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人間の優劣と幸福の幅

頭ではわかっていても、できないことばっかりだな、人生、と思いながら、生きている。

「人に優しく」とか「人と比べない」とか、わが子を前に真っ当なことを口にしてみるものの、人は人と比べるものだし、世の中を生き抜いていくために人に優しくなんてしていられないことも多い。

特に「人と比べない」なんて、右ならえで育ってきた日本人には難しいことだし、子どものみならず、親もまたわが子と他の子を比べて、立ち位置を確認するみたいなところはある。まあ、平均以内に入っていればよしとするかとかなんとか。

うちの娘は成長ペースが周りのお友達と比べて遅く、ひらがなの読み書きとか、色の名称、数を覚えるといったことが小学校入学直前になってもおぼつかなく、保育園の先生に心配されたこともあった。

その前に、生まれた時から身体の成長も遅かった。もともと食が細く、体力もないため、ミルクを飲んでいても途中で寝てしまい、ミルクの一回量も少なめ。こまめに回数を重ねてミルクをあげるけれど体重は増えず、成長曲線(身体の発達の基準値)からかなり外れていたため、検診のたび、栄養相談にまわされていた。

小学生になってからは、とにかく算数が苦手で、数字の認識と実際に目でみる物の数との結び付きがうまくできず、知育教室に通わせたり、自宅でもおはじきなどの教材を使ったりして、毎日毎日同じことを繰り返し教えていた。あらゆる方法を試してもうまく伝わらず、理解力が低さに絶望することの連続だった。

夏休みの補習授業には必ずメンバー入りするし(夏休み前のテストで及第点に達していない子が参加する)、漢字テストの補習も毎回出席、算数のクラス分けも一番下、とにかく勉強ができない。加えて、人の指示を理解のも苦手。特に一年生の頃は、帰宅したらつきっきりで勉強を教え、娘に厳しくあたることも多かった。個別塾に通わせたり、算数の教え方が学べるYouTubeを探したり、とにかく親の私が必死だった。今思えば、どうかしていたと思う。

「できないのって、悔しいと思わないの?」

私はそうやって生きてきたからだろう、娘にそんな言い方をよくしていた。だけど娘は毎回こう切り返してくる。

「別に。全然なんとも思わないよ」

それを聞いて、私はガクっとなるのだけど、そうこうしているうちに、色々と私の中で納得できるようになってきた。

娘を見て、確かにマイペースだけど、じっくりと物事に向き合い、納得のいく形に落とし込みたいタイプなのだろうと見方を変えるようにした。理解力も乏しく、頼りないのだけど、その分、周りの友達に助けてもらっている、それは昔から。保育園の頃も皆が娘の手助けをしたがると先生が話していたことを思い出す。

ああ、人って本当にそれぞれなんだな。もうそれに尽きる。

その人がもつ気質というものは確かにあって、例えば体力のない人が体力のある人とまったく同じことができるかというとできないことも多々あると思う。体力があると気力も湧きやすいので、体力がある分、成し遂げられることが多いのかもしれない、その原理でいうと体力がないというのは場面によってハンデになりやすいということになるけれど、そういうことじゃなく、その人のマイナスもプラスもその人としてもっと自由に、その人が楽しく生きられるパターンがたくさんあってもいいなと思う。そういう許容の幅がある社会というか。

体力があって、瞬発力があって、訓練された(飼い慣らされた)、いわゆる男性的な世の中ではなく、その型にはまらないことへの寛容さであったり、幸福の幅を広げること、つまり何に対して幸福を感じるかの型は人よって多様だと思うから、周りが勝手にその人の幸福(ゴール)を決めつける必要もないというか。

人と比べて劣っているからストイックに努力でカバーする。そのことも大切なのだろうけれど、常に周りの基準に合わせて、自分の優劣を判断して生きてゆくのはどうなんだろうとか、自分を振り返って思う。それに、周りと同じようなことができないから劣っていると判断される筋合いなどあるのだろうか。自分の幸福がいつも他人の手の内にあっていいのだろうか。そんな生き方を子どもにさせたいだろうか。

最近、幸福とは個々人が創造するものだなと、つくづく感じている。それが自分の人生を生きるというか、幸福とはクリエイティブだなと。私はまさに絶賛製作中の身である。







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