上部が白くて下部が黒色のカップだった。その中で黒い液体がゆらめきながら湯気を立てていた。私はカップを持っていないほうの手を軽くあげて拒否の意を示した。社員はミルクと砂糖を持ったまま彼の席へ戻った。椅子がきしんで鳴った。居残りの社員はホワイトボードの正面の席についていた。私はボードを左手に見る位置に座ってコーヒーを飲んだ。いくつかのデスクが私たちのあいだにあった。デスクには例外なく多量の書類や分厚いファイル、業務関連の書籍が立てて置かれていた。それらが遮蔽となるため私の位置からは社員の首から上しか見えなかった。その首がこちらを向いて「いかがですか。慣れてきましたか」と言った。「うちへ来てからけっこう時間も経ちましたよね。だいたいどういう感じかはつかめてきたんじゃないですか」と彼は言う。私は一応うなずいてからコーヒーを一口飲んだ。それは熱くて苦かった。

 新しい業種に慣れようとして日々残業をくり返しているわけではなかった。いまのところ調査の成果はゼロだった。あの撃たれた男はどうやら勤勉であったらしく、プロジェクトの責任者をまかされる位置にいたということが判明した。つまり何もわかっていない。コンピュータのプログラムによるシステムのエンジニアリングとは具体的にどのような作業なのか私にはわからないままだったし、《彼》が表に出ない領域でいかなる作業を行なって・あるいは怠って殺害されるに至ったのかも依然として不明だった。ただ私が新入社員にも可能なレベルの事務作業を効率よくこなせるようになってきただけだった。

 ドアノブががちゃりと音を立てた。開いたドアの向こうからひとりの女が現れた。もうひとりの居残り社員だった。ドアが閉まり、彼女の足音が室内に響いた。お疲れさまですと女が言い、座っている私たちも同じことを言った。女は私の席からひとつ空席をはさんだ位置に座った。すぐコンピュータのキーをたたき始めた。私が業務に関する不明点にぶつかればこの女の横顔に向かって話しかける。たいていのことは答えてくれた。この女が事務の統括者といえる立場の人間だった。室内にキーをたたく音が響いた。ときおり私やもうひとりの男がコーヒーをすする。コンピュータのファンの回転音も聞こえていた。私が作業を再開してしばらくすると警備員が巡回に来た。深夜というにはまだ早い時間帯だったが、警備員にも規定のルーティンがあるらしかった。

 私は事務に慣れてきた。私に与えられたコンピュータへ次々データが転送されてくる。それらのうちから必要なものを抽出し、仮想空間上のしかるべき領域に配置する。私の机に置かれてゆく書類を整理し、数字と名前をコンピュータへ入力する。各所からの連絡を関係者へつなげて副次的な情報を添えつつ伝達する。この会社をめぐる情報網のなかでデータの流通を阻害しないよう努める。時間が来れば退社した。事務所兼自宅へ戻り、ネクタイをゆるめて煙草を喫う。また次の朝が来る。出社して、情報の流れをせき止めないよう尽力する。私は業務に慣れてきた。身体が偽の会社員としてのリズムに慣れつつあった。調査を進めなければならない、そうしなければ意味がない。それは思うだけで実行はできなかった。私は徐々に焦りはじめていた。が、なにも考えずに出社・業務・退社のリズムを維持することはある意味では楽だった。毎日の通勤時、突然の殺害に関して思い悩む必要がなく、不透明な事件の背景・見当もつかない動機の解明のために心をくだく必要もない生活というのはそれを維持できているかぎりにおいては楽だった。解かれるべき謎は私の目と手による干渉を受けることがなかった。それはいまだに濃い煙の塊のようにつかみどころがなく中を見とおすことも不可能なかたちで存在していた。私から見て明らかでない情報の塊として雨天時の雲の群れのように私の生活の上空を漂っていた。

 私はキーを打つ手をとめて立ち上がった。コーヒーの残っているカップを持って歩いた。かたづけてきましょうかと社員に声をかけたが必要ないということだったので、自分のカップだけを手に持って廊下に出た。そのまま歩いて廊下の突き当たりのドアを開けた。喫煙室には吸殻入れ以外なにも置かれていなかった。室内は廊下よりもわずかに気温が低いようだった。換気扇が回りつづけていた。私はポケットから煙草の箱を取り出した。その時すでに私の背後にひとりの男がいた。「喫うようになったんですか?」と私は言った。私がオフィスを出たあとすぐに追いかけてきたらしい。社員の男がそこに立っていた。彼は手ぶらだった。「いや、煙草は喫わないよ」と言って男は喫煙室のドアを閉めた。われわれは手を伸ばせば互いの肩に触ることができるくらいの距離をおいて向かいあっていた。私は相手にかまわず煙草に火をつけた。「どうかなと思って」と男は言った。何がでしょうと私は言って顔をそむけながら煙を吐いた。冷えたコーヒーをひとくち飲んだ。

