旅の寄り道、散歩道/熊川宿(福井県若狭町)

画像1 滋賀県の朽木から車で20分ほど行った道沿いにある「上中町熊川宿伝統的建造物保存地区」に行ってきました。道の駅若狭熊川宿に車を停め、そこから道標にそって歩いていくと・・・(2016年4月撮影)
画像2 最初に遭遇する建物は、番所です。お役人が、怪しい通行人がいないか改めるために詰めています。
画像3 山間の旧街道に、古い町並みが軒を連ねています。
画像4 中には廃屋とおぼしき家も・・・。軒先の箪笥は相当立派なものに見えますが。
画像5 陣屋跡もありました。もともと大津城主であった京極高次が、関ヶ原の戦いのあと、若狭一国を与えられ、その子忠高の時代に小浜藩となりました。昭和15年に立てられた旧熊川村役場は、資料館になっています。
画像6 昭和15年に立てられた旧熊川村役場は、資料館になっています。
画像7 道の両脇を、小川が流れています。
画像8 軒先の骨董がいい味を出しています。看板の絵はライオンでしょうか。
画像9 和洋たばこ、って書いてあるのかしら。
画像10 山の神やら藩主酒井忠勝やらその他諸々、いろんなものをまつった神社があります。鳥居の先には、石灯籠しか見えませんが・・・鳥居の横にあるのは古いようで新しい灯籠です。時計はカシオ!
画像11 鳥居の横にあるのは古いようで新しい灯籠です。時計はカシオ!
画像12 蓮如上人も訪れたという得法寺。
画像13 織田信長の朝倉攻めの際、徳川家康がここで一泊したというので、立ち寄ってみました。
画像14 本堂は屋根の形が変わっています。
画像15 徳川家康が腰をかけたという松があったそうです。今は枯れて、跡だけが残っています。
画像16 枯れた松の木の一部が残されていました。家康は、あっちこっちの松に腰掛けていたようですが、この看板には「伝説」と書いてありました。記念碑みたいなものでしょうね。
画像17 寺の向かいにある古い商店。昭和な看板、そして右の窓に貼ってあるポスターは、伊藤つかさでしょうか?
画像18 熊川宿は天正年間(安土桃山時代)に設けられました。宿場を流れる用水路は前川といい、このときに造られたものだそうです。江戸時代初めに延長され、灌漑用水としても利用されて、400年にわたって住民はその恩恵にあずかってきた、と看板の説明書きにありました。
画像19 ここにも神社があります。松木神社です。
画像20 鳥居をくぐったところに、こんな銅像が。小浜藩主京極氏の年貢の取り立てが厳しすぎ、次の藩主の酒井忠勝になっても変わらなかったため、庄屋の松木庄左衛門が何とかしてほしいと嘆願し続けたところ、ついに投獄され、磔刑にされてしまった、しかしおかげで嘆願は聞き入れられた、という、この土地の歴史を物語る史跡でした。この神社は昭和8年に町の有志によって建立されたものだそうです。
画像21 街道から脇道がのびています。街道から少し離れたところを北川という川が流れており、小浜からここまで、舟運で物資が運ばれていたそうです。この道はその舟着き場と街道を結ぶ道。
画像22 もときた道を戻り、道の駅へ行く前に、宿場のはずれにあった墓が目に留まりました。すべて、兵隊に行った人のお墓だったからです。
画像23 一番古いのはこれ。明治九年四月十五日に大阪鎮台(のちの師団)に入営とあります。そして明治十年五月十四日に、西南の役で、肥後国(今の熊本県)の大関山において戦死。なんと西南戦争で戦死された方のお墓です。
画像24 この方は明治三十五年十二月に陸軍に入営。明治三十七年に三塊石山にて戦死、とあります。日露戦争で亡くなられた方ですね。
画像25 こちらはお二人の名前が刻まれています。陸軍と海軍、ご兄弟でしょうか。お一人は昭和十二年に中国戦線で、もうお一人は昭和十七年にソロモン海戦で戦死されています。この宿場のはずれに残された墓に、明治以降の日本の歴史が凝縮されているかのようでした。おそらくお骨が入っていないために、道路建設などで墓地が移転した際、移されずに残されたのではないでしょうか。
画像26 静かな山間の宿場に、歴史が凝縮されている。そんな街道でした。

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