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【考察】機動戦士ガンダム「テレビ版」と「劇場版」の違いは、何を生んだか


 テレビ版「機動戦士ガンダム」に対して、劇場版三部作はダイジェストという位置付けであるが、劇場版「機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙」をみてみると、単なるダイジェストではなくセリフ等にテコ入れがされている部分が目立つ。主としてシャアとララァの関係、そしてシャアの目的意識である。どこが違うのか、変えたことで何が変わったのか、ということを少し考察してみたいと思う。

注目した変更点

(1)ララァに素顔を見せているシャア

テレビ版第34話「宿命の出会い」
 ホワイトベースとコンスコン艦隊の戦いをテレビ中継で見るシャアとララァの場面。TV版のシャアはマスクをつけたままだが‥‥

TV版第34話「宿命の出会い」より

劇場版では、マスクをはずし素顔を見せている。ついでにいうと、長手袋も外しており、かなりリラックスした様子である。

劇場版「機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙」より

(2)テキサスコロニーでのシャアとララァの会話

テレビ版第37話「テキサスの攻防」
 荒野を幌馬車で移動中、ララァは何かの気配を感じて‥‥

私と同じ人がいるのかしら
ララァ、今、何と言った
うふふ、大佐が私の心を触った感じなんです
私が? 
ララァ、冗談はやめにしてくれないか
はい。

  その後、二人のエレベーター内での会話

何を見ているんだ
大佐を。いけませんか?
構わんよ。
私に、エルメスを操縦できるのでしょうか。
怖いのか。
はい。
それは、慣れるしかないな。私がいつもついていてあげる。そうしたら、ララァはすぐに私以上のパイロットになれる。
私が、赤い彗星以上に
当たり前だ。そうでなければ、孤児だったララァをフラナガン機関に預けたりはしない。サイド6では、寂しい思いをさせてすまなかった

劇場版では、幌馬車の場面はララァがあっとシャアを見上げて

シャア:どうした?
ララァ:うふ、大佐がわたしの心をさわった感じ
シャア:そういう冗談はやめにしてくれないか

つづくエレベーター内の会話で‥‥

シャア:ララァが先刻感じたのは敵が近づいていたからだな
ララァ:大佐がさわったような優しい感じでしたから‥‥そうは思えませんでした
シャア:ということは、もしララァが敵と意志が通じ合える可能性がでたとき、戦闘力は維持するものなのかな?
ララァ:私には大佐を守っていきたいという情熱があります
シャア:わたしはおまえの才能を愛しているだけだ
ララァ:それは構いません。大佐は男性でいらっしゃるから‥‥。ですから、私は女としての筋を通させてもらうのです。これを迷惑とは思わないでください。
シャア:強いな‥‥。そういうララァは好きだ

(3)テキサスコロニーで再会したシャアとセイラの会話

TV版第38話「再会、シャアとセイラ」で、シャアとセイラとの会話は‥‥

シャア:軍を抜けろと言ったはずだ。それが、軍曹とはな
セイラ:兄さんこそ、ジオン軍にまで入って、ザビ家に復讐しようなんて、やることが筋違いではなくて?
シャア:おまえの兄が、その程度の男だと思っているのか? アルテイシア
セイラ:え?

(中略)

シュア:ジオンに入国して、ハイスクールから士官学校へ進んだのも、ザビ家に近づきたかったからだ。しかしな、アルテイシア。私だってそれから少しは大人になった。ザビ家が連邦を倒すだけでは、人類の真の平和は得られないと悟ったのだ。
セイラ:なぜ?
シャア:ニュータイプの発生だ。
セイラ:アムロがニュータイプだから?
シャア:うむ。そのニュータイプを敵にするのは面白くない。今後は手段を選べぬ、ということだ。 
セイラ:ジンバ・ラルは、ニュータイプは人類全体が変わるべき理想のタイプだと教えてくれたわ。だったら、ニュータイプを敵にする必要はないはずよ。キャスバル兄さん。兄さん、何を考えているの?
シャア:もう、手段を選べぬと言った。アルテイシアは、あの木馬から降りるのだ。
セイラ:木馬? あのホワイトベース?
シャア:ああ、ここから地球に脱出するくらいの金塊を残していく。地球に行って一生をまっとうしろ。私はもう、お前の知っている兄さんではない。
セイラ:兄さん。
シャア:マスクをしているわけがわかるか。私は、過去を捨てたのだよ。
セイラ:兄さん。
シャア:アルテイシア。その素顔をもう一度見せてくれないか。
セイラ:思い直してください。兄さん。
シャア:きれいだよ、アルテイシア。お前に戦争は似合わん。木馬を降りろよ。
セイラ:兄さん。キャスバル兄さん。キャスバル兄さん!

