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15.「アート」と「エンターテイメント」②

話を変えて、そもそも一体誰がその作品をアートだと決めているのだろうか?
現代アートには、壁にバナナを貼り付けた作品や、パーティの残骸を模した部屋の作品など、一見「アート」かどうかわからないようなものがたくさんあるように思う。実際に、パーティを模した部屋は何も知らない清掃委員さんが綺麗に掃除をしてしまって大事件になったらしい。

「アート」とは何かを考えることと、「アート」は誰が決めているのかを考えることはほとんど同じことかもしれない

「アート」に関係しそうな人として、作者、大衆、投資家、専門家、などがいる。それぞれ、作品を作った人、そに触れる人、作るための(得るための)金を出した人、ではこの中で、誰が、この作品は「アート」だと決めることができるだろうか?

誰がアートをアートにする?

ただ、このままだとワードが具体的すぎて、「アート」という抽象的なものを考える上では扱いづらい、そこで、それぞれが持つ抽象的な優位性のある要素を抜き出して考えてみることにすると、作者は「意図」、大衆は「数」、投資家は「権威」、専門家は「知識」と抽象概念に変換して考えることができる。作品の意図は作者にしかわからないし、作品を評価する数は大衆が最も寄与できる。作品の所有者である投資家は作品の扱いの全てに権限があるし、専門家は数多のアート作品から類推可能な知識を持っている。これは、絵画に限った話ではなく、音楽などの分野においても同様である。

では「意図」「数」「権威」「知識」のどれが「アート」を「アート」として決定しているのだろうか?この中で真っ先に、「数」と「知識」は排除されるだろう。万が一「数」と「知識」が「アート」を決定している場合、世の中から新たな「アート」は生まれないことになる。革新的な「アート」ほど、最初は誰にも理解されないからだ。前例がなく、ときに邪道として否定されるが、それが数十年後には一般的な「アート」となっていることがある。これまでにないからといって、それが「アート」でない理由にはならない。となると、所有者がその権威によって、これは「アート」だとすればそれは「アート」なのか?いや、それ以前にやはり制作者の「意図」により、「アート」は生まれるのだろう。モナリザは紛れもなく「アート」だが、その所有者を気にしている人はまずいないといって良い。

つまり、「アート」とは制作者の「意図」がそれを「アート」たらしめるのであって、外界がなんらかの価値基準からそれを「アート」かどうか判断することはあり得ないのである。いってしまえば、とある作品が「アート」であるかどうか決める行為(このnoteの中で私が何度かしてきた)は本質的に間違いである。

では、作者がどのような意図で作品を作ったときに、それは「アート」になるのだろうか?


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