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わたしと水素

 サムネイルの画像(上記の写真)は水素音楽ライブMIZUNONE(ミズノネ)の企画運営をしている実行委員会のメンバーだ。僕を含め山梨県内の高校生〜社会人までの仲間が集まり、2ヶ月に1回のペースで水素ライブを実施している。

水素実験教室

 これは、東京都で行った水素実験教室の写真。こちらも2月に1度のペースで水素や環境問題などに関する実験教室を実施させていただいている。

 これはYoutube企画「水素潜入レポート」。日本で実際にどのような水素開発、脱炭素開発が行われているか潜入調査を行う企画だ。これも月1くらいのペースで行っている。


 こんな風に水素に関する様々な活動を行っていると、度々「なぜ、とびchan.は水素にこだわるようになったのですか?」と問われることがある。

 個人的には、「ただ、水素と関わると決めたから」くらいしか理由が思いつかないのだが、当然そう言って納得してもらえるはずもなく、大体はその場しのぎの理由をあてがって答えていた。

 だが、水素関連の活動が拡大するにつれ、そろそろ、適当というわけにもいかなくなってきたので、ここらで一度、僕がなぜ水素とともに人生を歩ようになったのか、その経緯を整理しようと思う。

ボーイ・ミーツ・スイソ

 「スイヘーリーベ ボクノフネ」「ナナマガールシップスクラークカ」

 僕が小4のころ、NHKで「エレメントハンター」というアニメが放送されていた。冒頭の短い詩はそのアニメのEDでながれていた「スイヘーリーベ〜魔法の呪文〜」の歌詞である。

 僕はこのアニメにハマり、この歌詞を通して元素という言葉を知った。

 11歳の僕にとって、「元素」は目には見えない不思議な世界の話であり、とても興味深く思えた。

 すっかり沼にハマってしまった僕は図鑑や電子辞書で元素について調べるようになり、「スイソ」についても認識し始める。

 スイソとはこの宇宙で一番軽く、一番たくさん存在する物質であり、水やタンパク質など、他の元素とさまざまな化合物を形成している。

 これがスイソとの初めての出会いである。ただ、この時はまだあくまで大好きな元素というくくりの内の一つという認識だった。

あなたの道へ惹かれゆく運命(さだめ)

 その後、僕の元素への興味は次第に、化学、物理学、数学へと幅を広げてゆき、高専に入学してからは、一般に理系科目と呼ばれるものの大半を好きになっていた。

 高専4年生になり、研究室配属の時期になると、私は学科内で“ハードモード”と噂される研究室に行くことを決めた。理由は単純で、仲の良い友達がそこに入ったから、というだけの事だったが、結果的にこの決断が僕に2つの大きな影響を与えることとなった。

①水素研究で有名な山梨大学へ行くこと。
②将来、研究の職につくことを諦めること。

 まず一つ目。僕の行った研究室では水素燃料電池材料の開発が行われていたため、進路選択の際は水素研究で有名な山梨大学を勧められた。水素研究へのモチベーションは特になかったが、他に行く当てもなかったので、山梨大学へ行くことを決めた。水素の道へ自ずと導かれていったのだ。

 二つ目の影響は、将来研究職へつくことを諦めたことだ。高専には時々天才がいる。プログラミングの天才、ロボコンの天才などは一般的にも目にすることがあるが、化学分野にもすごい人が稀にいる。

 僕の入った研究室はハードな研究室ゆえに優秀な生徒がたくさん集まっていたように思う。私の同期を含め、諸先輩方の中には、とてもじゃないけどこの人たちと同じ土俵では戦えない、と思わってしまうような人がわんさかいた。この研究室に入ったが最後。凡人の僕はあっさりと将来研究者になることを諦めた。

2020年4月に撮影した甲府での写真

かけがえのないもの

 高専を卒業し、4月に山梨大学へ進学した僕は大いに悩んでいた。将来、一体何になれば良いのか。どうすれば、自分でも戦える土俵に上がれるのだろうか?何をすれば自分の価値を最大限発揮できるのだろうか?