「社風というか、うちの雰囲気にはもう慣れた?」と彼は訊いた。

 そうですね。皆さんよくしてくださいますし。と私は言った。

「こんなに毎日のように残業しなくてもいいんだよ。仕事がその日のうちに全部終わらないのは当たり前なんだから。ひとつ終わればまた次のひとつがある。次のノルマはつねにすでに控えている。そのサイクルは終わらない。そういうふうにしないと会社が止まって沈んでいくからね。だから適当なところで見切りをつけて帰ればいいんだよ。上手にサボるんだ。まあ、そうだね、入ったばかりの人に手をぬけというのも変な話か。これから徐々に加減もわかってくるだろうから、そうなれば会社が回っていく速度と自分のペースをうまいこと合わせられるようになると思う。以前、あんなことがあってね。うちはいま息をひそめてるみたいな感じだよ。極力問題を起こさないように、目立たないように、ってね。いま相当まじめになってる。金まわりも品質も、利益を出すことより粗探しの的にならないことを優先してやってるんだ。出る杭にならないようにね。あのことは知ってるんでしょ? うちの人間がある事件に巻き込まれてしまった話。どこかで見たり聞いたりしたことはあるでしょ? うちの名前で調べればすぐ出てくるからね。根も葉もない噂がひとり歩きしてたけど、あまり気にしないようにね。噂は噂だから。ああいうことになってから、うちの雰囲気はちょっと変わってしまったような気がする。どこかで何かのスイッチが切り替わったみたいな感じで、いつもどこか微妙にはりつめているようなんだ。事件のあとはやっぱりみんなだいぶショックを受けていたし、すぐに新しい人を入れることもできなかった。火事がおさまったあとの現場みたいにまだ余韻が残ってるんだ。みんなの中で記憶がまだ生々しい状態で残ってるんじゃないかな。おかしな情報に踊らされる人もなかにはいてね。明らかにデマだとわかるような偽情報を本当のことだと信じ込んでしまって不安がっていた。でも全然心配するようなことはないんだ。不幸な事件だったけど、もう終わった。終わったことなんだよ。いや、残念ながら真犯人はまだ見つかっていないらしいね。詳細は知らないけど。警察のかたは心配いらないと言ってくださってる。気にすることはないよ。あれからうちも社内の、身辺整理じゃないけど、あれこれ洗い直してね。どこをつっつかれても困らないし、たたかれてもほこりは出ない。個人の遺恨とかそういうのだったんじゃないかな、あの事件は」

 私たちは少しのあいだ黙った。煙草の葉はもう燃え尽きていた。私は残ったフィルター部分を吸殻入れに捨てた。出入口のほうへ目をやった。

「心配はいらないんだ」と社員の男は言った。

 私はうなずいた。

「個人の恨みつらみに関してはどうしようもないけど、社内の問題はそれが表に出るまえに排除できるようになってる」

 排除、と私は言った。

「そう。問題を解決して、後始末まできっちりやる。疑惑の種はそれが成長するまえに排除する。そういう体制をつくったんだ。おかしなことが発生しないように、社内の監視体制を強化した。あのことがあってからね」

