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死にそうなときに人に助けを求めるとかいう無理ゲー

「死にたい」

そんな時はないですか?
俺にはあります。希死念慮。

じゃあ、

「死のうかな」

これはありますか?
俺はありますね。自殺企図。たまに。

それじゃあもう一息、

「死のうとした」

これはどうですか?
俺はあります。自殺未遂。2回。


いつも死にそうだ

いつも死にそうだ。苦しい。楽になりたい。

そんな思いをかれこれ10年以上抱き続けている。中学校3年生の頃には、当時は誰もそう認めてはくれなかったけれどどう控えめに考えても立派なメンヘラに成長していた。嫌われることが怖かった。もう誰にも嫌われたくなかった。

高校2〜3年生の時、通信制高校と並行してやっていたパートタイマーが辛くて苦しくて辞めたくて、でも親に「辛い、辞めたい」と言っても深刻度は伝わらなかった。そこで1回目の自殺未遂をしてパートを辞め、精神科に2ヶ月入院した。

2回目は数ヶ月前までしていた結婚の入籍間もなく。
「結婚してごめんなさい」という書き出しの手紙を枕元に置いて睡眠薬をたくさん飲もうとした。死にきれず難聴になることが怖くて、でも死ぬのも怖くて5粒でやめて大泣きした。頭がぐわんぐわんして目が回った。暗い海に海に沈んでいくように眠った。精神科に3日間、入院した。

3回目はまだない。
さすがに2回も未遂をやっていれば、そこそこの覚悟じゃ死ねないことくらいそろそろ分かってる。3回目のその時はきっと未遂ではないから、この記録が更新されることはないだろう。

でも死にたい。死にたい気持ちが消えない。


死にたい周期

何があったとか無かったとかそういうことは関係なくもない。しかし、それとは関係なく決まって「周期」が襲ってくる。
それは「女性特有」の月経によるものだったり、持病の双極性障害によるものだったりする。それらが重なったりもする。

俺の精神は上がって下がって歪んで折れる。
何がなくてもそうだが、あれば落とした食器のようになる。もうどれだけ継ぎ目が増えたか分からないし、割れた破片がどこかに飛んでいって見つからないことだってままある。

周期だって2つあって激しいのに、なんでこんなに次から次へと降り掛かってくるのか、ちょっと解せないや。呪われているのかもしれない。

そういえば俺が生まれた時にはとっくに死んでたひいじーちゃんが生前「末代まで呪ってやる」と言われたらしい。
じーちゃんは俺が物心つく前に交通事故で死んでるし生前もかなりアレだったと聞くし、その兄弟もかなり散々な感じ。お母さんはなんか大変そうだし、姉と俺は見ての通り(姉に失礼)だし、本当に呪われているのかもしれない。そろそろ許してほしいところだ。

……とにかく。
この周期によって、数時間前には考えられなかったような死の衝動が襲ってくる。何があった訳じゃなくても、周期による気分の変容が短絡的な自死行為に向かわせる可能性がないと言える訳がない。

そして、これに関する災害備蓄はない。運が悪ければ終わりだ。


助けを求めたらキリがない

そんな感じで常に様々なレベルの死にたさに襲われている。

波はあるが基本は死にたい。死にたくない・生きたいと感じる時期が珍しくて、そんな時期が訪れた日はいつも涙を流して喜んでいる(最近少し増えた)。

楽しいことがあった日も「別にいつ死んだっていいんだ」なんて、本当はちょっと生きたいくせに投げやりに、でもヘラヘラしながらそう思っている。カジュアルな捨て身、だけど結構本気だ。自分を大事にしてくれる周りの人間に対し責任感の欠片もないんだな、酷い奴だ。
でもこんな考えをこんな風に形にするのは良くないし別に振り切ってるわけでもないから「やっぱり死にたくないです、生きていたいです、お前を故意に悲しませたりしません」って付け足しておこうかな。
ここ1年半でかなり歪んでしまったな。

そんなだから、ちょっとくらい死にたさが上下しても分からない。

よく「死にたいときには人に助けを求めよう」とか自殺した人に対して「何故周りは気付いてあげられなかったのか」とか言うけれど、その答えはこうだ。


・いつも死にたいからこれといって助けを求めるタイミングがない

・"普通程度"の死にたさで助け求めるとするなら毎日四六時中LINEやダイレクトメッセージを送り続けるメンヘラおばけになる(迷惑)