これが、劇場版では‥‥

シャア:アルテイシア、軍を抜けろと言ったはずだ。それが、士官とはな。
セイラ:兄さんこそ、父さんの仇撃ちをするといってわたしから離れたのに、連邦軍の敵になって‥‥、筋違いじゃないですか
シャア:ジンバ・ラルは私たちを育てながら、デギン・ザビ公王が父を暗殺したと言い続けてきた。父の死をもたらした病を仕掛けたのがデギンであることは事実だ。しかし、それを悟られぬため、公王制をしいたときに、ジオン公国と父の名を使ったのだ。宇宙移民者の独立主権を唱えて地球連邦政府に独立運動を起こした父は宇宙移民をニュータイプのエリートだとしたところに、デギンのつけ込む隙があった。宇宙移民者はエリートであるから地球に従う必要はないという論法にすりかえられたわけだ
セイラ:けど、この戦争で、いえそれ以前から人の革新は始まっていると思えるわ
シャア:それがわかる人とわからぬ人がいる。だからオールドタイプは殲滅するのだ
セイラ:オールドタイプがニュータイプを生む土壌になっているのよ。古き者すべてが悪きものではないわ
シャア:しかしな、体制にとり囲まれたニュータイプが私の敵となっているのはおもしろくない。それは私のザビ家打倒をはばむ
セイラ:アムロはわかっているわ
シャア:アムロ? パイロットでは体制は崩せんよ。ニュータイプ能力を戦争の道具に使われているだけだ
セイラ:兄さん、あなたは何を考えているの?
シャア:父の仇を討つ!
(中略)
シャア:すぐに木馬から降りろ、地球に降りられるくらいの金塊は残してゆく。お前に戦争は似合わん!
セイラ:キャスバル兄さん、兄さん

(4)キシリア少将と接見するシャアとララァ

テレビ版40話「エルメスのララァ」では、ララァがぞろぞろとした服を着ていることを、キシリアに咎められている

劇場版では、ララァにもカスタムデザインの制服が与えられている

(5)キシリアに正体を知られたときのシャアとキシリアとの会話

テレビ版41話「光る宇宙」で、キシリアはシャアの正体を知ったことを明かしている。シャアはここで「手の震えが止まりません」というが、そのときマスクは外さなかかった。そのときの会話は以下の通りである。

キシリア:で、その前に一つ聞いておきたいことがある。おまえの打倒ザビ家の行動が変わったのは、なぜだ?
シャア:私の?
キシリア:私は4歳ごろのキャスバル坊やと遊んであげたことがあるんだよ。お忘れか?
シャア:キシリア様に呼ばれたときから、いつかこのような時が来るとは思っていましたが、いざとなると怖いものです。手の震えが止まりません。
キシリア:あたしだってそうだ。おまえの素性を知ったときにはな。
シャア:それを、また。なぜ?
キシリア:ララァだ。おまえがフラナガン機関にララァを送り込んでいたな。そのおまえの先読みする能力を知って、徹底的に調べさせたわけだ。おまえもララァによってニュータイプの存在を信じ、打倒ザビ家以上のことを考え出した。
シャア:どうも。
キシリア:ギレンはア・バオア・クーで指揮をとる。
シャア:はい。
キシリア:その後のことはすべて連邦に勝ってからのこと。よろしいか。
シャア:は。確かに。

劇場版では、マスクを外して面談する。そのときの会話は以下の通り。

(前略)
キシリア:私は4歳ごろのキャスバル坊やと遊んであげたこともあるのだよ。お忘れかい? それが、がルマの死ぬ時の赤い彗星らしからぬ働きとか、フラナガン機関に接触をはじめた、先読みのシャア。少しはおかしいと思って当然だろう? そういうしたたかな士官がキャスバル坊やなんて、腹が立つよりかわいいじゃないか
シャア:ありがとうございます。キリシア様(中略)・・・ガルマ様のとき、虚しくなりました。キシリア様流にいえば、復讐のあとになんの高揚感もなくただ虚しい自分を見つけた時、おかしくなったのです。自分に笑ったのです。
キシリア:私の父もそうらしいな
シャア:で、父のいうようなニュータイプの時代の変革があるのならば、見てみたい。それが自分の野心です。
キシリア:ギレン総帥を私は好かぬ。それだけは覚えておいてくれ   

