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映画レビュー:ゴジラ-1.0(2023)〜それは、日本が経験した厄災と復興、その間で置き去りにされた人々のトラウマとの対決だった

ストーリー

 第二次世界大戦末期の1945年、神風特攻隊の飛行士だった敷島浩一(神木隆之介)は、搭乗機の零戦が故障したと言って、大戸島にある整備隊の基地に不時着する。敷島の機体を点検した整備兵の橘宗作(青木崇高)は、どこにも不良箇所を発見することができず、敷島が特攻を逃れるため嘘を言っているのではないかと疑う。
 その夜、敷島は海辺で不思議な光景を見る。深海魚が多数、浜辺に浮いて漂っているのだ。すると突然、巨大生物が彼らの基地に襲いかかってきた。橘は敷島に、零戦の20ミリ機関砲で、巨大生物を撃てと言うが、敷島は操縦席でただ茫然とするばかりで、撃つことができず逃げ出してしまう。そのため、整備隊は橘と敷島を除いて全滅してしまい、橘は仲間の遺体を前に、敷島に彼らの死の責任を問うて罵倒した。
 その年の冬、東京に帰郷した敷島だったが、両親は空襲で亡くなったと隣人の太田澄子(安藤サクラ)から伝えられ落胆する。失意のうちに闇市を彷徨っているとき、年若い女性大石典子(浜辺美波)からいきなり赤ん坊を預けられ、これをきっかけに、二人は彼女が空襲の際託された孤児とともに、バラック小屋で暮らし始めるが‥‥

レビュー

 ゴジラ映画は、今までに2016年の「シン・ゴジラ」しか観たことがなく、その庵野秀明監督の作風が私には合わなくて、レビューは辛口となった。「ゴジラでありながら、ほぼ政治劇である本作には、ゴジラ自身の物語もなければ、国民目線の物語も描かれることはない。いわば、政治万能主義とでもいおうか、国民と、ゴジラとの間を「政治」の壁が隔てている」というのが、私の感想だ。

 今回のゴジラは、山崎貴監督が、シン・ゴジラとは「真逆」の発想で作った、というのを聞いて、それなら観てみたい、と思い立った。
 だが、不安がなかったわけではない。山崎貴監督の作品は今までに「ALWAYS 3丁目の夕日」「SPACE BATTLESHIP ヤマト」「永遠の0」「アルキメデスの大戦」を観ていて、原作のエッセンスをうまく活かしつつ、万人に受け入れられるような最大公約数を狙って作劇する、ストーリーテリングにすぐれたヒットメーカー、という印象である。一方で、ゴジラ映画といえば、ゴジラが襲ってきて人々が恐怖のどん底に陥れられたあと、それを何らかの方法でやっつける、という筋は大方予想がつくうえに、主人公が特攻し損なった帰還兵とくれば、果たせなかった特攻でゴジラをやっつけるのかな?という読みもできてしまう。実際、私が観た作品のうち、「ヤマト」と「永遠の0」はラストに主人公が特攻して終わる話だし、正直、また同じパターンか、と思うところもあった。
 そんなわけで、期待と不安が合い半ばする状態での視聴となったが、上記の予想はある意味、その通りになったとも言えるし、いい意味で予想を超えてきたとも言える。終戦直後、特攻できなかった帰還兵、という主人公の持つバックボーンが、彼と対決することになるゴジラの象徴するものの意味を昇華させたのである。

 敷島は、特攻に行けなかった(行く前に戦争が終わった)のではなく、特攻に行きたくなかった(ために嘘をついた)という「やましさ」を心に抱いた男である。「永遠の0」の主人公、宮部とは正反対である。宮部は特攻に行きたくなかった(私は死にたくありません、が口癖)だったが、いざ出撃となったとき、整備不良の機体に部下を乗せて不時着させ、自身は虎視眈々の目で米軍の戦艦めがけて突っ込んでゆく。「死にたくない」という宮部の本音そのままに生き延びてしまった男、それが敷島なのである。
 しかも、彼は整備隊のいる島を襲ったゴジラを、撃つことができなかった。そこにいた、唯一の戦闘員だったのに、である。そして、生き延びてしまった。死にたくない、という望みはかなえたが、故郷の東京は空襲で街が失われ、両親も死んでいた。自分は死ななかったが、自分以外はみな、死んでしまった。まさに「マイナスワン」である。
 終戦後から2年後の1947年、敷島は闇市で出会った典子、彼女が連れていた赤ん坊の明子とともにバラック小屋でつましく暮らしていた。生計を立てるため、彼は旧海軍の軍人たちが多く勤める機雷除去の仕事に就いていた。そんなある日、彼らは海で異変が起きていることに気づく。ビキニ環礁でアメリカが実施した核実験(クロスロード作戦という原子爆弾の爆発実験)で被曝した深海の巨大生物ゴジラが異常な発達を遂げ、超巨大生物となって彼らに襲いかかってきたのだ。
 そして、ゴジラの再襲来をきっかけに、特攻から逃げたあの島で経験した悪夢のような出来事の記憶が蘇ってきた敷島は、深い自責の念と自罰感情に苛まれることになるのである。