・周りは「このフォロワー死にそうだな、心配だな」と思ってはいるが実際に手助けするにはみんな忙しいしただのツイートに対してDMを送るのはなかなか憚られる行為である(ツイートを垂れ流すことで救われるタイプの者もおり、俺がそれだから)

・死にたさが本当にMAXになった時は人に助けを求めるという判断が下せる状態にない


本当に助けが必要な時、人はそれを求められない。

いや、求められる人もいるかもしれない。だったらそれは才能だ。俺は「求められない:求められる」が「7:3」と言ったところ。

実際1〜2週間前にMAXの死にたさがやってきた時はどうやって死ぬかまで考えたし、実際にその方法に手を付けそうな危うさがあった。

あの時、人に助けを求めようと連絡をした(したんかい!)が、先方は忙しそうだったのですぐにLINEを止めた。1番仲良くしている人にはどうでも良い会話こそ送れたが「死にそうだ」とは言えなかった。

何でもないLINEを送れただけでも自分の中では進歩だ。実はこれは訓練の成果である。自分が辛い時に素直に他人に頼るということが昔から難しい。
よく考えたら出来ていたような気がして過去を振り返ったが「感情がコントロールできず、プライドが邪魔をし、謎に攻撃することしか出来なかった」というのが正解だ(クソですね)。


助けを求めたいけど

本当は助けてほしい。とてもとても助けてほしい。

けれど、人に頼ったところで自分の病気や辛さの根本が直接良くなることがないのは分かっている。

精神科への入院歴が何度かあるが、そこは薬と食事を与えられて、あとは基本ゆっくりと何もない病院内で静養するだけのものだった。
辛さを訴えてももらえるのは頓服薬だけで、それを飲んだ後は治まるまでただ耐えるしかない(基本治まることはない)。
主治医の診察は週2回くらいだったと思う。それ以外の時間は話す相手もいない。
結局、自分の病気と向き合って治していくのは自分でしかないと知った。

精神科に入院している時でさえこれなのに、人に相談したところで相手の時間を延々と奪ってしまうだけだ。

人生は有限、相手の貴重な時間を奪うことを俺はしたくない。
自分自身は人から「死にそう」だと相談されたら親身になるし時間を奪われたとも思わない。あまりに遠い関係だと分からないが、関わりがあればお話をするし、あまりに遠い関係だとしても気まぐれで応じるかもしれない程度には死ぬくらいなら頼ってくれて良かったと思う

が、自分がそれをやろうとなると遠慮してしまう。
「自己肯定感」が低いため、相手が自分に使える時間割けるリソース、皆無だと思ってしまう。

そうこうしていたら「時間が経てば落ち着く」という「死にたさのいなし方」を身に着けてしまった。

書いていて思い出したが、もしかしたらここ1年の話かもしれない。それまでは辛くなったら"お母さん"に電話したり、仲の良い3人と相互フォローをしていた鍵アカウントでツイートして励ましてもらっていた気がする。のだけど、今では自分から母に電話することはほとんどないし、自分以外の3人は鍵アカウントをやめてしまった。

そうなると、死にたいことを伝えて人に助けてもらうという行為は途端にハードルが上がる。
悲しいかな、コミュ障は人との会話にとてつもない労力を必要とする。ツイートを投げておいて励ましてもらうのを待つスタイル(その鍵アカウントに限ってはそういう暗黙の協定のようなものがあった)以外で助けを求めることは難しい。

難しい。非常に難しい。

そんな感じで、思考力も判断力もない時に人に助けを求めるのはなかなかに無理ゲーだと思った。

そんなこと言わずに助けを求められたら良いけれど、難しい。難易度が「おに」を超えている。


たとえ無理ゲーだとしても

いつ死ぬか分からない不安定さの中生きている。
死にたさというのは発作のようなもので、おおよそ自分のコントロール下にない。抑えられない。

ただ、繰り返しになるけれど、死にたい時に助けを求めることって無理ゲーだけどなんとかして助けを求めるのがやっぱり正解だと思う。1人で耐えようとして死んじゃったら元も子もないんだよ、死んじゃだめなんだよ。

無理ゲーだって分かってても頑張ってほしい。俺も頑張ろうと思う。
「自己肯定感」が低いので人に迷惑かけるよりも死んだ方が良い気がしてしまうが、それが間違ってることは頭では分かっているのだ。


生きるぞ。

頑張っていこうな。


読んでくれてありがとう。


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