 テレビ版ではマスクをつけたまま、互いの腹の探り合いのような会話だったが、劇場版ではマスクを外し、互いに本音を曝け出している。

(6)ララァがアムロに撃墜されたときのシャアの反応

テレビ版41話「光る宇宙」のシャアは、ガンダムとの一騎打ちになった際、このように言う。

ララァ、私はガンダムを撃ちたい。私を導いてくれ、ララァ!
お手伝いします、お手伝いします、大佐。
すまん、ララァ

 結果的にアムロに追い詰められ、やられる寸前のところにララァが飛び込んできて身代わりとなり、ララァは撃墜された。そのときシャアはコンソールパネルを叩いて悔しがる。非常に感情的である。

劇場版では‥‥

ララァがシャアを庇って撃墜されたあと、シャアは静かに涙を流す。とても感傷的になっている。

そしてこのとき、次のように言う。

今の私には、ガンダムは倒せん。ララァ、私を導いてくれ‥‥

(7)ア・バオア・クー内部でのアムロとの対面時の会話

テレビ版43話「脱出」で、シャアがアムロ、セイラと対面したときの会話はこうであった。

セイラ:アムロ、大丈夫?
シャア:アルテイシア
セイラ:兄さん、やめてください。アムロに恨みがあるわけではないでしょう
シャア:しかし、敵にするわけにはいかん相手であれば、倒せるときに
セイラ:兄さんの敵は、ザビ家ではなかったの?
シャア:ザビ家打倒など、もうついでのことなのだ、アルテイシア。ジオンなきあとは、ニュータイプの時代だ。アムロ君が、この私のいうことがわかるのなら、私の同志になれ。ララァも喜ぶ
アムロ:なに?
セイラ:兄さん、何てことを、ああっ!

劇場版では、このようになっていた。

セイラ:アムロ、大丈夫?
シャア:アルテイシア
セイラ:兄さん、やめてください。アムロに恨みがあるわけではないでしょう
シャア:ララァを殺された
セイラ:それはお互いよ
シャア:なら、同志になれ。そうすればララァも喜ぶ
アムロ:正気か?
セイラ:兄さん
シャア:貴様は野放しにはできんのだ

(8)シャアとセイラ、最後の別れ

その後の、シャアとセイラの別れ際の会話は、テレビ版では‥‥

シャア:ここもだいぶ空気が薄くなってきた。アルテイシアは脱出しろ
セイラ:兄さんはどうするのです
シャア:ザビ家の人間は、やはり許せぬとわかった。そのケリはつける
セイラ:兄さん
シャア:お前ももう大人だろ。戦争も忘れろ。いい女になるのだな。アムロ君が呼んでいる

これが劇場版では少し変えられ、

シャア:ここもだいぶ空気が薄くなってきた。アルテイシアは脱出しろ
セイラ:兄さんはどうするのです
シャア:チャンスは最大限に生かす。それが、私の主義だ。
セイラ:兄さん
シャア:お前ももう大人だろ。戦争も忘れろ。いい女になるのだな。アムロ君が呼んでいる

となっている。

(9)最後にキリシアを撃つときのシャア

そしてキシリアに向けてバズーカを放つシャア、セリフは、

ガルマ、私の手向だ。姉上と仲良く暮らすがいい

で同じだが、テレビ版ではこの表情。めちゃくちゃかっこいい!そしてセイラさんにそっくりの、まごうことなきキャスバル兄さん。

 一方の劇場版では、憎しみにこもった陰険なシャアのままで、キシリアを撃つ。

変更によって、何が変わったか

 このような、9つの相違点をここではピックアップしてみた。編集によって他にも様々な点が変わっていると思うが、この9つの相違点から私が感じたことは、「この時点で、富野監督には続編の構想があったのではないか」ということである。

(1)マスクを外したシャアの本音

 まず、シャアがマスクを外す場面が、劇場版では2つ加えられている。シャアがイケメンなので、映画館のその大きな画面でご尊顔を見せてやろうというありがたい配慮なのかもしれないが、文脈の中で考えると、これは、シャアが「本音」で話していることを、表しているとみることができる。

 ララァとテレビでホワイトベースの戦闘を観戦している場面では、ララァが「白いモビルスーツが勝つわ」とガンダムの勝利を言い当て、シャアは「ララァは賢いな」と応じる。シャアが素顔を見せていることで、二人の関係が特別であることを匂わせている。