 特攻から逃げて生き残ってしまったことと、ゴジラの襲来という恐怖とが、主人公・敷島の心の中で結びつくことで、観ている私たちにとっても、ゴジラの襲来、そしてそれと対決することが、ある意味「外から実録を観ているような」立場から、当事者としてその場に投げ込まれた立場へと、視点を変えさせてくれた。ただ、襲来するゴジラに恐怖し、その破壊に心ざわつかせるだけでなく、そこに敷島の過去に対する感情をかぶせてくることで、それが見るものにとってもエモーショナルな瞬間、瞬間となっているのが、この作品を、多くの人の心を揺さぶるものとさせているのではないだろうか。

 そして、それは見るものにとって「ゴジラ」が象徴するものをも、変えてしまっているのである。核実験によって生まれた怪獣・ゴジラは核の恐怖のメタファーであり、誰もが知るように、反戦・反核を象徴するアイコンであった。東日本大震災から5年後に公開された「シン・ゴジラ」では、むしろ巨大災害と原発事故のメタファーとしての意味合いが強いという印象だったが、この「ゴジラ-1.0 」は、それらすべてを内包した、戦後70余年の間に日本が経験した様々な厄災と復興、その間で置き去りにされている人々のトラウマ、そうしたものすべてを象徴しているように思えた。そしてさらに言えば、嘘をついて特攻で死ぬことから逃避した直後の敷島の前に現れ、彼がそのとき撃てなかった機銃を死ぬ恐れのあまりない機雷除去作業の最中に撃ったあと、超巨大化して再び現れたその生物、ゴジラは、あのとき死ねなかった自分、撃てなかった自分に対する、強く深い罪責感のメタファーではなかったか。
 であるからこそ、今このときも、起こっている戦争、紛争による惨劇にたいして無力である自分たち、何もできない自分たち、という状況にある日本国外の観客にも、ゴジラが象徴するその心理との戦いというドラマが、心に刺さるものになったのであろう。

 敷島は、自分に深いトラウマをもたらしたゴジラと対決するのであるが、真に対決し向き合った瞬間は、ゴジラとの最終決戦ではなく、あの島で「おまえのせいでみんな死んだ」と敷島を罵った整備兵、橘と向き合う決意をしたときではないかと思う。そして、それがこのストーリーの真に劇的なところだと思う。

 敷島と典子、明子の関係も今までにはない新しさを感じさせてくれた。予告を見る限り、典子は敷島の帰りを待っていた妻で、明子はその娘と思っていたが、そうではなく、3人はそれぞれにまったく血縁のない赤の他人なのである。「永遠の0」では、宮部が「死にたくありません」という理由として、その家族を愛する姿が描き出された。敷島には両親がいたが、「死にたくない」と彼の心を引き留める妻子はもともとなく、その思いは、むしろ愛する誰かのためというよりも、生存本能ともいうべきものから出ていると思えるところがある。それは、ビキニ環礁で被曝しても死なず、脅威の突然変異を遂げて生き延びたゴジラの、生物としての生存本能とも重なるものがある。
 そんな彼に、愛すべき疑似家族ができたとき、彼は「死んでも」ゴジラを倒したい、と思う。そうした、ベタなドラマの一歩手前で何か少しずつ今までと違ったズレのある感じが、王道でありながら新しさを感じるドラマへと、本作を導いたのではないだろうか。

 終わらない恐怖の余韻を残すラストも良かった。何より、ありがちな変な主題歌が流れて白けるラストにならないのが、大変よかった。

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