 悩みの末、一点突破(単一の分野)で活躍するのは年齢的にももう無理だという結論に達した。もし自分の価値を最大限発揮するのであれば、これまでの人生で培ってきた小さな才能を余す所なく掛け算をしていく必要があるのだと考えたのだ。

 そこで、僕は手始めに高専時代に始めた音楽を科学と掛け合わせ、サイエンス・ミュージックというものを考案してみた。

 サイエンスミュージックはコンセプトとしてある程度の成果をおさめた。一部の理系コミュニティの中では面白いといって言ってもらうことができた。
 だが、実際のところまだまだ勝負できるレベルには達していない。サイエンスの土俵では、学び要素が少なすぎるし、音楽の土俵ではそもそも歯が立たない。

 そこで、少しだけミュージックの幅を広げ、エンターテイメントならOKと、することでより自由な自分らしい表現を追求し、勝てる土俵を模索した。具体的には実験教室を始めた。

保育園で行った実験教室の様子

 これはサイエンスミュージック単体に比べ幾分か良い成果を納めた。子供達の前で喋ることが好き、という、これまで知らなかった新たな強みも見えてきた。

 だが、まだまだだった。これでは幅が広すぎて、他者との優位性がつきづらい。非常に多い訳ではないが、でんじろう先生をはじめ、日本にはたくさんの「実験の先生」が存在する。
 しかも、その中には博士号を持っている科学のプロや、コミュニケーションのプロが大勢いる。ちょっとやそっとのことでは僕にチャンスなど回ってこない。

 他の人にはできない、自分だけの領域で、唯一無二にならなくてはいけないのである。

結ばれる二人 ~ 水素結合 ~

 この頃の私はまだ水素について詳しくはなかった。高専の頃、水素燃料電池に関する論文を読んでいたが、水素社会などや技術の全体像については知らないことが多かったのだ。

しかしそんな中、偶然水素と出会う

 どういった経緯か定かではないが、僕が実験講師として勤めていた教育系企業が、不思議な縁で県内の水素関連企業と共同でイベントにブースを出店者するということになった。しかもブースのテーマは「水素」で、親子向けに水素に関する実験を披露するというものだった。

水素に関するイベント(富士スピードウェイ スーパー耐久レース 水素ブース)

 そのイベントをきっかけに、次々と山梨大学の水素関係の方々と繋がることができ、しまいには水素燃料電池産業技術人材養成講座という社会人向けの講座を特別に受講させてもらえることになった。(学生としては唯一だった)

 そしてその講座を通し、水素社会について学び、考え、水素関連企業の方々の話を伺っていく中で、日本が水素に関する素晴らしい技術を保有していること、一方、社会実装の面ではで苦戦し、一般への普及では世界に一歩遅れをとっていること、そして、そのためには一般の方への理解や、業界全体の雰囲気を変えていかなければいけないことを学んぶことができた。

 講座での学びを通し、以下3つの仮説が自分の中で生まれた。

①水素社会の普及にはより多くの人の理解が必要がある
②水素について興味を持ってもらうにはエンタメの力が必要である
③水素×エンタメの分野でなら自分の個性を最大限活かすことができる

これらの思いを胸に23歳の夏、僕は水素とともに人生を歩むことを決めた。

スイソと共にかさねゆく人生

 この時期以降、自発的に水素について調べたり考えたりするようになった。

 例えば、山梨県内の水素関連施設に訪問に行ったり、水素の講座で福島県が水素研究が盛んであると聞き、その翌週に福島に単発で旅行に行ったりもした。

福島で入ってきた水素の湯

 一般の人にエンタメを通して水素社会への理解を深めてもらうために、水素で奏でる音楽ライブ「MIZUNONE」を企画し、それに使用する水素スピーカーを制作したりもした。

そうしていく中で、僕とスイソはより惹かれ合っていった。

 年末にとある用事があり、東京の江東区へいく機会があったのだが、まさにその江東区で水素の情報館「東京スイソミル」と出会うことになったのだ。

 水素のお兄さんとして活動を始めていた僕はすぐスタッフの方々と意気投合し、今では実験教室の先生をさせていただけるようにまでの関係になった。

 また、3月にはHxという、東京で活動する水素社会の実現を目指す同世代の人たちと会うこともでき、水素に関する広いつながりもできた。

 そして、だんだんと水素のお兄さんとしての自覚も芽生え、Youtubeの企画として「水素潜入レポート」をはじめた。もっともっとたくさんの思い出をスイソとともにYoutubeに記録していきたい。

 今後も、水素でやりたいことはいくらでもある。1万人規模の水素ライブ、水素のお兄さんとしてのメディア出演、水素の大規模科学実験ショー、水素の研究施設を巡る世界の旅にも出てみたい。

 今や、僕にとって、僕の人生にとって「スイソ」はかけがえのない存在になっている。そして僕は水素について、水素社会について、小学生の頃元素の沼にハマっていたように次第に魅了され続けていくのである。

 そんな「水素」が当たり前になった私にとって、「なぜ、とびchan.は水素にこだわるようになったのですか?」と問われたらどう答えればいいだろう。

 もはや幾つも理由がありすぎて、書ききれない。

 結局、「ただ、水素と関わると決めたから」くらいしか言いようがないのである。


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