 キシリアの前でマスクを外す場面も、同様である。ここでは、会話の内容もかなり異なり、かなり踏み込んだ話をしている。まず、シャアはガルマを復讐のために見殺しにした(罠にはめて結果的にガルマはホワイトベースに向かって特攻する)ことを認めている。また、「父のいうようなニュータイプの時代の変革があるのならば、見てみたい。それが自分の野心です」と、自分の心の内を吐露している。
 ガルマが散った第10話の時点で、キリシアがシャアがジオン・ダイクンの息子キャスバルで、復讐のためガルマを陥れたことを見抜いていたとしたら、キシリアの眼力は相当のものである。彼女もまたニュータイプなのではないか。そこまで疑いたくなる会話である。
 しかもキシリアは、彼に「ギレン総帥を好かぬ」とこれまた本音を明かすわけである。つまり、ザビ家に復讐をするなら、一緒にギレンを倒そうという思いを暗に仄めかしているといえる。
 このように会話が変更されたのは、キシリアとギレンとの軋轢を描いた第39話「ニュータイプ・シャリア・ブル」のエピソードが劇場版ではまるまるカットされたからであろう。
 と同時に、富野監督が書いた小説版「機動戦士ガンダム」の展開を思わせるものでもある。編集しつつ、アップデートしているということだろう。

(2)ララァとの関係性

 ララァの前でマスクを外している様子からは、シャアが彼女を相当に信頼し心を開いていることがうかがえる。テレビ版では、ララァはテキサスコロニーでアムロの存在を感じたとき、「私と同じ人がいる」と意味深なセリフを口にし、シャアを苛立たせていた。このセリフが劇場版では省かれ、「敵と通じ合う」可能性を口にすることで、ララァから、大佐を守りたいという言葉を引き出している。シャアはララァの才能を愛し、ララァにはシャアを守りたいという情熱がある、という二人の関係性が明確にされている。

 テレビ版では、シャアとララァの間にアムロという、シャアはまだ知らないがララァには「同じ人」と感じる存在が入り込むことで、二人の間で揺らぐ微妙な心情を感じられたが、劇場版では、最初からアムロの入り込む余地はないという印象が強くなっている。

 第41話「光る宇宙」でついにアムロとララァが対戦、ニュータイプとして交感した際、シャアによって引き離されたあと、シャアはララァに私はガンダムを撃ちたい。私を導いてくれ、ララァ!と言い、ララァは一瞬躊躇したのち、お手伝いします、大佐と答える。しかし、シャアは結局アムロに追い詰められ、ララァに庇われていなければ、そこでアムロに撃墜されていた。拳を振り上げて悔しがるシャアには、ガンダムを倒せなかった、しかもララァを失った、という二重の屈辱によって感情的になっていることをひしひしと感じる。

 劇場版では、シャアはララァが自分を庇って死んだ際、静かに涙を流し、屈辱よりも悲しみを印象づけている。そのあとで、今の私には、ガンダムは倒せん。ララァ、私を導いてくれ‥‥、と呟くのだが、死してなお結びつく魂とでもいおうか、あるいは、ララァを失って初めて自分が彼女を愛し、必要としていたことに気づいた、というような印象を受ける。

 さらに、その印象を強化するのが、セイラにアムロに恨みがあるわけではないでしょうと問われたときである。テレビ版では敵にするわけにはいかん相手だから倒せるときに倒す、と言っているのに対して、劇場版ではララァを殺された、とびっくりするほどストレートである。

 劇場版では、シャアとララァとの相思相愛関係を強調し、ニュータイプとして、アムロとララァとか新しい世界を作っていくのではないか、という可能性を見せたテレビ版の印象を塗り替えている感がある。

(3)シャアの目的意識

 シャアが何のためにジオンで戦っているのか。テキサスコロニーで再会したセイラとの会話の中で、その一端が語られるのだが、テレビ版では、二人の素性と過去にフォーカスが当てられているのに対して、劇場版では、テレビ版ではまったく語られていなかったシャアの目的が鮮明に語られる。
 それがオールドタイプは殲滅する、ということである。
 シャアは、体制にとり囲まれたニュータイプが私の敵となっているのはおもしろくない。それは私のザビ家打倒をはばむ、と言う。体制に取り囲まれたニュータイプ、それはすなわちアムロであろう。それをセイラが指摘すると、パイロットでは体制は崩せんよ。ニュータイプ能力を戦争の道具に使われているだけだと、反論する。

 いや、今の時点ではシャアだってパイロットだろう、というツッコミはさておき、ここから見えるのは、シャアはニュータイプを道具として使い、体制を崩す存在となって、オールドタイプを殲滅する、という目的意識を持っている、ということだろう。これは、テレビ版にはなかったシャアの考えであり、ザビ家を倒したあと、次のステップとして何をするかを明示している。そのために、ララァが必要だったのであり、道具として使うにはあまりに強すぎるアムロは排除したい。それが、劇場版でのシャアの姿勢だったのである。

