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29夜 情報をよりよく取り入れて判断することの難しさは・・・

 8月24日からはじまった福島第1原発事故処理の過程で生まれる処理水の放出に関して,中国との関係が懸念されている.令和4年10月末現在,この国で働く外国人の雇用状況をまとめた厚生労働省の報告によれば,外国人労働者数1,822,725 人の内訳として,中国人はベトナム人に次いで385,848 人(同21.2%)となっている.

 中国国内では,情報そのものが政府によってある程度選択されているという情報があり,今回の問題に関する情報も日本では報道されているものの中国では報道されていない情報があったりするらしい.こういったことは,最近話題になっている関東大震災の折におこった偽情報に被災者が振り回されたという事例にもある通り,この国でもある事象だろう.日本で広まっている情報と祖国で広まっている情報の両方を取得できる立場にある外国人労働者の皆さんは,この件に関して情報をどのようにとらえているのだろうか.
 そもそも,情報の公平性は,関係するすべての情報を事実としての数値として公表するケースを除き,情報を出す側が事象に関する説明や数値の関係性の説明をし始めた段階で何からの意図を含んでしまうようになるわけで,逆にいえば恣意性のない情報というものはメディアにおける発信を目的とする段階ではありえないと考えるべきであろう.ということは,中国における情報の在り方も当然といえば当然ということになる.したがって,個人的な不満のはけ口にこの問題を利用するケースを除いて,処理水に対して疑問を呈する人々を一律に私たちが避難することは建設的ではないだろう.断っておくが,ここでは筆者は処理水放出の是非を問題にしているわけではない.私たちを取り巻く世界には,情報があふれているものの,その情報は情報を発信する側によって常に恣意的なものとなっていることや事象にかかわるすべての情報を満遍なく取り込むことの困難さにどのように向き合うべきかを問題にしているのである.
 自然言語処理を可能とする自動生成AIにしても,それを構築する要件定義に,偏りのある要件を変数として定義すれば,公平公正な忖度のないAIにはならないわけで,政府に対して批判的な質問をすると,回答を避けたり拒否したりする中国版AIが良い例だろう.こういったことは,中国に限った事ではなく,第二次大戦時のこの国の大本営発表の事例でも同様だろう.
 情報の正しさを判断する方法として,ネット上には様々なアドバイスがあり,どのサイトの意見も「そうだよな.」と思える方法ばかりなのだが,すべての前提条件はネットにはすべての情報が公開されているということにある.しかし,もしネットの情報に恣意性があるとしたらどうだろう.判断基準そのものが恣意的になってしまった状況で,それをよりどころとして判断を下すこと自体,最適解を得ることの困難さが出現してしまうだろう.筆者が恐れるのは,その恣意性そのものに気付かなくなってしまった社会のもとで,あたかも最適解を得たかのようにふるまってしまう自身なのだ.
 こういった状況で,私たちは何をよりどころに判断する姿勢をもてばよいのだろうか.そのよりどころを次代の人々にどのように伝えるべきなのだろうか.あるいはどのように伝えれば次代に伝えられるのだろうか.知識習得型の教授学習が集団教育において意味をなさなくなりつつある今,集団教育の価値はそこにあるような気がしてならない.では,そこにある教育とはいったいどのようなものなのだろうか.どうすればそういった教育が可能になるのだろうか.そもそも,その教育の根源にある価値は何だろうか.

 

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