 そうなんですか。と言って私は出入口のほうへ一歩近づいた。

「うん。そうなんだ」

 監視体制を。

「そう」

 頼もしいですね、と私は言いながらドアを開けた。

「見てるんだ」と社員が言った。



 ノートをひらいてボールペンを手に持つ。あるいはコンピュータの電源ボタンを押す。白く光るディスプレイを・ノートの白いページを漫然とながめる。整理しなければならない情報があり、考察してみなくてはならない仮説がある。しかし言葉がなにも思い浮かばないし、作業をはじめる気分にならない。ボールペンを机の上に転がす。なにも操作しない時間が続いたのでディスプレイが暗転する。椅子の背もたれに体重をあずける。上を向いて息を吐く。屋外の物音に耳をすませてみる。なにも聞こえない。夜だった。椅子を回転させて立ちあがる。キッチンへまたは給湯室へ歩いていく。冷蔵庫を開けてコーヒーのペットボトルを取り出す。ひとくち飲む。ペットボトルを持って自室の窓際に、あるいは社内の喫煙室に行く。その途中で机の上に置いてある・ポケットに入れてある煙草の箱から一本取る。ライターで火をつける。煙が発生してカーテンの近くの空間をゆらめきながら昇り消えてゆく。換気扇に吸い込まれていく。煙は生まれつづける、消えつづける。煙が発生しているあいだ、それを吸えばいい。煙草が燃えつづけているかぎりはただその煙を吸って吐いていればいい。火がついているあいだは喫煙という作業を行わなければならないのでそれをする。煙草の毒を体内につまり脳内にとり入れながらも建設的な思案ができるのであればしたらいい。できないのであれば仕方ない。ただ煙草を喫う。時間が過ぎてゆく。煙草一本分の猶予が消費される。人生の時間がけずられたと表現できる行為だったとしても、それは自らそうしたのだ。自ら望んではいないが結局容認している。煙を吸って毒素を吸収してから余りの煙を吐きだす。その行為をくり返すことで時間が過ぎてゆく。という状況を許している。することがない・できることがない、というわけでもない。できることはある。やるべき作業は残っている。優先して取り組むべきことは探さなくとも背中や肩に乗っている。にもかかわらず、とりあえず煙草を喫う。あるいは伝説を読む・書く。逃げているのだ。その箱のなかへ逃げ込んでいる。煙草一本分の煙で捏造された時間の隙間のなかへ。地名を読んだところで気象も風習もまざまざと思い浮かぶわけではない遠い土地の古い時代の物語という時空間のなかへ。仮想された微細な構造をもつその箱のなかへ逃避する。そこは地獄ではない。それは余白である。もしくは余白に書かれている。書かれるべき物語とは別の、余白に記された注釈。本来の物語とは異なる、別すじの・欄外の微小な劇。そのなかへ私は逃避し、やがて外に出てくる。本を閉じて机に置く。夢想の鍵が書物という箱の中へしまわれる。煙草を灰皿に押しつける。火が消える。時間がまた流れだす、というわけでもなく、時間はつねに流れていたし今もずっと流れつづけている。



 それは牢獄だった。あるいは揺籠だった。いずれにせよ、その箱の中に彼はいた。ながい時間を過ごした。彼が閉じ込められているあいだに城主の代替わりがあった。戦争が起きて終結した。歴史書が数冊出版された。戦争の意義をめぐっていくつかの学派がそれぞれ異なる主張を世に出した。論争は加速し、熱を帯びた。それはひとりの論者が殴り殺されたことをきっかけに紛争へ発展した。最終的にある歴史学者が処刑されて争いはおさまった。彼の著書は焼かれた。書物の山が炎の塊となって燃えあがるのを見て群衆は声をあげた。焚書の現場にひとりの男が居合わせた。彼もまた群集の中から目のまえの炎へ向かって罵声を投げかけた。火は群衆の顔を照らし、真黒い煙が立ち昇った。煙は風に煽られてゆらめき、男の鼻の中へと吸い込まれた。男はふと誰かに呼ばれたような気がした。薪がはじけた。男のいままでの人生の記憶とこれからの生活の想像が一気に凝縮されて彼の頭のなかで渦を巻いた。そして男は炎の塊の中へ腕を突き入れて焼かれつつある本を一冊抜き取った。それはもう書物の体を成していなかった。紙束の端が火で縁どられていた。立ち昇る煙が男の顔にかかった。観衆が怒号を浴びせた。そばにいる者が男に殴りかかった。男は取り囲まれて袋叩きにされた。男は驚くべき膂力をみせて群衆をはらいのけた。燻る書物をかかえて走った。なぜ自分がそのようにしたのか全くわからなかった。けれども完全に正しいことを行なっていると確信していた。いま自分がようやく自分になったと感じた。男は城ではたらく門番だった。

 門番の息子は家で食事をとっていた。家の将来について母親と話し合っているところだった。そこへ父親が帰ってきた。息子は父の姿を見て驚いた。全身が煤にまみれて黒くなり、髪は焦げ、目は血走っていた。どうしてそんな姿になったのか訊いてみると門番は手と首を振ってなんでもないと言いたそうな仕草をした。「本当のことがわかったのだ」と父親は言った。「俺たちが本来するべきことが今わかったのだ、息子よ」そう言って門番は黒いごみのような塊を息子に差し出した。「これを読め。ここに本当のことが書いてある」それを聞いて息子はうろたえた。母子は父親をなだめようとした。門番は突然どなりだして家じゅうの物を打ちこわし始めた。息子はあわてて父のからだを押さえつけようとしたが、とてつもない腕力ではねのけられた。父の喉から獣のような声があがった。息子は父の手の中にあるものを押しつけられた。それは紙束の燃え残りだった。燃えていない部分の文章はまだ読むことができそうだった。これを読めばいいのかと息子は訊いた。門番はうなずいた。わかったと息子が言った。そのとき父親のからだは一気にくずれて灰になった。こわれた食卓のそばに灰が降り積もった。