 そうした意識が、生身でアムロと対決したあとの一言、なら、同志になれ。そうすればララァも喜ぶ。貴様は野放しにはできんのだ、という言葉にも表れている。テレビ版では、ジオンなきあとはニュータイプの時代だ、だから同志になれ、と希望の持てるような言葉を語っていたが、劇場版では、放っておけば自分の脅威にしかならんから、と身も蓋もない感じある。

 ここまでくると、なるほどと思っていただけるのではないだろうか。テレビ版から劇場版へ、再編集する中で、シャアはニュータイプを道具として使い、体制を崩す存在となって、オールドタイプを殲滅するという続編の構想がある、ということを仄めかしているのではないか、と。

(4)シャアは何のためにキシリアを撃ったか

 最後に、キシリアを撃ったときのシャアの表情の違いについて見てみよう。テレビ版、劇場版いずれもシャアはマスクを取って素顔を見せているが、顔も表情も全然違う。テレビ版のシャアは、妹のセイラによく似た面立ちで、その目からは険しさが消え、清々しささえ感じる表情をしている。
 このときの彼は、仮面を捨て去って、シャアではない、ジオンの息子キャスバル・レム・ダイクンに戻っているのである。

 ガルマ、私の手向だ。姉上と仲良く暮らすがいい

 という一言を残して、彼はキリシアを撃つ。ザビ家への復讐を誓ったキャスバルだが、ザビ家の中で、ガルマはホワイトベースが、ドズルはガンダムが、ギレンはキシリアが倒したのであって、実は彼自身は一度も手を下していないことを考えると、これこそまさに、キャスバルとしての復讐だったのであり、父の仇を取ると誓った少年キャスバルに戻り、これですべてが終わる、というある種の達成感が感じられる表情となっている。

 一方の劇場版のシャアの表情は険しく、目つきはシャアらしい野心にあふれたままである。劇場版のシャアは、なぜキリシアを撃ったのだろうか。
 彼女はシャアが復讐のためガルマを陥れたことも、ニュータイプの時代の変革があるならばそれを見たいという野心も知っていた。そしてなお彼を重用し、ギレンを撃って自分がトップになることを仄めかしてさえいた。とすれば、アムロではなくキシリアこそ、シャアは同志にすべきだったのではないか。
 その理由は、シャアがアムロを貴様は野放しにはできんと言ったのと同じ理由ではないだろうか。ある意味、シャアの秘密と野心を知ってしまったキリシアは、シャアにとっては信用ならない危険人物なのである。だから、劇場版のシャアは、父の仇としてキリシアを撃ったのではなく、自分の野望の妨げになる者を排除するために、キシリアを撃ったのだ。

つながる劇場版、つながらないテレビ版


 以上のように見てみると、シャアとアムロが登場することになる続編「機動戦士Zガンダム」と「逆襲のシャア」につながるプロットが、劇場版「機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙」にすでに仕込まれていた、ということができないだろうか。

 とくに劇場版で、再会したシャアとセイラとの会話の中で語られるオールドタイプの殲滅や、パイロットでは体制は崩せん、ニュータイプ能力を道具に使われるだけといったセリフは、あれ?これ「逆シャア」で言ってたよね? そんな前からシャアはこのことを考えていたの? とびっくりしてしまう。
 ザビ家への復讐を果たしたキャスバルが、再びシャアに戻る動機はありえない。とすれば、キャスバルに戻らずシャアのまま新たな野望を抱き続けていた方が、続編を考えやすいということがあっただろう。

 シャアとのフェンシング対決でアムロはシャアの眉間を突き刺し、シャアにヘルメットがなければ即死だったと言わせている。結果的に、アムロに刺されたためにシャアはマスクを取って素顔になるのだが、このアムロの一撃によって、シャアが亡き者になった、というのがテレビ版が見せてくれたカタルシスだった。だからこそ、シャアとアムロの間で揺れていたララァの魂が自由になり、殺し合うのがニュータイプじゃないでしょ、とアムロに語りかけることによってアムロは仲間を助ける働きをすることができたのである。しかし、劇場版のララァには揺らぎがなく、シャアの道具に徹していた。その彼女が、殺し合うのがニュータイプじゃないでしょ、というのは唐突に感じる。

 だから、Zガンダムでアムロのトラウマになり、逆シャアでシャアとアムロの間に横たわって二人を争わせたのは、劇場版のララァだと思う。逆にいえば、劇場版があったからこそ、ガンダムは続編が生まれシリーズ化されたといえるだろう。
 


 






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