 息子は門番の職を継いだ。実直に勤めた。やがて結婚して子に恵まれた。紛争がふたたび起きることはなく、門を破ろうとする者は現れなかった。息子は徐々に出世した。城内の警備をすることになった。孫は順調に育ち、祖母は老いて亡くなった。息子が警備体制を適切に管理することで城内の秩序は保たれた。その有り様を見て城主は満足した。城内にある鍵のついた扉はすべて息子の管理下となった。ある夜、息子は階段を降りてゆき、城の最奥にある地下室の扉を開けた。子供の頃に本で読んだとおりの存在がその中にいた。そして彼は解き放たれた。彼は旅をした。あるいはその地に留まり、城主を殺して新しい主人となった。彼は数々の奇蹟を各地に残し、英雄と呼ばれることになった。あるいは暴虐な振舞いを重ねて非道な王となった。どちらの道をたどったのであれ、彼が行き着く先はひとつだった。



 狙撃手は見ていただろう。私と《彼》の邂逅を見た。あの男が私の事務所のドアを開けて、いや私がドアを開けてあの男が事務所のなかへ入ってきた、その瞬間をスコープ越しに見ていただろう。銃の性能と狙撃手自身の能力に応じた距離を私たちとのあいだに空けて、安全に完全になすべきことを実行できる場所にひそんでこちらをうかがっていただろう。私たちは無防備だった。警戒すべき相手がいるとすればそれは目のまえの見知らぬ男だった。《彼》は私のことを知っていたかもしれない。私は相手を知らなかった。撃たれる直前の男は私のことをある程度調べてから訪問したのかもしれない。事前に私に関する情報を集めて私をめぐる物語が書かれたのだろう。その結果として私という探偵を選んだのだろうか。なにかしら理にかなう理由があって警察署でなくほかの探偵事務所でもなく私の部屋を訪ねてきたのか。あるいはまったくの偶然によって私と出会ったのかもしれない。私立探偵に依頼すると決めてから電話帳をひらいて最初に目についた名前が私のそれだったのか。たまたま知人が私の顧客のひとりであってその人物が私を推薦したのかもしれない。いずれにせよ私たちは出会った。あるいは出会う直前だった。おそらく《彼》は私のことを警戒してはいなかっただろう。緊張はしていたかもしれない。私に殺されることは考えていなかっただろう。私も初対面の人間に対する一般的警戒と緊張感をもって《彼》を自室のソファへと招きはしたけれどもその人物に殺害されるかもしれないなどとは夢にも思わなかった。そして事務所からある程度の距離をおいた空間で暗殺者が呼吸を整えている可能性について思案することも全くなかった。だが《彼》は警戒していたかもしれない。狙撃手の存在を意識していたのかもしれない。どこまで《彼》が自分の人生の終端について思い描いていたかはわからない。しかし《彼》の意識のおよぶ範囲、自宅から徒歩数分の圏内あるいは自動車・電車で数時間の地域、もしくは地球規模ではりめぐらされた通信回線を介して対話が可能な遠く離れた街の家屋の一室に《彼》の殺害をもくろむ存在がいることを警戒していたかもしれない。だとしても《彼》はおのれの身を守る行為をなにひとつしていなかった。床に伏せて銃弾をかわそうとしたわけではないし、テーブルをひっくり返してその陰に隠れたのでもない。防弾ベストは着用していなかったし、屈強なボディガードを背後に控えさせていたわけでもない。私たちは無防備だった。けれども《彼》は警戒していたのかもしれない。どこかからの視線を。どこか知れぬ場所から見られているかもしれないことを意識していた可能性はある。そうでなければ何のために私のところへ来たというのか。《彼》は想像していたかもしれない。自分が見られていることを。自分がある種の秩序に取り囲まれていることを。それは《彼》を包んでいたのだろう。複雑な機構をもつそれは広く深く展開しているだろう。それの手は過去へ届き、未来へおよぶ。それは《彼》の現在を意識し、管理した。それは《彼》を監視していただろう。それの影響下にあった《彼》はやむにやまれず私のところへ来たのかもしれない。《彼》は自分が或る物語のなかにほうり込まれていることを知っていたのだろうか。自分がその秩序の中からひとつの毒素として排除されようとしていることを予感していただろうか。《彼》はその物語の作者ではなかった。それは《彼》に制御できるものではなかった。変更も編集もできなかった。何者かがシナリオを書いて《彼》は退場させられることになった。二度と舞台へ上がることはない。劇場の全貌は私たちには見えない。暗幕の向こう側にだれかいる。まだ劇は続いている。

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